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断罪の翌朝、王都は噂で持ちきりだった。
第三王子アルベールが卒業パーティーでデュラン公爵令嬢との婚約を破棄した——それだけなら貴族社会では珍しくもない話だ。問題は、その後だった。
王宮の一室で、アルベールは苛立ちを隠せずにいた。
「どういうことだ、ロベール」
「申し訳ございません、殿下。ですが、いくら調べても——」
「証拠がないだと? あの女が三年間リュミエールをいじめていたのは事実だろう!」
ロベールは額の汗を拭いながら首を横に振った。
「それが……学園の記録を調べましたが、セラフィーナ様に関する苦情は一件も出ておりません。教師たちに聞いても、素行に問題があったという話は誰からも出てきませんでした」
アルベールはテーブルを拳で叩いた。
「リュミエールが泣いていたのは俺が見た。廊下で一人で泣いていたんだ。それはセラフィーナの仕業に決まっている」
「ですが、リュミエール様ご本人が、セラフィーナ様には何もされていないとおっしゃっておりまして……」
「あいつは優しいから庇っているんだ!」
もう一人の取り巻き、ジャン=ポールが恐る恐る口を開いた。
「殿下、それよりも問題がございます。学園の教師たちの間で、昨夜の件が問題視されております。セラフィーナ様は成績上位者であり、学園への寄付や平民生徒への支援記録もあるそうで……証拠なき断罪だったのではないか、という声が」
「何だと」
「さらに、今朝の貴族院でも話題になっているようです。デュラン公爵閣下が沈黙を保っていることが、かえって不気味だと」
アルベールの顔から血の気が引いた。
デュラン公爵家は王国でも五指に入る名門だ。政治力、経済力、そして軍事面での影響力も大きい。その公爵家の一人娘を公衆の前で侮辱した。証拠もなしに。
冷静に考えれば、自分がやったことの重大さに気づくはずだ。だがアルベールは冷静ではなかった。リュミエールへの恋心が全ての判断を歪めていた。
「……あの女は帝国に行くと言っていたな」
「はい。今朝、デュラン家の馬車が王都を出たという報告がございます」
「逃がすな。王宮に召喚しろ」
「殿下、それは……」
ジャン=ポールが困った顔をした。
「セラフィーナ様は正式な渡航許可証をお持ちです。それも国王陛下の御名入りの。王子殿下の命令で止めることはできません」
「父上が許可を出したのか?」
アルベールは絶句した。自分の父が、自分の知らないところで婚約者の出国を認めていた。それが何を意味するのか——父もまた、この婚約破棄を愚行と見なしていたのだ。
部屋に重い沈黙が落ちた。
一方、その頃。
デュラン公爵家の屋敷では、出発の準備が最終段階に入っていた。
私は最後の荷造りを終え、書斎にいる父のもとを訪れた。
書斎のドアを開けると、父は窓際に立って外を眺めていた。大柄な体躯に白髪の混じった金髪。厳めしい顔立ちだが、目元にはいつも穏やかな光がある。デュラン公爵レオポルド。王国きっての実力者であり、私の世界で最も信頼できる人。
「お父様」
「おお、セラフィーナ。準備はできたか」
「はい」
父が椅子に座り、私にも座るよう促した。執務机の上には紅茶が二つ用意されている。最後の茶会、ということだろう。
「昨夜のことは聞いた」
父の声は静かだった。怒りを感じないわけではないだろうが、表には出さない。政治家として長年培ってきた自制心だ。
「予定通り、ですわ。お父様にはお話しした通りです」
「ああ。だが予定通りだからといって、腹が立たんわけではない」
ふっと口元が緩んだ。
「あの小僧に一発くらい殴ってやりたいところだが、さすがに王子を殴れば大問題だからな」
「お父様」
「冗談だ。……半分くらいは」
紅茶を一口飲んで、父は続けた。
「セラフィーナ。帝国に行くお前に、一つだけ言っておく」
「何でしょう」
「お前の母も帝国の人間だった。強い女だった。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の足で歩いた。俺がこの家を守ってこられたのは、あいつの助言があったからだ」
父は滅多に母のことを話さない。話すときは、いつも目が少し赤くなる。
「お前はあいつに似ている。見た目だけじゃない。芯の強さが同じだ。だから俺は心配していない。帝国に行っても、お前はお前の道を見つける」
「……お父様」
涙が出そうになった。堪えた。ここで泣いたら、父はもっと心配する。
「ありがとうございます。必ず、お父様に恥じない生き方をします」
「恥じるも何も、お前は俺の自慢の娘だ。それは変わらん」
父が立ち上がり、大きな手で私の頭を撫でた。十歳の頃から変わらない、温かい手。
「困ったことがあれば、いつでも便りをよこせ。デュラン家の力はお前のためにある」
「はい」
今度は堪えきれなかった。一粒だけ、涙が落ちた。父はそれを見て、ただ静かに微笑んだ。
屋敷の裏口に、地味な馬車が待っていた。
御者台にはギルベルトが座り、馬車の中にはマルタが先に乗り込んでいる。荷物は最小限だ。衣服、書物、そして母の遺品のいくつか。帝国での生活に必要なものは、現地で揃える手はずになっている。
使用人たちが並んで見送ってくれた。幼い頃から可愛がってくれた料理長が泣いていた。庭師の老人が「花が咲いたらお送りしますよ」と言ってくれた。
「皆、ありがとう。元気でいてね」
笑顔を作って手を振り、馬車に乗り込んだ。
ドアが閉まると、マルタが黙ってハンカチを差し出してくれた。
「泣いてないわ」
「泣いてよいのですよ、お嬢様」
「……少しだけ」
馬車が動き出した。窓の外をデュラン家の屋敷が遠ざかっていく。赤い屋根と白い壁。母が植えた薔薇の庭。父の書斎の窓に、大きな影が立っているのが見えた。
手を振った。父の影も手を振り返した。
屋敷が見えなくなっても、しばらく窓の外を見ていた。やがて王都の街並みが流れ始め、石畳の通りが土の道に変わり、白い建物の群れが緑の丘に代わった。
「お嬢様。国境までは二日の道のりです。最初の宿場町まで半日ほどですわ」
マルタが穏やかに言った。
「ええ。ありがとう、マルタ」
深呼吸した。涙はもう乾いている。
窓の外には夏の空が広がっていた。白い雲が西に流れていく。国境は北だ。北に行けば行くほど、空気は冷たくなり、風景は変わる。母が生まれた国。雪と銀の国。
不思議と、恐怖はなかった。
前世で東京のワンルームに帰るとき感じていたあの虚しさ、あの疲労感。明日も同じ日が続くという絶望。あれに比べれば、未知の国に向かう馬車の中は、ずっと希望に満ちている。
隣に座るマルタが、馬車の揺れに合わせて小さく歌を口ずさみ始めた。帝国の子守歌だ。母がよく歌ってくれたのと同じ旋律。
目を閉じて、その歌に身を任せた。
王都が遠ざかっていく。アルベールも、断罪も、悪役令嬢という肩書きも。全てが後ろに流れていく。
前を見よう。
次に目を開けたとき、見えるのは新しい景色だ。
馬車の窓から差し込む光が、膝の上に落ちた。その光の中で、私は静かに微笑んだ。
さよなら、王国。
ありがとう、お父様。
これから行きます——ヴァルトシュタイン帝国。




