表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

4

断罪の翌朝、王都は噂で持ちきりだった。


 第三王子アルベールが卒業パーティーでデュラン公爵令嬢との婚約を破棄した——それだけなら貴族社会では珍しくもない話だ。問題は、その後だった。



 王宮の一室で、アルベールは苛立ちを隠せずにいた。


「どういうことだ、ロベール」


「申し訳ございません、殿下。ですが、いくら調べても——」


「証拠がないだと? あの女が三年間リュミエールをいじめていたのは事実だろう!」


 ロベールは額の汗を拭いながら首を横に振った。


「それが……学園の記録を調べましたが、セラフィーナ様に関する苦情は一件も出ておりません。教師たちに聞いても、素行に問題があったという話は誰からも出てきませんでした」


 アルベールはテーブルを拳で叩いた。


「リュミエールが泣いていたのは俺が見た。廊下で一人で泣いていたんだ。それはセラフィーナの仕業に決まっている」


「ですが、リュミエール様ご本人が、セラフィーナ様には何もされていないとおっしゃっておりまして……」


「あいつは優しいから庇っているんだ!」


 もう一人の取り巻き、ジャン=ポールが恐る恐る口を開いた。


「殿下、それよりも問題がございます。学園の教師たちの間で、昨夜の件が問題視されております。セラフィーナ様は成績上位者であり、学園への寄付や平民生徒への支援記録もあるそうで……証拠なき断罪だったのではないか、という声が」


「何だと」


「さらに、今朝の貴族院でも話題になっているようです。デュラン公爵閣下が沈黙を保っていることが、かえって不気味だと」


 アルベールの顔から血の気が引いた。


 デュラン公爵家は王国でも五指に入る名門だ。政治力、経済力、そして軍事面での影響力も大きい。その公爵家の一人娘を公衆の前で侮辱した。証拠もなしに。


 冷静に考えれば、自分がやったことの重大さに気づくはずだ。だがアルベールは冷静ではなかった。リュミエールへの恋心が全ての判断を歪めていた。


「……あの女は帝国に行くと言っていたな」


「はい。今朝、デュラン家の馬車が王都を出たという報告がございます」


「逃がすな。王宮に召喚しろ」


「殿下、それは……」


 ジャン=ポールが困った顔をした。


「セラフィーナ様は正式な渡航許可証をお持ちです。それも国王陛下の御名入りの。王子殿下の命令で止めることはできません」


「父上が許可を出したのか?」


 アルベールは絶句した。自分の父が、自分の知らないところで婚約者の出国を認めていた。それが何を意味するのか——父もまた、この婚約破棄を愚行と見なしていたのだ。


 部屋に重い沈黙が落ちた。



 一方、その頃。


 デュラン公爵家の屋敷では、出発の準備が最終段階に入っていた。


 私は最後の荷造りを終え、書斎にいる父のもとを訪れた。


 書斎のドアを開けると、父は窓際に立って外を眺めていた。大柄な体躯に白髪の混じった金髪。厳めしい顔立ちだが、目元にはいつも穏やかな光がある。デュラン公爵レオポルド。王国きっての実力者であり、私の世界で最も信頼できる人。


「お父様」


「おお、セラフィーナ。準備はできたか」


「はい」


 父が椅子に座り、私にも座るよう促した。執務机の上には紅茶が二つ用意されている。最後の茶会、ということだろう。


「昨夜のことは聞いた」


 父の声は静かだった。怒りを感じないわけではないだろうが、表には出さない。政治家として長年培ってきた自制心だ。


「予定通り、ですわ。お父様にはお話しした通りです」


「ああ。だが予定通りだからといって、腹が立たんわけではない」


 ふっと口元が緩んだ。


「あの小僧に一発くらい殴ってやりたいところだが、さすがに王子を殴れば大問題だからな」


「お父様」


「冗談だ。……半分くらいは」


 紅茶を一口飲んで、父は続けた。


「セラフィーナ。帝国に行くお前に、一つだけ言っておく」


「何でしょう」


「お前の母も帝国の人間だった。強い女だった。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の足で歩いた。俺がこの家を守ってこられたのは、あいつの助言があったからだ」


 父は滅多に母のことを話さない。話すときは、いつも目が少し赤くなる。


「お前はあいつに似ている。見た目だけじゃない。芯の強さが同じだ。だから俺は心配していない。帝国に行っても、お前はお前の道を見つける」


「……お父様」


 涙が出そうになった。堪えた。ここで泣いたら、父はもっと心配する。


「ありがとうございます。必ず、お父様に恥じない生き方をします」


「恥じるも何も、お前は俺の自慢の娘だ。それは変わらん」


 父が立ち上がり、大きな手で私の頭を撫でた。十歳の頃から変わらない、温かい手。


「困ったことがあれば、いつでも便りをよこせ。デュラン家の力はお前のためにある」


「はい」


 今度は堪えきれなかった。一粒だけ、涙が落ちた。父はそれを見て、ただ静かに微笑んだ。



 屋敷の裏口に、地味な馬車が待っていた。


 御者台にはギルベルトが座り、馬車の中にはマルタが先に乗り込んでいる。荷物は最小限だ。衣服、書物、そして母の遺品のいくつか。帝国での生活に必要なものは、現地で揃える手はずになっている。


 使用人たちが並んで見送ってくれた。幼い頃から可愛がってくれた料理長が泣いていた。庭師の老人が「花が咲いたらお送りしますよ」と言ってくれた。


「皆、ありがとう。元気でいてね」


 笑顔を作って手を振り、馬車に乗り込んだ。


 ドアが閉まると、マルタが黙ってハンカチを差し出してくれた。


「泣いてないわ」


「泣いてよいのですよ、お嬢様」


「……少しだけ」


 馬車が動き出した。窓の外をデュラン家の屋敷が遠ざかっていく。赤い屋根と白い壁。母が植えた薔薇の庭。父の書斎の窓に、大きな影が立っているのが見えた。


 手を振った。父の影も手を振り返した。


 屋敷が見えなくなっても、しばらく窓の外を見ていた。やがて王都の街並みが流れ始め、石畳の通りが土の道に変わり、白い建物の群れが緑の丘に代わった。


「お嬢様。国境までは二日の道のりです。最初の宿場町まで半日ほどですわ」


 マルタが穏やかに言った。


「ええ。ありがとう、マルタ」


 深呼吸した。涙はもう乾いている。


 窓の外には夏の空が広がっていた。白い雲が西に流れていく。国境は北だ。北に行けば行くほど、空気は冷たくなり、風景は変わる。母が生まれた国。雪と銀の国。


 不思議と、恐怖はなかった。


 前世で東京のワンルームに帰るとき感じていたあの虚しさ、あの疲労感。明日も同じ日が続くという絶望。あれに比べれば、未知の国に向かう馬車の中は、ずっと希望に満ちている。


 隣に座るマルタが、馬車の揺れに合わせて小さく歌を口ずさみ始めた。帝国の子守歌だ。母がよく歌ってくれたのと同じ旋律。


 目を閉じて、その歌に身を任せた。


 王都が遠ざかっていく。アルベールも、断罪も、悪役令嬢という肩書きも。全てが後ろに流れていく。


 前を見よう。


 次に目を開けたとき、見えるのは新しい景色だ。


 馬車の窓から差し込む光が、膝の上に落ちた。その光の中で、私は静かに微笑んだ。


 さよなら、王国。


 ありがとう、お父様。


 これから行きます——ヴァルトシュタイン帝国。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ