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婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


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30

結婚から一年が経った。


 帝国は穏やかな時代を迎えていた。ヴェルナー侯爵の失脚後、宮廷の保守派は力を失い、エドヴァルドの改革路線が本格的に動き出している。経済は成長を続け、王国との関係も安定。帝国の民は「氷の時代は終わった」と囁き合っていた。


 皇妃セラフィーナの名は、帝国中に知れ渡っていた。


 政策面での貢献だけではない。私が最も力を入れたのは教育改革だった。帝国の教育は従来、貴族と一部の裕福な平民のためのものだった。それを変えるために、帝国各地に初等教育施設を設置し、平民の子供たちにも学ぶ機会を広げる制度を立ち上げた。


「全ての子供に教育を」。前世の日本では当たり前のことが、この世界ではまだ実現していない。一朝一夕にはいかないが、種は蒔いた。十年後、二十年後、この種が実を結ぶ。


「皇妃様の学校」と呼ばれる施設が、帝国の各都市に少しずつ増えている。子供たちが教室で文字を学び、計算を覚え、世界の仕組みを知る。その姿を見るたびに、胸が熱くなった。



 仲間たちもそれぞれの道を歩んでいた。


 ブリギッテ・フォン・ホーエンシュタインは、帝国の外交官になった。軍閥の家系に生まれながら文官の道を選んだ彼女は、王国との外交窓口を担当している。辛辣な物言いは健在で、王国の外交官を言葉で圧倒するのが日常茶飯事だが、交渉の腕は確かだ。


「あんたのおかげで、私は自分の道を見つけられた」


 先日の茶会でブリギッテがそう言ってくれた。


「ブリギッテの力よ。私はきっかけをあげただけ」


「はいはい。皇妃様は謙虚ですこと」


 相変わらずのやり取りに、二人で笑った。


 フリッツ・フォン・グラーフは近衛隊の隊長に抜擢された。毒杯事件の後の警備体制の刷新で頭角を現し、エドヴァルド自らが任命した。


「俺が近衛隊長とかマジかよ。母ちゃん泣いてたぞ」


「嬉し涙でしょう」


「多分な。でもセラフィーナ、あんたの護衛は俺が命懸けでやるから。約束だ」


 拳をぶつけ合った。帝国式の友情の証。


 レーナ・マイヤーは宮廷魔法研究室の主任研究員になった。平民出身としては異例の出世だが、彼女の魔法理論の実績は帝国の学術界で広く認められている。物流追跡の刻印魔法は実用化され、帝国の交易効率を大幅に改善した。


「セラフィーナさんのアイデアがなければ、実用化は十年遅れていたと思います」


「レーナの技術がなければ、アイデアのままだったわ」


「……えへへ」


 レーナの照れ笑いは、出会った頃から変わらない。


 マルタは帝城に残り、皇妃付きの侍女長を務めている。帝国出身の彼女にとって、帝城は第二の故郷だ。毎朝、完璧な身支度を整えてくれる。


「お嬢様——いえ、陛下。今日のご予定は」


「マルタ、何年経っても『お嬢様』って言いかけるのね」


「癖ですわ。治りません」


 ギルベルトは帝城の門衛に転じた。老齢のため第一線は退いたが、門の前に立つ姿は今でも堂々としている。若い兵士たちの教育係も買って出ており、「ギルベルト教官」として慕われている。


 みんなが、それぞれの場所で花を咲かせている。



 秋の夜。


 帝城の寝室。


 エドヴァルドが私の髪を梳いていた。


 銀の梳き櫛で、蜂蜜色の長い髪を丁寧に梳く。一日の公務が終わった後の、二人だけの時間。結婚してから始まった習慣だ。


「今日の会議、長かったな」


「お疲れ様でした。北部辺境の問題、難航していましたね」


「ああ。だがお前の提案した段階的な防衛強化案が通った。財務大臣も渋々だが納得した」


「渋々で十分です。予算がつけば動けますから」


「相変わらず容赦がないな」


「陛下仕込みです」


「エドヴァルドだと言っただろう。何度言わせる」


「ふふ。何度でも言わせたいだけです」


 梳き櫛が止まった。


「……お前は時々、狡い」


「あなたの方がずるいですよ。不意打ちで甘いことを言うくせに」


「甘いことなど言った覚えはない」


「昨日の夜、何て言いました?」


「覚えていない」


「嘘つき」


「嘘はつかない主義だ」


「では思い出してください。『お前がいない夜は眠れない』って——」


「やめろ」


 エドヴァルドの耳が真っ赤になっていた。梳き櫛を置いて、顔を背ける。


 結婚して一年。公の場では相変わらず氷の皇帝だが、二人きりになるとこうだ。照れ屋で、不器用で、甘い言葉を言った後に必ず後悔する。


 そこが好きなのだと、本人は分かっているのだろうか。


「エドヴァルド」


「何だ」


「一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


「もし——私が帝国に来なかったら、あなたはどうなっていたと思いますか」


 エドヴァルドが振り返った。紫水晶の瞳が、蝋燭の灯りの中で揺れている。


「来なかったら、か」


「ええ」


 少し考えて、エドヴァルドは言った。


「俺は一生、氷の中だっただろうな」


「……」


「誰も信じず、誰も隣に置かず、一人で帝位を守り続けた。効率的ではあったかもしれない。だが——」


「だが?」


「生きているとは、言えなかっただろう」


 その言葉が胸に落ちた。重く、温かく。


「お前が来てくれなければ、俺は機械のまま死んでいた。お前が俺を——人間に戻してくれた」


 目が熱くなった。


「大げさです」


「事実だ」


「エドヴァルド——」


「何だ」


「ゲームで一番好きなキャラクターでした、実は」


 言ってしまった。


 ずっと心の中にしまっていた秘密。前世のゲームの話。二つの人生を跨いだ、最初の恋。


 エドヴァルドが怪訝な顔をした。


「ゲーム? 何の話だ」


「えっと——その——昔の話です。忘れてください」


「意味が分からん」


「分からなくて大丈夫です。ただ——」


 エドヴァルドの手を取った。


「あなたに出会えてよかった。画面の向こうでも——いえ、ここでも。どちらの世界でも」


「本当に意味が分からん」


 エドヴァルドが眉をひそめた。だが、手は離さなかった。


 二人で笑った。


 笑い声が寝室に響いた。帝城の石壁に反射して、温かく消えていった。



 窓の外に、秋の月が昇っていた。


 あの夜と同じ月だ。庭園で告白した夜。キスをした夜。氷が溶けた夜。


 でも今は、あの夜よりもずっと温かい。


 ベッドに入ると、エドヴァルドが不器用に腕を回してきた。結婚して一年経つのに、まだぎこちない。


「寒いか」


「いいえ。あなたがいるから」


「……そうか」


 目を閉じた。


 エドヴァルドの心臓の音が聞こえる。規則正しく、力強く、温かい。


 氷の心臓なんかじゃない。ちゃんと温かい。最初から、ずっと。


 意識が溶けていく前に、心の中で呟いた。


 断罪されて始まった物語は、最高のハッピーエンドになりました。


 前世の私へ。


 ありがとう。おやすみ。


 今世の私は、とても幸せです。



 翌朝、帝城の窓から差し込む朝の光で目が覚めた。


 隣を見ると、エドヴァルドがまだ眠っていた。銀髪が枕に散らばり、寝顔は起きているときとは別人のように穏やかだ。眉間の皺が消えて、年相応の青年の顔をしている。


 こんな顔をするんだな、と思った。何度見ても、飽きない。


 そっと起き上がって、窓辺に立った。


 帝都アイスジルバーの朝。白い街並みに朝日が差して、屋根の上の霜が金色に輝いている。街路には早起きの市民が歩き始め、パン屋の煙突から白い煙が立ち上っている。


 遠くに見える帝国の山脈。その向こうに、王国がある。父がいる。かつての人生がある。


 でも今、私が立っているのはここだ。帝国。この城。この窓辺。


「……何を見ている」


 振り返ると、エドヴァルドが目を覚ましていた。寝ぼけた顔で、こちらを見ている。


「帝国の朝を見ていました」


「毎朝同じ景色だろう」


「毎朝違いますよ。今日は特に綺麗」


「そうか」


 エドヴァルドが起き上がり、窓辺に来た。後ろから腕を回される。頬に、まだ眠りの温もりが残った唇が触れた。


「おはよう」


「おはよう、エドヴァルド」


 二人で窓の外を見た。


 帝都の空に、春の気配が混じっている。まだ秋なのに、どこかに春の予感がある。


 氷は溶けて——春になる。

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― 新着の感想 ―
18でエドヴァルドが原作知識、という発言をしていたのでこちらも転生者かと思ったのですが、違ったのでしょうか?
素敵なお話でした 過度なざまぁは苦手なので、本人が反省してやり直すというラストがとても良かったです 一つだけ気になったのは サラフィーナの帝国での祖父母が全く登場しなかったことでしょうか?   私が読…
妻のもち肌をキープする為に毎晩(エロじゃない)マッサージする夫が居る(実在するらしい)って話を聞いたけど こっちの皇帝は髪を漉くのか。 優しい夫って良いよね
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