夏樹が就職?
「夏樹!」
驚いて入り口を見やると、いつの間にか夏樹がドアにもたれて立っていた。
「え?え?子ども?鞍馬くんって子どもがいるの?」
「いませんよ。ちなみに、同棲も同居もしていません。夏樹、いい加減なことを言うのもほどほどに」
「すみませんっす、冗談ですよー。で、どうして由利香さんがいるんすか?」
「なによ、私がいちゃいけないの?」
「由利香さんは仕事帰りだよ、夏樹。でもちょうど良かったんだ、由利香さんにも関係のあることだからね」
なんだろう、私にも関係ある事って。
「まあ座って。夏樹は夕飯食べて来た?」
「いや、まだなんすけど、さっきから良いにおいがするなーって。そしたら、由利香さんがすっごく美味そうなもん喰ってるじゃないっすかー、いいなぁ」
「じゃあ、これを。食べながら話そうか」
鞍馬くんは自分用に作ったまかないを、さっさと夏樹の前に並べた。でも、鞍馬くんも夕食まだだって言ってたのに。
「うわっいいんすかー!久しぶりだな~先代のまかない食べるの。いっただきまーす。…ハフッ…あーやっぱうまい!」
夏樹はばくばくと聞こえるような勢いで、食べている。
「鞍馬くん…あれって貴方の分じゃなかったの?」
こっそり鞍馬くんだけに聞こえるように言う。最近になってわかったが、夏樹はがさつそうに見えてけっこう繊細で優しかったりする。きっと鞍馬くんが食べていないのを知ったら、気にするからね。なのに鞍馬くんは、
「言ったでしょう?私はかすみを食べて生きてますって」
と、国家機密を話すような真剣な顔をしてささやく。
「!」
鞍馬くんってたまにこういうキャラになるのよね。もういいわ、心配してやらない。
「ところで、話って何かしら?私にも関係あるのよね?」
「はい、実は」
と、鞍馬くんは話し出した。
「夏樹にここで会ってから、ずっと考えていたのですが…。
夏樹は腕の良い料理人なのに、私が至らないせいで三代目を譲ることが出来ませんでした。そればかりか、夏樹がひどい目にあっていることも知らず、あの頃の私はただ、初代から受け継いだものを引き継ぐのにいっぱいいっぱいで、周りが見えていない馬鹿な奴だったのですよ。」
「せ…」
何か言いたげにする夏樹を目で制して、鞍馬くんは続けた。
「そんな折、依子さんが夏樹に対する暴力といってもいいような嫌がらせに気づいてくれたのです。」
その後、鞍馬くんが話してくれた内容は次のような事だった。
§ § §
ある日依子さんが厨房のそばを通りかかると、ものすごい音が聞こえてきた。「どうしたの?!」驚いて厨房に入ると、寸胴鍋がいくつも転がっていて、その横に腕を押さえて倒れ込んでいる夏樹がいた。
「夏樹!」「あ…よりこさん…。っつうー」「ちょっと!大丈夫?どうしたのよ」「な、何でもないんです」「何もないってことないわよ。ちょっといらっしゃい!」
と無理矢理、お屋敷の医務室に連れて行って手当を受けさせ、理由を言おうとしない夏樹をおどしたりすかしたりして、本当のことを聞き出したらしい。
夏樹たちに対する嫌がらせが始まったのは、鞍馬くんが代を引き継ぐと候補者たちに話してからだった。どうしてもナンバー一の夏樹とナンバー二に叶わないと思ったナンバー三の男が、陰で夏樹たちに怪我をさせようとしたり、あらぬ言いがかりをつけてお屋敷を追い出そうとしたりと、ずいぶんひどいことをしていた。でも、夏樹ももうひとりの候補も、そんな奴には絶対負けまいと、何をされても言われても無視して修行に励んでいたのだが…。
ちょうど依子さんが通りかかった時は、寸胴鍋があるはずのないところから落ちてきて、打ち所が悪ければ死んでいるような状況だった。
これはさすがに放っておけないと、依子さんがこっそり鞍馬くんに事情を話したのだった。
§ § §
「依子さんは夏樹たちにはだまって、陰で私に教えてくれました。本当に驚きましたよ。その後、私はナンバー三の男に事実を認めさせました。でも、彼も必死だったのでしょう。あとから自分のした事をつきつけられて、おびえるように泣いて謝っていましたから…。
そして、こんな無意味な争いが起きるのなら、いくらお屋敷の伝統だとはいえ、候補者をたてるのなどやめておけば良かったと思い、夏樹をすぐ三代目に指名し、私は責任をとってお屋敷をやめさせていただきました」
「え?でも夏樹は…」
「俺は辞退した。先代に料理を教えてもらえないんなら、三代目になったってしょうがないと思ってさ」
「もう夏樹に教える事なんてないよ」
「あります!あります!俺なんてまだ先代の足下にも及ばないもん」
そんなことがあったんだ、あれ?でもそれなら二人はお屋敷をやめても一緒にいたはずだよね。そんな私の疑問を察してか、
「夏樹は私と一緒に来たいと言ったのですが、私自身、自分の未熟さが許せなくて。もしかしたら、優秀な料理人をふたりもなくしていたのかもしれないのですから。だから、色んな状況から解放されて少しひとりで考えたかったのですよ」
「そうそう、あのときの先代は由利香さんより怖かったなー。ついてくるな!って。後にも先にもあんな先代は見たことないぜ」
私より怖いですって?あとで覚えてらっしゃい。
「それで、その話がどう私とつながるの?」
「ああ、肝心の話がなかなか出てきませんね。そのあと、お屋敷を出た私は夏樹と別れて自分自身のメンタルと料理の腕をもっと鍛えようと、あちこち渡り歩きました。でも、どこへ行ってもなぜか満足出来なかった。そして日本に来て、由利香さんと出会って『はるぶすと』をオープンして、夏樹が現れたとき…ああこれはもう最初から決まっていたことなのだなと思いました」
「?」
そういって夏樹の方を見て、
「どこに行っても、夏樹以上の料理人には巡り会わなかったよ。その夏樹を無碍にして、放り出して、なんてひどい奴だったんだろうと。どんなに謝っても足りないと思ってる。夏樹、すまなかった」
「せ、先代…」
「だから、もし夏樹が許してくれるというなら、嫌ではないというなら、ここで一緒に働いてくれないか?」
「!!」
夏樹はものすごくびっくりした顔をしていたが、やがてうつむくと手で顔を覆って泣き出した。
「せ・先代~ウェッ…ウェッ、なんで許せなんて言うんですかー!嫌だなんていうんですかー!お・おれがヤなわけない~。あ、あやまってほしくなんかない!ヴェーン。先代ー一緒に働きたいですー、また料理教えて下さいよぉ―」
あれあれ、涙と鼻水でものすごいことになってるわ、夏樹の顔…。そういう私もついもらい泣きするほど、夏樹は嬉しそうに泣いてるんだけどね。鞍馬くんですら、うっすら涙ぐむほどに。
「ほら!夏樹、いい男が台無しよ。鞍馬くん、そこのティッシュとって、あ、それじゃなくて高級保湿の方」
わたしは鞍馬くんからティッシュの箱を受け取ると、夏樹の鼻にティッシュをあてて鼻水をズビーっと出すよう仕向けた。
「世話が焼けるわね、もう。あとは自分でやんなさい」
夏樹はティッシュを何枚も引っ張り出して、涙と鼻水を拭いている。高級ティッシュじゃもったいなかったかな。などと思っていると、鞍馬くんがこちらに向き直って、
「由利香さんも驚かれたと思います。が、どうか夏樹が『はるぶすと』で働くことを了承していただきたいのですが…。」
「あ……えーと、コホン。もともと『はるぶすと』の店長は鞍馬 秋ですわ。私はただの従業員です。お店の方針は店長にお任せしていますことよ」
と、湿っぽい空気を払おうと、ちょっと冗談めかしていった。鞍馬くんも私の意図をくんでくれたのか、すかさずにっこり笑って、
「それでは、あらためまして、本日より私と同じく料理を担当します、朝倉 夏樹です。仲良くしてやって下さいね」
「はい、よろしくね。朝倉くん」
ようやく涙も鼻水も止まった夏樹が嬉しそうに言う。
「ありがとうございます!先代も由利香さんも!」
「夏樹、私はもう先代じゃないから、その呼び方はだめだよ」
「えー、じゃあなんて呼べばいいんだよー。店長?」
「店長もだめ。シュウでいいよ」
「げっ、呼び捨てはいくらなんでも…じゃあ、今まで通りシュウさんにします」
「わかったよ。それと、」
鞍馬くんはちょっと顔を引き締めて、
「言っておくけど、料理に関しては容赦しないよ」
「はい!うう…嬉しいーうれしいうれしいうれしいー!またせんだ・・いや、シュウさんと料理が作れるー」
また泣き出した夏樹に、ああ、また高級ティッシュが減っていくわ、とすごく感動的なシーンなのに、私はひとりそんな心配をしているのだった。