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結婚から一年が経った。
帝国は穏やかな時代を迎えていた。ヴェルナー侯爵の失脚後、宮廷の保守派は力を失い、エドヴァルドの改革路線が本格的に動き出している。経済は成長を続け、王国との関係も安定。帝国の民は「氷の時代は終わった」と囁き合っていた。
皇妃セラフィーナの名は、帝国中に知れ渡っていた。
政策面での貢献だけではない。私が最も力を入れたのは教育改革だった。帝国の教育は従来、貴族と一部の裕福な平民のためのものだった。それを変えるために、帝国各地に初等教育施設を設置し、平民の子供たちにも学ぶ機会を広げる制度を立ち上げた。
「全ての子供に教育を」。前世の日本では当たり前のことが、この世界ではまだ実現していない。一朝一夕にはいかないが、種は蒔いた。十年後、二十年後、この種が実を結ぶ。
「皇妃様の学校」と呼ばれる施設が、帝国の各都市に少しずつ増えている。子供たちが教室で文字を学び、計算を覚え、世界の仕組みを知る。その姿を見るたびに、胸が熱くなった。
仲間たちもそれぞれの道を歩んでいた。
ブリギッテ・フォン・ホーエンシュタインは、帝国の外交官になった。軍閥の家系に生まれながら文官の道を選んだ彼女は、王国との外交窓口を担当している。辛辣な物言いは健在で、王国の外交官を言葉で圧倒するのが日常茶飯事だが、交渉の腕は確かだ。
「あんたのおかげで、私は自分の道を見つけられた」
先日の茶会でブリギッテがそう言ってくれた。
「ブリギッテの力よ。私はきっかけをあげただけ」
「はいはい。皇妃様は謙虚ですこと」
相変わらずのやり取りに、二人で笑った。
フリッツ・フォン・グラーフは近衛隊の隊長に抜擢された。毒杯事件の後の警備体制の刷新で頭角を現し、エドヴァルド自らが任命した。
「俺が近衛隊長とかマジかよ。母ちゃん泣いてたぞ」
「嬉し涙でしょう」
「多分な。でもセラフィーナ、あんたの護衛は俺が命懸けでやるから。約束だ」
拳をぶつけ合った。帝国式の友情の証。
レーナ・マイヤーは宮廷魔法研究室の主任研究員になった。平民出身としては異例の出世だが、彼女の魔法理論の実績は帝国の学術界で広く認められている。物流追跡の刻印魔法は実用化され、帝国の交易効率を大幅に改善した。
「セラフィーナさんのアイデアがなければ、実用化は十年遅れていたと思います」
「レーナの技術がなければ、アイデアのままだったわ」
「……えへへ」
レーナの照れ笑いは、出会った頃から変わらない。
マルタは帝城に残り、皇妃付きの侍女長を務めている。帝国出身の彼女にとって、帝城は第二の故郷だ。毎朝、完璧な身支度を整えてくれる。
「お嬢様——いえ、陛下。今日のご予定は」
「マルタ、何年経っても『お嬢様』って言いかけるのね」
「癖ですわ。治りません」
ギルベルトは帝城の門衛に転じた。老齢のため第一線は退いたが、門の前に立つ姿は今でも堂々としている。若い兵士たちの教育係も買って出ており、「ギルベルト教官」として慕われている。
みんなが、それぞれの場所で花を咲かせている。
秋の夜。
帝城の寝室。
エドヴァルドが私の髪を梳いていた。
銀の梳き櫛で、蜂蜜色の長い髪を丁寧に梳く。一日の公務が終わった後の、二人だけの時間。結婚してから始まった習慣だ。
「今日の会議、長かったな」
「お疲れ様でした。北部辺境の問題、難航していましたね」
「ああ。だがお前の提案した段階的な防衛強化案が通った。財務大臣も渋々だが納得した」
「渋々で十分です。予算がつけば動けますから」
「相変わらず容赦がないな」
「陛下仕込みです」
「エドヴァルドだと言っただろう。何度言わせる」
「ふふ。何度でも言わせたいだけです」
梳き櫛が止まった。
「……お前は時々、狡い」
「あなたの方がずるいですよ。不意打ちで甘いことを言うくせに」
「甘いことなど言った覚えはない」
「昨日の夜、何て言いました?」
「覚えていない」
「嘘つき」
「嘘はつかない主義だ」
「では思い出してください。『お前がいない夜は眠れない』って——」
「やめろ」
エドヴァルドの耳が真っ赤になっていた。梳き櫛を置いて、顔を背ける。
結婚して一年。公の場では相変わらず氷の皇帝だが、二人きりになるとこうだ。照れ屋で、不器用で、甘い言葉を言った後に必ず後悔する。
そこが好きなのだと、本人は分かっているのだろうか。
「エドヴァルド」
「何だ」
「一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「もし——私が帝国に来なかったら、あなたはどうなっていたと思いますか」
エドヴァルドが振り返った。紫水晶の瞳が、蝋燭の灯りの中で揺れている。
「来なかったら、か」
「ええ」
少し考えて、エドヴァルドは言った。
「俺は一生、氷の中だっただろうな」
「……」
「誰も信じず、誰も隣に置かず、一人で帝位を守り続けた。効率的ではあったかもしれない。だが——」
「だが?」
「生きているとは、言えなかっただろう」
その言葉が胸に落ちた。重く、温かく。
「お前が来てくれなければ、俺は機械のまま死んでいた。お前が俺を——人間に戻してくれた」
目が熱くなった。
「大げさです」
「事実だ」
「エドヴァルド——」
「何だ」
「ゲームで一番好きなキャラクターでした、実は」
言ってしまった。
ずっと心の中にしまっていた秘密。前世のゲームの話。二つの人生を跨いだ、最初の恋。
エドヴァルドが怪訝な顔をした。
「ゲーム? 何の話だ」
「えっと——その——昔の話です。忘れてください」
「意味が分からん」
「分からなくて大丈夫です。ただ——」
エドヴァルドの手を取った。
「あなたに出会えてよかった。画面の向こうでも——いえ、ここでも。どちらの世界でも」
「本当に意味が分からん」
エドヴァルドが眉をひそめた。だが、手は離さなかった。
二人で笑った。
笑い声が寝室に響いた。帝城の石壁に反射して、温かく消えていった。
窓の外に、秋の月が昇っていた。
あの夜と同じ月だ。庭園で告白した夜。キスをした夜。氷が溶けた夜。
でも今は、あの夜よりもずっと温かい。
ベッドに入ると、エドヴァルドが不器用に腕を回してきた。結婚して一年経つのに、まだぎこちない。
「寒いか」
「いいえ。あなたがいるから」
「……そうか」
目を閉じた。
エドヴァルドの心臓の音が聞こえる。規則正しく、力強く、温かい。
氷の心臓なんかじゃない。ちゃんと温かい。最初から、ずっと。
意識が溶けていく前に、心の中で呟いた。
断罪されて始まった物語は、最高のハッピーエンドになりました。
前世の私へ。
ありがとう。おやすみ。
今世の私は、とても幸せです。
翌朝、帝城の窓から差し込む朝の光で目が覚めた。
隣を見ると、エドヴァルドがまだ眠っていた。銀髪が枕に散らばり、寝顔は起きているときとは別人のように穏やかだ。眉間の皺が消えて、年相応の青年の顔をしている。
こんな顔をするんだな、と思った。何度見ても、飽きない。
そっと起き上がって、窓辺に立った。
帝都アイスジルバーの朝。白い街並みに朝日が差して、屋根の上の霜が金色に輝いている。街路には早起きの市民が歩き始め、パン屋の煙突から白い煙が立ち上っている。
遠くに見える帝国の山脈。その向こうに、王国がある。父がいる。かつての人生がある。
でも今、私が立っているのはここだ。帝国。この城。この窓辺。
「……何を見ている」
振り返ると、エドヴァルドが目を覚ましていた。寝ぼけた顔で、こちらを見ている。
「帝国の朝を見ていました」
「毎朝同じ景色だろう」
「毎朝違いますよ。今日は特に綺麗」
「そうか」
エドヴァルドが起き上がり、窓辺に来た。後ろから腕を回される。頬に、まだ眠りの温もりが残った唇が触れた。
「おはよう」
「おはよう、エドヴァルド」
二人で窓の外を見た。
帝都の空に、春の気配が混じっている。まだ秋なのに、どこかに春の予感がある。
氷は溶けて——春になる。




