空の向こうまで
穏やかに晴れた日曜日の昼下がり。
公園の大きな噴水は、日差しを浴びてキラキラと光り、小さな虹を作っていた。そこへ、たくさんの風船をワゴンに乗せた風船売りの男が、ゆっくりとワゴンを引きながら歩いて来た。ワゴンの中の色とりどりの風船達は、ふわふわと風に揺れている。
男は噴水の前にワゴンを止めると、どっかりとベンチに腰を下ろし、懐からパイプを取りだした。男の吸うパイプから、白い小さな煙が上がっていく。
ワゴンの中のとりわけ鮮やかな赤い風船は、舞い上がっていくパイプの煙を見つめていた。上へ上へと昇る煙。空へ昇っていく前に、途中で消えてしまう。
ぼくならもっと高く上がれるのに……そよ風に揺れながら赤い風船は、煙の行くもっと先の空を仰いでみる。真っ青な空。あの空の向こうに行ってみたい。赤い風船は、青空に思いをはせる。
と、青い空に一羽のツバメが現れた。ツバメは空を旋回し、噴水の方へと舞い降りてくる。赤い風船は、そのツバメをじっと見つめていた。なんて軽やかに空を飛べるんだろう?あの鳥なら、ずっとずっと空の上まで飛んでいけるんだろうなぁ……
ツバメは、噴水の水しぶきを浴びながら、美味しそうに水を飲んだ。そして、毛繕いをして一息つく。目の前のワゴンでたくさんの風船が揺れているのに気づいたツバメは、風船達の方へと飛んでいった。悪戯好きのツバメは、風船に興味津々だ。
羽をパタパタさせながら、一つだけ飛び出ている赤い風船をくちばしでつつく。
『イタッ……ツバメさんつつかないで。割れちゃうよ』
『ほんのちょっと突っついただけじゃないか。面白いね、君たちは!』
ツバメは、風船達をポンポンとつつき、風船が揺れるのを面白がる。ツバメが突っつくたびに、風船達は悲鳴をあげた。ツバメに割られてはお終いだ。空を飛べないまま死んでしまう。
赤い風船が泣きそうになった時、風船売りの男がツバメに気づき、立ち上がってツバメを手で追い払った。ツバメは素早く飛んで逃げたが、また戻って来て風船近くで羽をパタパタさせながら浮かんでいた。
そこへ、母親に手を引かれながら小さな女の子がやって来た。女の子は鮮やかな風船達を見つけると、母親の手を放れて駆け寄ってきた。
「風船ちょうだい!」
女の子は顔をほころばせながら、色とりどりの風船を見上げる。
「どの風船がいいかな?」
風船売りの問いかけに、女の子は浮かんでいる風船を一つ一つ品定めする。
「あれがいい!」
女の子は一番鮮やかな赤い風船を指さした。ぼく?ぼくを買ってくれるの?赤い風船は、ワクワクしながら女の子を見つめた。
後から来た母親にお金を払ってもらって、女の子は赤い風船を手渡された。
女の子の手の中でふわふわ揺れながら、赤い風船は上機嫌で公園を移動した。空まではまだまだ遠いけれど、女の子と歩きながら風に吹かれるのは気持ち良い。
『おや、風船君、買ってもらったんだね』
さっきのツバメが、赤い風船の後からついて来た。
『だけど、随分ゆっくりとしたスピードだな』
小さな女の子の歩く速度は、かなり遅かった。時々立ち止まったり、よろめいたりする。
『とっても気持ちいいよ!動けるって楽しいね!』
ちっちゃな女の子の手に持たれ、赤い風船は楽しそうにポンポン弾む。ツバメはその上をグルグル旋回しながらついて行った。
女の子は片手で母親と手をつなぎ、もう片方で赤い風船を持ちながら、楽しそうに歩いて行く。と、前方に女の子の父親らしき人の姿が見え、女の子は母親の手を放す。
「パパ!」
赤い風船を揺らせながら、女の子は父親の方へ駆けていく。ヨチヨチした危ない足取りだ。
『気をつけて!』
ツバメは女の子に声をかけたけれど、女の子の耳には鳥のさえずりにしか聞こえない。
『あっ!』
ツバメが叫んだ時には、女の子は地面に転んでいた。わっと泣き出す女の子。その拍子に手に持っていた赤い風船を手放してしまった。
『わぁー!』
突然の急上昇に、赤い風船は驚いた。見る見る女の子の手から離れ、上へ上へと上がっていく。
『助けて!どうしたらいいの!?』
ツバメは赤い風船を追って飛んでいく。
『何にもしなくていいんだよ。風に乗って身を任せたらいいのさ』
ツバメは赤い風船の元まで飛んで来ると、コツンとくちばしで風船をつついた。
『君ってスゴイな、もうこんなに高く飛んでるよ』
落ち着きを取り戻した赤い風船が下を見ると、公園は既に後方に小さくなって見えた。
『公園があんなに遠くなってる……ぼくはこれからどこへ行くの?』
空を飛びたかったはずだけど、赤い風船は急に恐くなってきた。
『あれ?空を飛んでみたかったんじゃないの?君はもう何処へだって行けるんだよ』
ツバメは赤い風船の周りを宙返りしながら、クルクル回る。
『……でも、一人で空を飛ぶのは初めてだから、恐いんだ』
『大丈夫。僕が一緒に飛んであげるよ。今日の風は気持ちいい!』
風がヒューッと吹いてきて、赤い風船を勢いよく前に押し出した。
『あっ!あのとんがった屋根は時計台だね』
目の前に時計台の広場が見えてきた。公園から見えた時計台の屋根は、随分遠く高く見えた。それが、今はこんなに近く大きく見える。
赤い風船は、時計の文字盤の横を通りかかる。いつも正確な時間を刻む街の時計台。一時間おきに静かな街に鐘の音を響かせ、人々に時間を知らせてくれる。
『時計の針って、こんなに大きかったんだね』
その時、大きな針がカチッと一メモリ進み、時計の針はちょうど正午になった。正午を告げる鐘の音が高らかに鳴り響く。赤い風船は、あまりの鐘の音の大きさにビックリした。時計台はこの街のシンボル。今、その目の前にいることが嬉しかった。
鐘の音を聞いているうちに気持ちが落ち着いてきて、だんだん怖さがなくなってきた。
『時計台さん、ありがとう』
赤い風船は、ゆっくりと時計台を通り過ぎて行った。
『お、良い感じで風に乗ってるじゃないか?飛び方が上手くなってきたね』
ふわふわと気持ち良さそうに飛んでいく赤い風船の後ろを、ツバメはゆっくりと追っていく。
『うん、風に乗るって気持ちいいね!』
赤い風船とツバメは、ゆっくりゆっくり晴れ渡った空を飛んでいった。
街を越え、郊外の草原まで来た時、どこかからカアカアと鳴く声が聞こえてきた。
『マズイ!暴れん坊のカラスだ!』
『カラス?』
赤い風船がキョロキョロと辺りを見回すと、空の向こうに黒い点が見えた。その点は次第に大きくなり、スピードを上げて近づいてくる。
『君を狙ってる!逃げよう』
ツバメは赤い風船の紐をくちばしでくわえると、グンとスピードを出して逃げ出した。
『わあ〜!!』
目の回りそうな速さに、赤い風船は悲鳴をあげた。ツバメは風船を持って、急降下する。アッという間に大きなカラスは近づいてきた。
『カアカア、おかしいな。赤いお宝が見えたはずだが?』
キラキラ光る物や珍しい物が大好きなカラスは、今日もお宝探しに燃えていた。カアカア騒ぎながら、ふと下を見ると、地上すれすれの所をツバメが風船をくわえて飛んでいた。
『ツバメの奴め!あれは俺様のお宝だ!』
腹を立てたカラスは、ツバメを追って下降する。ツバメはカラスの姿を確認すると、翼を返して急上昇した。
『待てー!!』
カラスも後を追って上昇しようとする。が、カラスはツバメのように素早く方向転換することが出来なかった。急下降したため、そのままドーン!と地面にぶつかってしまった。
『イタタタタッ!!』
仰向けにひっくりかえったカラスを見て、ツバメは更に上昇して飛び続ける。紐を持たれた赤い風船は、失神寸前だった。
『もっとゆっくり飛んでよぉ……』
赤い風船はフラフラになりながら、泣きそうな声で訴える。ツバメは鋭く風船を睨んで首を振る。そして、目の前に広がる森の木々の中へと入って行った。
一番葉の茂った木を見つけると、身を隠すように赤い風船を小枝にくくりつけた。
『カラスは一度狙った物はしつこく追いかけてくるから、安心出来ないよ』
ようやく口を開くことが出来たツバメは、急いで風船に言った。
しばらく、森の中でじっとしていると、上空でカラスの鳴き声が聞こえてきた。
『お〜い、どこだ?俺様のお宝〜』
カラスの鳴き声は、さっきと違って力強さがなかった。
『お〜い、イタタタタ……』
思いっきり地面にぶつけた背中が痛むらしい。よろめきながらも必死で赤い風船を探し、カアカアと小さく鳴きながら、やがて遠ざかって行った。
『フー、危ないとこだった』
カラスの鳴き声が完全に消えた後、ツバメは赤い風船の紐を枝からほどいた。風船はするりと枝を離れ、森の上空へと舞い上がる。ツバメも後に続いた。
『空には危険もいっぱいあるんだよ。鋭いくちばしや爪でひっかかれたら、君はすぐに爆発しちゃうからね』
『うん、ありがとう。気をつけるよ』
赤い風船とツバメは、仲良く並んで空を飛んでいった。森の向こうには、大きな海が広がっていた。真っ青な海が、日の光を浴びてキラキラと輝いている。
『わあ!綺麗だなぁ』
海を見るのが初めての赤い風船は、その雄大な美しさに感動した。
『この海の向こうには何があるの?』
『ずっと向こうは外国だよ。秋の終わりには、僕はこの海の向こう側まで飛んでいくんだよ』
『ぼくも行ってみたいなぁ』
『今はまだダメだよ。向こう側は冬だから、僕は凍えてしまう』
『ふ〜ん』
『おっ、イルカ達だ!』
海の上を跳ねながら、泳いでいるイルカ達の群れが見えた。ツバメは下に降りて行きイルカの真上を一緒に飛んでみる。
しばらく、海の上をふわふわと飛んでいた赤い風船は、空の上にもキラキラとした光りを見つけた。まだ空は明るいが、それは小さく光っている。
『ツバメさん、あの光るものは何?』
ツバメはイルカの群れと別れて、赤い風船の元に戻ってきた。
『あれは、空に浮かぶお星様さ。もう少しして日が暮れると、もっとたくさん見えてくるよ』
『へぇ〜、あのお星様のところまで行ってみたいな』
『それは無理だよ。海の向こうの外国より、もっとずっと遠いところにあるんだから』
『そんなに遠いの?あんなに近くでキラキラしてるのに?』
赤い風船には、空の星がすぐ近くで光っているように見えた。
それから、海の上を進んでいくと、太陽はだんだんと西の海に落ちていった。真っ赤に燃えるような夕日は、海の色も赤く染め、赤い風船の色ももっと赤く染めた。
日が沈み、空は次第に薄暗くなり、海の上にも夜の気配が立ちこめてきた。
『風船君、僕はそろそろ帰らなきゃならない。君は、もっと遠くへ行くの?』
『うん、もっともっと遠くへ行くよ』
赤い風船は、暗くなった空を見上げた。さっきは一つだけだったお星様が、今は何個も光っている。
『ツバメさん、お星様がだんだん増えてきたよ!』
『今にもっとたくさん出てくるさ。空一面が星でいっぱいになるんだ』
『きれいだなぁ』
赤い風船は、うっとりと星空を眺める。
『ぼくね、やっぱりお星様のところまで行けるような気がする』
赤い風船はそう言いながら、ゆっくりゆっくり空を飛んでいく。
『そうだな、君なら行けるかもしれないね』
星空に吸い込まれるように飛んでいく赤い風船を見つめながら、ツバメはそう思った。
『それじゃ、風船君、さようなら』
『さようなら、ツバメさん、ありがとう』
ツバメは赤い風船の周りを一、二度旋回し、最後にコツンと軽く風船をつついて去っていった。
やがて、辺りは暗くなり、夜空には数え切れないくらいたくさんの星達が現れた。赤い風船は、眩しいくらい美しく輝く星空を眺めながら、少しずつ少しずつ星達へと近づいていった。
その頃、誰もいないひっそりとした夜の公園では、公園の木の枝に止まったツバメが、星の瞬く夜空を眺めていた。
『風船君は、今頃何処を飛んでいるんだろう?』
風船の力では、それ程遠くへは行けないはず。けれど、あの赤い風船なら空の果て星の元へまでも行けるような気がした。
『あっ……』
その時、流れ星が一つ黒い空を横切っていった。まばゆい光りが空に尾を引く。赤い風船はあの流れ星に乗って、誰も行ったことのない世界に行ったのかもしれないな……ツバメは広がる夜空を見つめながら、そう思った。
読んで下さってありがとうございました!
これは三題噺「風船」「時計」「夜空」を元に考えた物語です。三つのお題は小道具として使う方が良いのかもしれませんが(^^;)、「風船」を主人公にしたストレートなお話になりました。また、今度別の三題噺でも書いてみたいと思います。