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婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


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その日の召喚状は、前回よりもさらに簡潔だった。


『明日午後二時。帝城東翼。執務室。——クラウス』


 執務室。前回の謁見の間ではなく、皇帝の私的な執務空間。つまり、公式な謁見ではなく、もう少し踏み込んだ用件ということだ。


 翌日、指定された時刻に帝城を訪れると、クラウスが回廊の角で待っていた。


「やあ、セラフィーナ殿。お待ちしていましたよ」


「クラウス様。お呼びいただきありがとうございます」


「堅い堅い。学院での評判は上々だと聞いていますよ。ヴォルフ教授がえらくお気に入りだとか」


 クラウスは飄々とした態度で歩きながら話す。眼鏡の奥の目は笑っているが、鋭さも同居している。この人は油断ならない。


「陛下がどのようなご用件か、教えていただけますか」


「さあ。俺に分かるのは、陛下がここ数日妙に機嫌がいいということだけです。陛下の機嫌がいいというのは、つまり普段より少しだけ無愛想度が下がる程度ですがね」


 軽口を叩きながらも、クラウスの足取りに迷いはない。長い回廊を抜け、護衛の兵士が立つ扉の前で立ち止まった。


「こちらです。中でお待ちです」


 ノックの後、扉が開いた。



 執務室は謁見の間よりずっと狭く、そして書類の山だった。


 大きな樫の机の上に羊皮紙が積み上げられ、棚には革表紙の本がびっしりと並んでいる。壁には帝国の大きな地図。窓は一つだけで、そこから差し込む光が室内をぎりぎり照らしている。


 机の向こうに、エドヴァルドがいた。


 前回の軍服ではなく、黒い詰め襟の上着だけの軽装。マントもなく、銀髪を無造作に後ろに流している。公式の場ではない、素に近い姿。


 書類から目を上げたエドヴァルドが、私を見た。


「来たか。座れ」


 机の前に椅子が一つ用意されていた。座ると、エドヴァルドとの距離は二メートルほど。謁見の間の十メートルとは比較にならない近さだ。


 紫水晶の瞳が間近にある。この距離で見ると、瞳の奥に深い藍色が混じっているのが分かる。冷たいだけではない、複雑な色。


「お前の講義でのレポートを読んだ」


 エドヴァルドが一枚の紙を机の上に出した。私がヴォルフ教授に提出した、通商条約改定に関するレポートだった。


「ヴォルフが持ってきた。あの偏屈が褒める生徒は滅多にいない」


「恐縮です」


「世辞は要らん。内容について聞く」


 エドヴァルドがレポートの一節を指差した。


「ここに『帝国南部の交易拠点を再編し、中間業者を介さない直接取引の仕組みを構築すべき』とある。具体的にはどうする」


 試されている、と直感した。レポートに書いた理論が、実際の政策として成り立つのかどうか。机上の空論ではないことを証明しろ、と。


「帝国南部のクロイツ港を例にお話しします」


 前世の知識と、学院の図書館で調べた帝国の交易データを頭の中で組み立てた。


「現在、クロイツ港を通じた王国との交易は、帝国側の大手商会三社がほぼ独占しています。これらの商会が中間マージンを取るため、帝国の生産者が受け取る利益は実際の取引額の六割程度。残りの四割が仲介コストとして消えています」


「それは知っている。だが商会を排除すれば流通が止まる」


「排除ではなく、役割の再定義です。商会には物流と品質管理を担ってもらい、価格交渉と契約は帝国政府が設置する交易管理局が仲立ちする。商会の利益は保証しつつ、不当なマージンを抑える。生産者の取り分が増えれば、生産量も品質も上がります」


「交易管理局の運営コストは」


「初期投資は必要ですが、マージンの適正化による税収増で三年以内に回収可能と見積もります。詳細な試算が必要でしたら、お時間をいただければ——」


「作れ」


 エドヴァルドが遮った。


「今言った内容を、具体的な数字を入れて政策提言書にまとめろ。期限は十日。クラウスに渡せ」


 一瞬、耳を疑った。


 政策提言書。聴講生の私に、帝国の実際の政策に関する提言書を書けと。


「陛下、私はまだ聴講生の身です。帝国の政策に口を出す立場では——」


「立場は俺が決める。能力があるなら使う。それが帝国だ」


 有無を言わせない口調だった。


「お前が優秀だと聞いた。ならば帝国の役に立ってみろ」


 その言葉に、ゲームの記憶が重なった。


 原作の隠しルートで、エドヴァルドがヒロインに初めて心を開くきっかけとなるイベント。それが「皇帝からの課題」だった。ヒロインの能力を試すために課題を与え、その結果次第で態度が変わる——好感度の分岐点。


 今まさに、そのイベントの中にいる。


 ただし原作では、課題はもっと簡単なものだった。外交文書の翻訳とか、歴史問題への回答とか。実際の政策提言を求められるのは、原作をはるかに超えた難易度だ。


 でも。


「承りました。十日以内に提出いたします」


 迷う理由はなかった。これは試験であると同時にチャンスだ。ここで結果を出せば、帝国における私の立場が確立される。


 エドヴァルドが無言で頷いた。それが「行っていい」の合図だと理解して、立ち上がった。


 部屋を出ようとしたとき、背後から声がかかった。


「デュラン」


 振り返る。


「あのレポートの最後の一文。『交易は二国間の信頼の証であり、数字だけでは計れない価値がある』。あれは本心か」


 不意を突かれた。あの一文は、レポートの学術的な内容からは浮いている。つい書いてしまった前世の感覚——ビジネスの根底にあるのは結局、人と人との信頼だという信念。


「はい。本心です」


 エドヴァルドは数秒間、何も言わなかった。それから視線を書類に戻し、小さく呟いた。


「悪くない」


 扉が閉まった後、廊下でクラウスが待っていた。


「どうでしたか」


「政策提言書を十日で書けと言われました」


「おやおや。陛下にしては随分と——期待しているということですね」


「これ、普通のことなんですか?」


「普通ではありません。陛下が外部の人間に直接課題を出すのは、俺が知る限り初めてです」


 クラウスが眼鏡を押し上げた。


「セラフィーナ殿。一つだけ助言を。陛下は嘘を嫌います。飾った言葉も嫌います。あの方が求めているのは、真実だけです」


「心に留めておきます」


「それと——陛下がお褒めになるのは極めて珍しいことです。今日の『悪くない』は、陛下の語彙では最上級の賛辞に近い」


 クラウスは軽く手を振って去っていった。


 帝城の長い回廊を一人で歩きながら、考えた。


 十日で政策提言書。帝国南部の交易データを集め、試算し、具体的な制度設計まで書き上げる。学院の講義と並行して。


 正直、かなりハードだ。前世のブラック企業時代を思い出す難易度。


 でも、あの頃と決定的に違うことがある。


 あの頃は、誰のために働いているのか分からなかった。見えない株主のために数字を積み上げて、評価されることもなく、ただ消耗していくだけだった。


 今は違う。


 エドヴァルドの「悪くない」が、まだ耳に残っている。あの冷たい声の中にあった、かすかな——本当にかすかな肯定の響き。


 あれをもう一度聞きたい、と思った。


 帝城の門を出ると、夕暮れの空にアイスジルバーの街並みが広がっていた。白い息を吐きながら、学院への道を急いだ。


 十日。やってやる。


 寮に着くなり机に向かい、白紙の羊皮紙を広げた。まずは構成を組み立てる。帝国南部の交易の現状分析、問題点の整理、改善案の提示、数値的な根拠、実施スケジュール。前世の企画書のフォーマットが頭に浮かぶ。


 ブリギッテが帰ってきて、机に向かう私を見た。


「また何か書いているの。最近毎晩遅いわね」


「ちょっと大きな宿題を出されちゃって」


「宿題? どの教授の」


「えっと……ちょっと言えない相手」


 ブリギッテが怪訝な顔をしたが、深くは追及しなかった。代わりに、温かいお茶を淹れて机の隅に置いてくれた。


「無理しすぎないでね」


「ありがとう、ブリギッテ」


 帝国式のハーブティーは、体の芯から温まる味がした。


 ペンを走らせながら、心の中で小さくガッツポーズをした。


 まだ十日ある。全力でやれば、きっと——きっと結果は出せる。

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