小さな訪問者
夏樹はそれまでつとめていた職場をやめさせてもらい、翌月からカウンターに立つことになった。お調子者で軽い奴と思っていたのだけど、やはりそこはプロ。料理を作るときの夏樹は真剣そのもの。うーん、そういうときはいい男なのよねー。楽しみが増えたわ。
そうしてもうひとつ、ちょっとびっくりしたのが、鞍馬くんの厳しいこと、厳しいこと。営業中はそんなでもないのだか、しこみ中とかお店が終わってからは、夏樹の料理に関して本当に容赦がない。
鞍馬くんは、怒鳴ったり罵声を浴びせたりは、天地がひっくり返ってもしないのだけど、あの落ち着いた態度で微妙な味つけのことや、盛りつけのことをけっこうはっきり注意する。
だけど……
そんなときの夏樹は、ものすごくいい顔をしているのよね。本当に鞍馬くんに料理を伝授してもらえるのが、嬉しくて嬉しくてたまらないみたい。そして、注意を受けたあとは真剣に鞍馬くんの技を盗み見て、お店が閉まってから練習や研究をしている。
おかげで『はるぶすと』のランチはまた進化していってる。なにより、限定数を二十食から三十食に増やすことができた。いままであきらめて帰るお客様が多かったのだか、これで喜んでいただけそうだ。
夏樹がカウンターに入るようになってから、微妙に客層が変わってきた。
今までは、落ち着いたマダムが多かったのだが、こんな住宅街にもあるのね、近くの企業のOLさんがちょくちょくやってくるようになった。
「こんにちは、まだランチあります?」
「いらっしゃいませ、大丈夫ですよ」
その人はお店をキョロキョロ見回していたが、夏樹がいないのを知ると、ちょっとがっかりしながらそれでもカウンターに座る。
「いらっしゃいませ、朝倉ならちょっとおつかいに行ってるだけなので、すぐ戻りますよ。
水の入ったコップを出しながら小声でささやくと「え、あ、いやだ」と、照れ笑いをする。性格はどうあれ、いい男だもんね夏樹は。すると、ちょうど夏樹が帰って来た。
「たっだいまー。ちょっと時間かかっちまった。あ、いらっしゃいませ!」
相変わらず騒がしいわね、この男は。でも、
「こんにちは」
お客様嬉しそう。目があったので、目立たないように親指を立てると、いたずらっぽく返してくれた。
「ラッキー、あいてる。すみませーん二人です」
と、今度は二人連れ。当然のようにカウンターに座る。
「いらっしゃいませ。何にしますか?ってーランチに決まってますよねー」
「「はーい、お願いしまーす。」」
こちらもとっても楽しそう。こういうお客様の時、鞍馬くんは夏樹にお相手を任せて、料理に集中する。夏樹は「食後の飲み物は何にします?コーヒー?紅茶?それとも、お・れ?」とか何とか冗談を飛ばしながらも、鞍馬くんの手際を見逃さないよう頑張っている。
「きゃー、イヤだ朝倉さんったら、あはは」
「じゃあ朝倉さんにするぅ」
「はい、俺ね。え?ダメダメ、俺はおいしくないって」
「わかってますって、私はホットコーヒー」
「私はホットのミルクティーね」
「はい、かしこまりましたー」
若いお客様は、それだけで雰囲気が明るくなるので、増えるのは喜ばしいことだ。そうこうしているうちに、世間一般の昼休み時間と言うのも終わりに近づいてきた。さっきのOLさんたちが帰り支度を始めた頃、カラーンとドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
こちらは落ち着いた雰囲気をかもし出してくれる、常連のマダムだった。OLさんとちょうど入れ替わりにテーブルについて、ランチをオーダーする。
「夏樹、あちらのお客様はパンがいらないからね、覚えておいて」
「あ、はい」
そうなのだ、いちおうすべての年代に満足していただけるよう『はるぶすと』のランチはボリュームも少し多めだ。でも、ご年配のお客様にはそれが負担になるときがあるらしい。くだんのお客様も最初はいつもパンを残されてとても恐縮していたので、鞍馬くんがパンなしを提案したのだ。でも、値段はそのまま…。それだと逆にこちらが恐縮してしまうので、色々考えてお客様カードというのを作ることにした。
とりあえず鞍馬くんが常連だと認めたお客様にカードの話をする。その常連の基準というのが、なんと、私が顔を覚えるくらいよく来ている人ですって、失礼な!
でも…反論できないわね、私は人の顔を覚えるのがすごーく苦手なのだ。反対に鞍馬くんと(悔しいことに夏樹も)一度来られたお客様の顔はほとんど覚えているらしい。なので、私が顔を知っていると言うことは…少なくとも、ひと月に十回以上の割合で来られるお客様だと思う。
その常連さんが承諾してくれれば、支障のない限りプロフイールを教えてもらってカードを作り、来られるごとにスタンプを押すことにした。そして、パンがいらないなど損?をしているお客様は、スタンプ十個で一回。それ以外の人はスタンプ二十個で一回。それぞれランチの無料サービスをすることにした。
これが今のところなかなか好評だ。
「お食事終わられました」
さっきのお客様が料理を食べ終えたので、お皿を下げて鞍馬くんに言う。
「はい、それじゃあこれを」
「!」
私はデザートのプチケーキを見てびっくり。鞍馬くんは少しうなずいてお出しするよう指示する。ケーキを目の前に置くと、一目見てその人は花がほころぶようにほほえんで、頬を染めた。
「店主からです」
「ありがとう」
鞍馬くんが用意したデザートには〔お誕生日おめでとうございます〕のプレートが乗っていたのだ。カードのプロフィール欄には、そういえばお誕生日(もちろん月日のみ)も記入するところがあったな。
それにしても鞍馬くんてすごい。たまたま来られたとはいえ、今日があのお客様のお誕生日だと覚えているなんて!
小声でそのことをいうと、
「まさか、何月何日まではとても。そういえば今頃だったなと思って、さっき確認しました」
「えー、それだけでもすごい。私なんてやっと顔と名前が一致したばかりなのに」
「それはそれは…少し遅すぎますね」
はーい、それはわかっていますよーだ。でも鞍馬くんがすごすぎるのよ。と、言うことにしておこう。
帰りぎわ、さっきのお客様が鞍馬くんを呼んでくれるように言った。
「鞍馬さん、どうもありがとう。この歳になってお誕生日を祝って貰うなんて面はゆくて」
「いえ、この世に生を受けた日は誰にとっても素晴らしい日ですよ」
「ええ、嬉しかったわ」
「あらためまして、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
そういわれて、本当に嬉しそうにお客様は帰っていった。
鞍馬くんのこういうちょっとした心遣いは、どこから生まれてくるのだろう。「『はるぶすと』は、お客様に心地よい時間を過ごしていただく所だと思っていますので・・笑顔で帰っていただければ、こちらも幸せになりますし」と、以前聞いたときに言っていたけれど。
その日の午後のひととき。夏樹と私は鞍馬くんに美味しいお茶を入れてもらって、まったりとすごしていた。
カラン…
遠慮がちにドアが開かれる。「いらっしゃ…」と、言いかけてちょっととまどう。え?小学生?そこにはランドセルをしょった可愛い女の子がモジモジしながら立っていた。
「いらっしゃいませ、どうしたの?学校帰り?」
「えっと、あの、寄り道しちゃいけないって言われているんだけど…」
「うん、それで」
「鞍馬さんって人はいますか?」
え、鞍馬くん?私は訳がわからずも、鞍馬くんにこの場をバトンタッチした。
「私が鞍馬といいますが、どうしたのかな」
「あ。いた。良かったー。あのね、あの」
と、早口でまくし立てようとするその子をちょっと制して、
「お話の前に、お名前を聞いてもいいですか?」
「あ、ごめんなさい。私は、坂之下あやねといいます」
「あやねちゃん!あなたが!」
つい叫んでしまって、びっくりされる。
「あやねのこと、知って、るの?」
「ええ、えーと、この間お父さんがあやねちゃんの事をとっても自慢されていたの」
「もう、お父さんたら。しょうがないんだから…」
と言ってプーッとふくれたかと思うと、鞍馬くんに向かって、一生懸命!と言う感じで話し出した。
「あの鞍馬さん。お父さんがなにを言っても、絶対に言うこと聞かないで下さい!ね、お願い。あやねは結婚相手くらい自分で決めたいです!」
ちょうど紅茶を口に運んでいた夏樹は、ブーッと派手に吹き出した。
「け・けけ結婚相手ぇー?!」
「夏樹!きったなーい。ほれ、これで拭いて」
とおしぼりを放り投げる。夏樹はあたふたとあちこち拭きまくる。
ああそうか、私と鞍馬くんは事情がわかっているけど、夏樹は知らないんだった。
「お父さんに何か言われたのかな?」
と、鞍馬くんはあやねちゃんの目線までかがんで、話し出した。
「はい、ある日、お仕事から帰ってきて、いきなり言うの。、お父さんは鞍馬さんという、とっても素敵な結婚相手を決めてきたから、って」
「それで、あやねちゃんはどうしたの?」
「あやねは会ったこともない人となんて結婚しない!って言ったの。そしたら、会えばいいって。何遍もすごく言うの。でも、でもね。あやねは…あやねが好きなのは、正ちゃんなのに…」
と言って泣き出してしまった。
「せ、先代!じゃないシュウさん、許嫁がいたんですか?!しかもこんなちっちゃい!」
「そんなことあるわけないよ。坂之下さんがちょっとね」
苦笑しながら夏樹に言う。そして、あやねちゃんに向かって、
「…あやねちゃん、大丈夫。お父さんは、あやねちゃんが本当に嫌だと思うことはしないよ。今までもなかったよね?」
「うん」
「それなら、ちゃんと正ちゃんが大好きだと話してご覧。お父さんもきっとわかってくれるよ」
「うん…うん!わかった」
と、ちょっとホッとした様子。鞍馬くんはハンカチを出して、そっとあやねちゃんの涙をぬぐうと、カウンターに座るようにうながした。
鞍馬くんに持ち上げてもらって、カウンターに腰を落ち着けたあやねちゃんは、喫茶店が珍しいらしく、キョロキョロとあたりを見回している。ふふっさっきまで泣いていたのに。可愛いわねー。
「正ちゃんって、カッコイイの?」
と、聞いてやると、
「うん!すごーく!えっとね、サッカーやってるの。バーンってシュートするんだよ」
とても嬉しそう。
「落ち着いたかな?ココアは飲める?熱いから気をつけて」
そこへ鞍馬くんがミルクをたっぷり入れたココアを差し出した。
「わぁー、すごい!おいしそう」
そろそろと一口飲んで、
「おいしーい。でもね、でもね、ママのミルクはもっとおいしいよ」
「そうだね、お母さんの味にはかなわないよね」
「うん!」
そういいながらも美味しそうにココアを飲んでいる。夏樹と目が合うとちょっと恥ずかしそうにしたので、夏樹は笑わせようと変な顔をしてみせる。あやねちゃんは最初びっくりしながら笑っていたが、自分もあっかんべーなどして応戦していた。そんなことをしながらココアを飲み干すと、店の時計に目をやる。
「あ、もう帰らなきゃ、ママが心配する」と、カウンターを降りる。
「そう、でも一人で帰るのは危ないから、私がお家の近くまで送って行ってあげるわ。いいでしょ、鞍馬くん」
「ええ、私もお願いしようと思っていたところです」
それを聞いていたあやねちゃんは、ぴょこんとおじぎした。
「あの、ありがとう。やっぱり来てみてせいかいー」
と言いながら少し考えている風だったが、
「えっとね、あやね、優しい人が大好き。だから、もしあやねが正ちゃんと結婚できなかったら、お婿さんにしてあげるよ、くらまくん!」
と、とっても素敵な笑顔をみせた。
私はしばしあっけにとられていたが、ふと我に返ってみると鞍馬くんは何とも言えない顔をしているし、夏樹は笑いを必死にこらえているし。
「それじゃあ、またね。バイバイ!」
そう言って、来たときとは大違いの勢いでドアを開ける。走っていってしまいそうになるので、私は慌てて追いかけた。
「待ってーあやねちゃーん」
それからしばらくして、坂之下さんが、
「鞍馬くん、すまん!どうもあやねは好きな子がいるらしくてな。勝手なことしないで!と怒られたよ、だからどうか娘の話は無かったことにしてくれ」
と、土下座しそうな勢いで謝りに来た。
私と夏樹は坂之下さんの名誉のため、陰にかくれてこっそりとニヤニヤしながら、坂之下さんをなだめる鞍馬くんを傍観していた。