『はるぶすと』つれづれ
伊織の滞在は一週間をすぎたというのに、ぜんぜん帰ろうという気配がない。私はさすがに少し心配になってきたので聞いてみることにした。
「ねえ、伊織。もうこっちに来てずいぶんたつんだけど、京都のお店の方は大丈夫なの?」「うーん、そうだねえ」
「そうだねえって、そんなのんきなこと言って」
「まだ九条じいからSOS入ってないもん。頑張ってるんだね」
え?九条さん老体にむち打って料亭の采配してるの!いくらなんでもそれはひどいでしょ。
「伊織ひどーい。九条さん倒れちゃうわよ」
そう言うと、伊織は何を言ってるんだろうと言うような顔をして、
「九条じいがなんで倒れるの?僕が留守の間は十三代目が店を回してくれてるのに」
「十三代目?!」
「そ」
おどろいた。今までそんなこと一言も言ってないじゃない。
「十三代目がいるなんて聞いたこともなかったわよ」
「うん、確か由利香には言ってなかったね」
涼しい顔をして伊織は言う。でも、由利香には、ということは、鞍馬くんや夏樹には言ってあるのね。
「なんで私にはないしょなのよ」
「え?アハハ、由利香ってば、ないしょって幼稚園児じゃあるまいし。ちょうでちゅよ~、由利香ちゃんにはないちょでちゅよ~」
また!ほんとにすぐ人で遊ぶんだからこいつは。私は「いおり~」と、こぶしを突きつける。
「あ、ごめんごめん。でも由利香はあのときエステに行っちゃったじゃない。だから紹介する暇がなかったんだよ」
京都でエステに行ったときというと、鞍馬くんたちが厨房ツアーした時ね。じゃあ、そこに十三代目がいたんだ。え?でもちょっと待って、この間の話では、確か引退は二十年後とか言ってたわよね。そんなに長いこと代を引き継がないつもりなのかしら。
「十三代目はかわいそうだわ」
「?」
「だってあと二十年も伊織は現役でいるつもりなんでしょ」
「何のはなし?」
「この前、夏樹と未来の旅行ばなししてたとき。引退は二十年後かな、とか言ってた」
「あれ?そうだっけ?でもね~二十年後もルックスこのままなんだから、いくら僕でも当主でいるわけにはいかないでしょ」
そう言えば、伊織たちはずっとこの姿のままでいるんだった。
「だから、もってあと三年。早ければここ一~二年のうちに代を譲るつもりでいるよ。今回はその練習ってとこかな」
そういえば、伊織もこっちへ来てただ毎日遊んでるわけじゃなく、夏樹に和食を教えたり、店の手伝いをしたりしている。料亭と違って庶民的なところが珍しいらしく、「喫茶店も面白いね~。すぐにでも十三代目に店を譲ってここで雇ってもらおうかな~」などと言って鞍馬くんをあきれさせていた。
そんな話をしてしばらくしたある日。
その日も私は会社で残業をして、疲れた足をひきずりひきずりようやくマンションにたどり着いた。あ、今日もまだ『はるぶすと』開いてる。今ではもう恒例になってしまった夕食代わりのまかない頼めるかな。私はちょっと嬉しくなってお店の灯をめざす。
「ただいま。今日も開いてたんで寄らせていただきました、なーんてね」
「おかえりなさい」
あれ。今日は鞍馬くん一人だけだ。
「あ、れ。鞍馬くん一人?」
「はい。もう店は終わりましたので、二人には先に帰ってもらいました。私も今帰ろうとしていたところです」
「え?クローズ出てたっけ?灯りがついてるから嬉しくてよく見ずに入って来ちゃった、ごめんね」
と、入り口の扉をあけて札を確認する。あ、ホントだ、クローズになってる。
「そうかー残念。それなら仕方ないわね。帰ってなにか食べるもの探そう」
ガックリと肩を落とす。すると鞍馬くんは本当に可笑しそうに微笑んで、
「いいですよ、何か作りましょう。ちゃんとした食事をしていただいて、明日はそのぶん、みっちりと働いていただきますから」
「相変わらずのお心遣い、かたじけのうございますわ」
これも恒例になったちょっとした悪ふざけの言い合いをして、鞍馬くんはふふっと笑ったあと思案顔になる。さて、今日は何を作ってくれるのかな。
「今日はご飯が少し余りましたので。一品で申し訳ありませんが…」
しばらくして出て来たのは野菜がたっぷり入ったドリアだった。真ん中にのせた卵が半熟で、それをトロトロと絡めながら食べるのがまた美味しい。
「一品で充分よぉ、いつもありがとう。お野菜がいっぱい入っているのが嬉しい。栄養にも気を遣っていただいてるのね。出来の悪い従業員を持つと大変ね」
「いえ。それに従業員、ではなくて、姉のはずですが?」
「あ、まだ覚えてるのね、姉離れ。ふふふ」
猫舌の私は熱々のドリアをさましながらおそるおそる口に入れていく。その合間に京都タワーでの出来事を思い出し、夏樹はいつになったら姉離れ出来るんだろう、とか、他にもたわいのないことを二人して話しているうちに、ずいぶん時間がすぎていたらしい。
急にカランと店の扉が開いたかと思うと、
「シュウさん!」
と、夏樹が慌てた様子で入って来た。
「夏樹?」
「夏樹どうしたの?」
「あ、あれ?由利香さん。なんだよー、由利香さんが帰って来てたんでなかなか上がって来なかったんすね~。心配しましたよもう」
ふーっとため息をついて夏樹は私の隣に座る。そして、
「伊織がね、面白がってあることないこと言うもんだから。俺はシュウさんなら強盗が押し入ろうが幽霊が来ようが大丈夫だとは言ったんですけど…。なんていうか伊織の話の仕方が、ものすごく真に迫ってたんで」
ははーん。また伊織の遊びにつきあわされたんだ。とはいえ、私が鞍馬くんに夜のご飯をたかってたから、なかなか帰れなくて心配させちゃったのよね。
「ごめん、夏樹。お腹すいちゃってまた夕飯作ってもらってたの」
「見ればわかります」
夏樹はぶぅーっとふくれて言った。やれやれ、まだ姉離れは出来そうにないわ。ちょっと肩をすくめて鞍馬くんに同意を求めるとうなずいてくれたが、そのあと何故か、
「由利香さん、仕事帰りなので電話はお持ちですよね」
と確認してくる。
「ええ、持ってるわよ」
「それでしたら冬里に電話して、私が帰るのが遅くなった理由を話していただけませんか?冗談めかしているとは言え、たぶん冬里なりに心配はしていると思いますので」
ああ、そう言うこと。さすが鞍馬くんね。私はカバンから電話を取りだしてコールする。
伊織はすぐに電話をとってくれた。
「ゆーりか、どうしたの?」
「あ、伊織。じつは私いま仕事帰りで『はるぶすと』に寄り道してるの。それでね」
夕飯を作ってもらったことを説明しようとしたとき、右耳と左耳から同じ言葉が違うノイズで聞こえてきた。
「またタダ飯作ってもらったんだねー」
「伊織!」
ちょうど伊織が店の入り口から入って来るところだった。
「夏樹ってば、すごい勢いで飛び出して行くんだもん。戸締まり火の用心に時間がかかっちゃった」
「あたりまえっすよー。伊織が、さすがのシュウでも素手で多人数相手はきついのかなとか、変なことばっか言うから」
ああ、夏樹は日本で育った訳じゃないものね。強盗とかそう言うものに反応が過剰になるのはわかる気がする。
「大丈夫よ夏樹。日本じゃ喫茶店を狙う強盗は、まずいないし。でも多人数相手って…鞍馬くんってそんなに強いの?何人くらいなら倒せるの?」
「シュウなら十人以上いけるよね」
「そんなに!?」
鞍馬くんはまた!、というようにためいきをついて、
「無理に決まってます。冬里、いい加減なことを言うのもほどほどに」
「そう?ふふーん」
なんだか意味ありげな笑い。鞍馬くんは渋々という感じで言う。
「夏樹の言うように素手ではさすがに」
「え?もしかして鞍馬くん、銃なら絶対外さないとか?」
「いえ」
鞍馬くんたちは外国にいたので、ピストルやライフルなどの銃系を想像したのだけれど、実際は思ってもみない事だった。
「僕もね、シュウにあんな才能があるとは思ってもみなかったんだよねー」
「どんな才能?」
「帯刀の時代の才能と言えば」
「たいとう…あ!日本刀?」
「そ」
「く…、鞍馬くん!人を切ったことがあるの!」
そうだ、この人たちはそう言う時代も生きてきたんだ。人間の歴史って言うのはある意味恐ろしい事柄の方が多い。
「まさかー。シュウのは峰打ちってヤツ?骨ぐらいは折れたかもしれないけどね」
「人を切るために教えてもらったのではありません。当時のたしなみと護身用にと。血の気の多い人が多かったですから」
まいったな、立ち回りなんて時代劇でしか見たことがないわ。鞍馬くんって本当になんでもこなす人なのね。私はまた二の句が継げなくなった。
いろんな時代の、いろんな国の、いろんなできごとが彼らの中にはぎっしり詰まっているんだ。『はるぶすと』を改装中に見せた鞍馬くんの器用さはそれらを物語っていたのだ。
それにしても長く生きるってすごいことなんだと、今さらながらに痛感させられる。
「あ、それはそうと、由利香もいるから言っておくけど、僕そろそろ帰らなきゃならないんだよねー」
「そうなの?」
「うん、だからさ、僕、今日から由利香ん家に泊まることにするね」
「ええっ!」
「へっ?!」
「冬里!」
三者三様の驚きかたをする私たちを尻目に、伊織はまたニヤッと笑って、
「だって、いいかげんシュウにも、ベッド明け渡さなきゃー申し訳ないじゃん」
「だからって何であたしんち?!」
「私はソファで寝るのは平気だよ、冬里。なにも由利香さんの所へ行かなくても」
「ええー、どうしてみんな反対?由利香うちで一晩過ごしたときのこと、もう忘れちゃったの?ひどーい」
「え?!なにかあったんですか、由利香さん!」
夏樹ってば、何があるっていうのよ。
「ただ泊まっただけよ、伊織ったら誤解されるような言い方やめてよ」
「いっぱいKissしてあげたのにー」
「だーかーらー、あれは記憶を呼び戻すためでしょ!ほんとにもう。とにかくだめよ、ダメ」
そう言って何が何でも断る姿勢を見せると、伊織はニッと笑って言う。
「せっかく龍馬がうちに来たときのエピソード、いーっぱい教えてあげようと思ったのに」
龍馬さんですって?私はその名前を聞いたとたん即答してしまった。
「泊まって良いわよ、伊織」
「由利香さん…」
鞍馬くんがあきれたように言う。
そうなのよね、なにを隠そう、私は坂本龍馬の大ファンなのだ。伊織はなんで知ってるのかしら、龍馬さんの事を持ち出せば私が断らないって。
「なんで知ってるの?」
「ふふん、この間龍馬のお墓参りしたとき、由利香あんまりわからせないようにしてたけど、本当に嬉しそうだったもん」
「ああ」
そうなのよね。龍馬さんのお墓も久しぶりに行くから本当はすごく嬉しくて、もっとゆっくりしたかったんだけど、後の予定が詰まっていたから自重したんだ。それが伊織にはばれていたのね。
「じゃあ決まりー。僕は由利香のベッドを占領したりしないから。ソファで充分だよ」
なんでかわからないけど、私は伊織にとっても気に入られているらしく、結局帰る日までうちにお泊まりすることになった。とりあえず私の家もLDKの他に二部屋ある。両親が泊まりに来るかもしれないと考えて、布団も二組用意してあるからソファに寝なくても大丈夫。
その日の夜は龍馬さんのエピソードを、あの伊織が「もうー眠いからまた明日!」と言うほど、しつこく聞き出したのは言うまでもない…。




