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皇帝の馬車が学院を去った後、エドヴァルドは車中で一度も口を開かなかった。
向かいに座るクラウスは、その沈黙の意味を正確に読み取っていた。十年来の側近として、エドヴァルドの無言にはいくつかの種類があることを知っている。興味がないときの無言。怒っているときの無言。そして——考え込んでいるときの無言。
今は三つ目だ。
「陛下」
「何だ」
「先ほどの令嬢について、お調べしましょうか」
エドヴァルドは窓の外を見たまま答えた。
「セラフィーナ・デュラン。王国の公爵家の令嬢。婚約を解消して帝国に来たと言っていた」
「ええ。デュラン公爵家といえば、王国では屈指の名門です。その令嬢が婚約破棄されて帝国に逃げてきた——これだけでも相当な事情がありそうですが」
「逃げてきた、とは限らん」
エドヴァルドの目が細くなった。
「あの女の目は、逃げてきた人間の目ではなかった」
クラウスは内心で眉を上げた。陛下がわざわざ他人の目について言及するのは珍しい。
「どのような目でしたか?」
「覚悟を決めた人間の目だ。何かを捨てて、何かを掴みに来た」
しばらく沈黙が続いた後、エドヴァルドが言った。
「クラウス。あの女を調べろ。王国での経歴、婚約破棄の経緯、帝国に来た本当の目的。全て洗え」
「承知いたしました」
クラウスは薄く笑った。調べろ、と言うということは、興味を持ったということだ。氷の皇帝が他人に興味を持つこと自体が、極めて稀な出来事だった。
同じ頃、私は学院の寮に案内されていた。
寮は学院の東棟にあり、二人部屋が基本だった。聴講生は正規の生徒と同じ寮に入ることになる。案内役の事務員に連れられて三階の一室に着くと、部屋の中にはすでに先客がいた。
開いたドアの向こうに立っていたのは、赤い髪を短く切りそろえた少女だった。鋭い目つきに、そばかすの散った頬。背は私より少し低いが、姿勢がよく、どこか軍人のような雰囲気がある。
「あなたが新しい同室者?」
開口一番、値踏みするような視線を向けられた。
「セラフィーナ・デュランです。ルクレシア王国から来ました。よろしくお願いします」
「王国?」
赤い髪の少女の眉が跳ねた。明らかに警戒の色が浮かんでいる。
「ブリギッテ・フォン・ホーエンシュタイン。ホーエンシュタイン伯爵家の者よ。……王国人と同室になるとは思わなかった」
歓迎されていないのは明白だった。帝国と王国の関係は良好とは言いがたい。国境付近での通商摩擦や、過去の戦争の記憶もある。帝国の貴族令嬢が王国人に警戒心を持つのは自然なことだ。
「ご迷惑をおかけしないよう努めます。何かご不快なことがあれば、おっしゃってください」
笑顔で言ったが、ブリギッテは「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。
部屋は清潔で簡素だった。二つのベッド、二つの机、共用の本棚と小さな暖炉。窓からは学院の中庭が見える。王国の学園の豪華な個室に比べればだいぶ質素だが、不満はない。むしろこのくらいの方が落ち着く。
荷ほどきをしながら、ブリギッテの様子を窺った。彼女は自分の机に向かって何かを書いている。背中がぴんと伸びていて、ペンの動きに迷いがない。
「ブリギッテさん、一つ聞いてもいいかしら」
「……何」
「学院の図書館はどこにありますか? 帝国の外交史に関する文献を探したいのですが」
ブリギッテの手が止まった。ゆっくりとこちらを振り返る。
「外交史? 王国の人間が、帝国の外交史を?」
「ええ。帝国のことをもっと知りたいんです。教科書だけでは足りなくて」
ブリギッテはしばらく私の顔を見つめ、それから小さくため息をついた。
「本館の西棟。二階が歴史関連よ。帝国語が読めるなら、ヴォルフ教授の『大陸外交通史』がいいわ。五百年分の帝国と周辺国の関係が網羅されている」
「ありがとう。明日さっそく行ってみるわ」
「……変わった人ね、あなた」
それだけ言って、ブリギッテは再び机に向き直った。だが、その背中の強張りが少しだけ和らいだ気がした。
翌日から、帝国での生活が始まった。
朝は六時に起床。寮の食堂で朝食を取り、八時から講義。聴講生は好きな講義を選べるが、私は外交史、経済学、帝国法の三つを中心に組んだ。午後は図書館で自習。夕方には学院の庭を散歩して、帝国の空気に体を慣らす。
講義は全て帝国語で行われた。マルタの教育のおかげで聴き取りは問題なかったが、学術用語には苦労した。分からない単語はその場でメモし、夜に辞書で調べる。前世で英語の資格試験の勉強をしていた頃を思い出した。あの頃は仕事の合間を縫って、通勤電車の中でテキストを読んでいた。
一週間が過ぎた頃、少しずつ周囲の視線が変わってきた。
最初は「王国から来た変わり者」として遠巻きにされていた。帝国の生徒たちは王国人に対して、華やかだが軽薄、という偏見を持っている。だが講義で積極的に質問し、図書館で毎日遅くまで勉強している私の姿を見て、「あの王国人は真面目だ」という評判が少しずつ広まった。
ブリギッテも変わった。
最初はほとんど口をきかなかったが、私が夜遅くまで帝国法の教科書と格闘しているのを見て「ここ、分からないなら教えてあげる」とぶっきらぼうに言ってくれたのが転機だった。
「ありがとう、ブリギッテ。助かるわ」
「べ、別に。同室者が落第したら私の評価にも関わるからよ」
典型的なツンデレだ。前世の自分なら心の中でそう突っ込んでいただろう。でも今は、素直に嬉しかった。帝国で初めてできた、友人と呼べるかもしれない存在。
十日目の朝だった。
講義が始まる前、教室に帝国の紋章が入った封書が届いた。宛名は私。差出人は——宰相補佐官クラウス・フォン・ラインハルト。
手が震えた。封を開ける。
内容は短かった。
『セラフィーナ・デュラン殿。皇帝陛下が貴殿との面会を希望されている。明後日の午後三時、帝城ヴァイスブルクの東翼・謁見の間にて。正装で来られたし。——宰相補佐官クラウス・フォン・ラインハルト』
手紙を二度読み返した。
皇帝が私に会いたいと言っている。
原作の隠しルートでは、皇帝との最初のイベントは「学院で偶然再会する」だった。学院の視察に来た皇帝と廊下でぶつかり、落とした本を拾ってもらう——という、いかにも乙女ゲーム的な展開。
だが、あの初日の出会いで流れが変わったのだろう。正式な召喚状が来るというのは、原作にはないオリジナル展開だ。
良い兆候なのか、悪い兆候なのか。
分からない。でも、逃げる理由はない。
「どうしたの。顔色が悪いわよ」
ブリギッテが横から覗き込んできた。手紙をさりげなく閉じたが、紋章は見られた。
「それ、帝城からの……」
「うん。ちょっと、呼ばれちゃったみたい」
「皇帝陛下に?」
ブリギッテの目が驚きで丸くなった。それから、何か言いかけて口を閉じた。
「……気をつけてね」
「ありがとう」
ブリギッテの声に心配の色があった。皇帝に呼ばれるということは、良くも悪くも注目されるということだ。帝国の宮廷政治に巻き込まれる可能性もある。
でも、覚悟はとっくにできている。
寮の部屋に戻り、マルタに手紙を見せた。
「皇帝陛下が……。お嬢様、これは大変なことですわ」
「分かっている。マルタ、正装の準備をお願い。持ってきたドレスの中で一番帝国風のもの」
「それでしたら、奥様の形見の紺碧のドレスがございます。帝国の仕立て屋が作ったもので、帝国の宮廷でも通用する品ですわ」
「母のドレス……。ぴったりね」
窓の外を見た。帝城の白銀の尖塔が、夕日に照らされて琥珀色に輝いている。
あの城の中に、彼がいる。
ゲームのときは画面をタップするだけでよかった。選択肢を選んで、好感度が上がるのを確認して、セーブして、やり直して。
でもこれは現実だ。セーブもロードもない。選択肢の正解も分からない。
胸の奥が、期待と緊張でぎゅっと締まった。
「大丈夫」
自分に言い聞かせた。
「大丈夫。私はこのために、七年間準備してきたんだから」
鏡の前に立った。翡翠の瞳が、決意に満ちた光を宿してこちらを見返した。
明後日、帝城に行く。
氷の皇帝に、もう一度会いに行く。




