#038 「図書館で二人きり」
放課後の図書館は、ひっそりと静まり返っていた。窓から差し込む西日が、本棚の影を長く床へ伸ばしている。ページをめくる音も、遠くで椅子が引かれる音も、すべてが柔らかく吸い込まれていく。想太は机にノートを広げ、シャーペンを走らせていた。今日こそは復習を終わらせる。そう決めて、ここへ来たのだ。紙の上を滑る芯の音。一定のリズム。ようやく集中しかけた、そのとき。
「……あれ? 想太?」
静かな声。想太は顔を上げた。そこに立っていたのは、はるなだった。逆光の中で、輪郭だけが一瞬浮かび上がる。
「は、はるな!? なんでここに?」
思わず声が大きくなる。
「しっ」
はるなが口元に指を当てる。
「静かに」
小さく苦笑する。そのまま、迷いなく想太の正面の席へと回り込んだ。椅子を引く音が、静かな空間に響く。
「……勉強しに来たの。ここなら落ち着けるから」
声は落ち着いている。けれど、椅子に座る瞬間、制服の裾を整える指先だけがわずかに急いでいた。
想太の心臓が一拍遅れて跳ねる。なんで、わざわざ正面なんだ。斜めでも、隣でもなく。真正面。距離は机一枚分。それでも、近い。
「なに? そんなに驚いた顔して」
はるなが首をかしげる。視線はまっすぐだ。
「いや、別に……」
想太は慌ててノートへ目を落とす。だが、集中できるはずがない。向かいに座るはるなの視線。筆記音。ページをめくる仕草。すべてが意識に引っかかる。
……気にしすぎだ。
そう思いながらも、視線が上がる。
はるなは真剣な顔でノートを見ている。けれど。シャーペンを持つ指の動きが、ほんのわずかに速い。
「ふふっ」
小さな笑い声。
「な、なに?」
想太が顔を上げると、はるなが少し身を乗り出していた。
「字、きれいだね」
そう言いながら、さらに距離が縮まる。机越しとはいえ、息がかかりそうなほど。想太の呼吸が止まる。
「ち、近いって……!」
思わず椅子を引く。はるなは引かない。その距離に気づいているはずなのに、目を逸らさない。ただ、ほんの一瞬だけ瞬きをする。
そのまま、静かに言う。
「図書館なんだから、声小さくして」
論点をずらす。平静な声。けれど、耳の先がわずかに赤い。そのとき。
「静かにお願いします」
カウンターから司書の声が飛んできた。想太はびくりと背筋を伸ばす。はるなは一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと姿勢を戻した。椅子の脚が床をかすめる音。沈黙。数秒。やけに長い。西日が、机の端を橙色に染める。
「……ごめん。邪魔しちゃった?」
はるなが小さく言う。視線は外さない。
「いや……別に。むしろ、ありがたい」
想太は視線を落とす。何がありがたいのか、自分でもよくわからない。ただ、向かいにいることが、落ち着かないのに――嫌ではない。再びシャーペンを走らせる。紙の上に、少しだけ線が歪む。向かいからも、筆記音が聞こえる。
一定のはずのリズム。けれど。はるなのシャーペンは、さっきから時々止まる。一瞬。また動く。西日が少しずつ角度を変えていく。二人の間の距離は変わらない。それでも。図書館の静寂の中で、確かに何かが動き始めていた。
想太はまだ、その正体に名前をつけられない。けれど、はるなはもう、目を逸らしてはいなかった。




