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婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


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九日目の夜に提言書を書き上げた。


 全三十二ページ。帝国南部の交易拠点再編案、中間マージンの適正化、交易管理局の設置案、三年間の収支予測。図表を十二枚つけ、王国側の農産物輸出データも添付した。


 翌朝クラウスに手渡すと、その場で目を通した彼が眼鏡の奥で目を丸くした。


「これ、十日で書いたんですか」


「九日です。最後の一日は推敲に使いたかったので」


「……あなた、本当に学生ですか?」


 苦笑しつつも、クラウスは「今日中に陛下にお届けします」と言って書類を抱えて去った。


 結果が来たのは、三日後だった。



 今度は召喚状ではなく、クラウスが直接学院に来た。


「陛下がお呼びです。今すぐ」


「今すぐ?」


「ええ。馬車を待たせてあります」


 講義の途中だったが、皇帝の召喚は全てに優先する。教授に断りを入れて、クラウスの馬車に乗り込んだ。


 帝城に着き、前回と同じ執務室に通された。


 エドヴァルドは机の向こうに座っていた。私の提言書が開かれた状態で目の前にある。ページのあちこちに、黒インクで書き込みがされていた。


「座れ」


 座った。


「読んだ」


「はい」


「クロイツ港の中間マージン率を四割と書いているが、実際のデータと照合した。三割八分だ。概算としては許容範囲だが、正確さに欠ける」


「申し訳ございません。学院の図書館のデータが二年前のものでしたので——」


「言い訳は要らん。次は最新のデータを使え。必要なら宮廷の資料室へのアクセス権を出す」


 宮廷の資料室。それは帝国の機密に近い経済データにアクセスできるということだ。聴講生に与えられる権限ではない。


「交易管理局の設置案は検討に値する。ただし、既存の商会との調整が甘い。商会側が反発した場合の対策が書かれていない」


「それについては——」


「待て。全部言う」


 エドヴァルドは提言書のページを繰りながら、項目ごとに指摘を加えた。数字の精度、制度設計の穴、政治的な実現可能性。一つ一つが的確で、容赦がない。


 だが、否定ではなかった。改善を求めているのだ。


「以上だ。修正して再提出しろ。期限は七日」


「承知いたしました」


「それと」


 エドヴァルドがペンを置いた。


「全体としては——悪くなかった」


 二度目の「悪くない」。クラウスが言った通りなら、これは最上級の賛辞に近い。


 だが私が注目したのは別のことだった。エドヴァルドの書き込み。提言書のあちこちに入った黒インクのメモは、三十二ページの全てに及んでいた。つまり、一ページも飛ばさずに読んだということだ。


 忙しいはずの皇帝が、聴講生の提言書を隅々まで読み込んだ。


 嬉しかった。純粋に。自分の仕事をきちんと読んでもらえることが、こんなに嬉しいなんて。前世では企画書を出しても「見とく」と言われたまま引き出しに消えるのが常だった。


「陛下」


「何だ」


「丁寧にお読みいただき、ありがとうございます」


 エドヴァルドの動きが一瞬止まった。


「……当然だ。提出されたものは読む。それが上に立つ者の務めだ」


 素っ気ない口調だが、耳の先がわずかに赤くなっている——気のせいか。この距離では判別しがたい。


「では七日後に修正版をお持ちします。失礼いたします」


 立ち上がって礼をし、部屋を出ようとした。


「デュラン」


 また、背後から呼び止められた。


「何でしょう」


「お前、寝ているか」


 予想外の質問だった。


「……はい?」


「目の下に隈がある。九日で三十二ページ書いたと言ったな。徹夜したのか」


「いえ、毎日少しは寝て——」


「嘘をつくなと言ったはずだ」


 見抜かれた。正直に言えば、最後の三日はほとんど寝ていない。


「……二、三時間は」


「馬鹿か」


 冷たい声だった。だが、怒りとは違う響きがある。


「倒れたら元も子もない。七日の期限は十日に延ばす。ちゃんと寝ろ」


「は——はい」


「行け」


 扉が閉まった。


 廊下に出ると、またクラウスが待っていた。にやにやしている。


「聞こえていましたよ。陛下が他人の体調を気遣うなんて、本当に珍しい」


「そうなんですか」


「ええ。陛下ご自身は三日徹夜しても平気な顔をしている方ですからね。他人にもそれを求めるかと思いきや——あなたには寝ろと」


 クラウスが意味ありげに笑った。


「まあ、あまり深読みしないでくださいね。陛下は合理的な方です。部下が倒れれば業務に支障が出る。それだけのことでしょう」


 それだけのこと。そうかもしれない。


 でも、あの「馬鹿か」の声色を、私は忘れられなかった。



 修正版の提言書は十日後に提出した。今度は宮廷の資料室で最新のデータを使い、商会との調整案も加えた。全四十ページ。


 結果、提言書の一部が実際の政策として採用された。


 クロイツ港の交易マージンの見直しと、暫定的な交易管理官の配置。小さな一歩だが、帝国南部の交易は目に見えて改善し始めた。


 それをきっかけに、エドヴァルドは私を定期的に執務室に呼ぶようになった。


 最初は政策に関する意見を求めるだけだった。帝国東部の鉱山経営について、北部の防衛費の配分について、王国との外交文書の解釈について。私が王国と帝国の両方の事情を知る人間であることが、想像以上に重宝されたのだ。


 回数を重ねるうちに、会話は政策の枠を超え始めた。


 ある日、執務室で交易の話が一段落した後、エドヴァルドが不意に言った。


「お前は帝国の歴史書をよく読んでいるようだな」


「ヴォルフ教授に勧められたものを中心に」


「シュタインベルクの『氷原の民』は読んだか」


「はい。先週読み終えました。帝国建国期の遊牧民の統合過程が、驚くほど精緻に記録されていて——」


 それから三十分、歴史書の話をした。


 エドヴァルドは読書家だった。執務の合間にも常に本を読んでいる。歴史、経済、哲学。その知識量は膨大で、議論をすると圧倒されそうになる。だが私が前世の知識を織り交ぜて意見を述べると、彼は黙って聞いた。反論するときも感情的にはならず、論理で返してくる。


 対等に話ができる相手を求めていたのだ、と感じた。


 皇帝の周りにいるのは、媚びる者か、恐れる者か、利用しようとする者ばかりだ。率直に意見を言い、間違いを指摘し、それでいて敬意を忘れない相手——エドヴァルドにとって、それは希少な存在だったのだろう。


 ある日の帰り際、ふとした沈黙の後にエドヴァルドが言った。


「お前は不思議な人間だな」


「何がでしょう」


「俺に媚びない。かといって虚勢も張らない。ただ——まっすぐだ」


「媚びて得られるものに興味がないだけです。虚勢を張っても陛下には見破られますし」


「ふん」


 鼻で笑ったように見えたが、口元はわずかに緩んでいた。


「明日も来い。帝国北部の防衛計画について意見が欲しい」


「明日は学院の試験なのですが」


「では明後日」


「承知いたしました」


 帝城を出て、夕暮れの道を歩いた。


 振り返ると、執務室の窓に明かりが灯っている。まだ仕事をしているのだろう。あの人は、いつ休んでいるのだろう。


 胸の奥が、きゅっと締まった。


 これは——何だろう。


 ゲームの攻略で感じていた「好き」とは質が違う。画面の向こうのキャラクターに対する憧れではなく、もっと生々しい感情。あの人の無表情の裏にある孤独が見えてしまう。あの人が一人で背負っている重さが伝わってしまう。


 手を伸ばしたい、と思った。


 でも今はまだ、その資格がない。聴講生の私にできることは限られている。


「……これはゲームの攻略なんかじゃない」


 立ち止まって、冷たい夜風の中で呟いた。


 白い息が闇に溶けていく。


 心臓が少し速く打っている。


 これは私自身の感情だ。佐藤真奈美でもなく、悪役令嬢セラフィーナでもなく——この世界で、この人生を生きている「私」の気持ち。


 星を見上げた。帝国の空に、無数の光が瞬いている。


 まだ名前をつけたくなかった。名前をつけたら、もう戻れない気がした。


 だから今は、ただ——もう少しだけ、あの人の近くにいたいと思った。

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