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七年前——セラフィーナ・デュランが十歳だった日のことを、よく覚えている。
正確には、私が「私」になった日だ。
前世の名前は佐藤真奈美。二十八歳。都内の広告代理店で働く、ごく普通のOLだった。ごく普通の、というのは語弊がある。毎日終電まで残業し、土日もパソコンを開き、上司のパワハラに耐え、同期が次々と辞めていく中で歯を食いしばって働き続けた。趣味は乙女ゲーム。唯一の息抜きだった。特に「聖輝のエトワール」は発売日に買って、全ルートをコンプリートするまでやり込んだ。
隠しルートの氷の皇帝エドヴァルドを攻略したときの感動は、今でも鮮明だ。
そして、ある冬の夜。終電を逃し、タクシー代もなく、会社から自宅まで歩いて帰る途中で意識を失った。過労死、というやつだろう。
次に目を覚ましたのが、このベッドの上だった。
十歳のセラフィーナには、それ以前の記憶もあった。公爵家の一人娘として何不自由なく育てられた幼少期。優しかった母ヴィクトリアの記憶。母は帝国の伯爵家出身で、デュラン公爵との恋愛結婚だった。セラフィーナが八歳のとき、流行り病で亡くなっている。
前世の記憶が戻った直後、私は三日間ベッドから出られなかった。熱を出したと侍女たちは思ったらしいが、実際には混乱と恐怖で動けなかったのだ。
自分が悪役令嬢だという事実。断罪、修道院送り、そして死。それが原作で描かれたセラフィーナの未来だ。
三日目の朝、ようやく頭が冷えた。
泣いていても始まらない。前世のブラック企業で学んだことが一つあるとすれば、状況を嘆くより対策を立てる方が生産的だということだ。
ベッドの上で、原作の全イベントを思い出せる限り書き出した。いじめイベントの発生条件、断罪の流れ、各キャラクターの性格と行動パターン。ゲームの攻略サイトを穴が開くほど読んだ記憶が役に立った。
最優先は「いじめイベントの回避」。これは意外と簡単だった。原作のセラフィーナがリュミエールに敵意を持つのは、アルベールへの恋心が原因だ。転生者の私にその感情はない。リュミエールに対して普通に接していれば、いじめイベントの発生条件を満たさない。
問題は断罪イベントそのものだった。原作を何度プレイしても、断罪は必ず発生する固定イベントだ。いじめの有無に関係なく、アルベールがリュミエールを選ぶという展開は変えられない。つまり婚約破棄は避けられない。
ならば、婚約破棄を前提にして、その先の人生を設計すればいい。
十歳から十二歳。最初の二年間は情報収集に費やした。
まず確認したのは、この世界が本当にゲームの通りなのかということ。結論から言えば、おおむね一致していたが、ゲームでは描かれなかった細部が膨大にあった。貴族社会の複雑な力関係、領地経営の実態、魔法の体系、周辺国との外交。ゲームはあくまで学園恋愛がメインだったから、そうした要素はほとんど省略されていた。
特に重要だったのは、ヴァルトシュタイン帝国に関する情報だ。原作では隠しルート以外ほとんど登場しない国だが、実際には王国ルクレシアの北に位置する大国で、軍事力も経済力も王国を上回っている。そして帝国の現皇帝エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタインは十五歳で即位し、わずか数年で内政を安定させた天才と言われている。
原作でエドヴァルドに惹かれた理由を、私は覚えている。冷酷に見えて、実は誰よりも国民のことを考えている。不器用で、愛情の示し方を知らなくて、でも一度信じた相手には全てを捧げる。攻略の過程で何度泣いたか分からない。
——いや、今は感傷に浸っている場合じゃない。
私がエドヴァルドに会いたいのは、ゲームのファン心理だけが理由じゃない。帝国に行くことが、断罪後の生存戦略として最も合理的なのだ。
王国に残れば、修道院送りか社会的な死が待っている。他の小国に亡命しても公爵令嬢の肩書きは重荷にしかならない。だが帝国は実力主義の国だ。能力があれば外国人でも登用される。しかも母が帝国出身だから、縁がないわけではない。
十二歳から十五歳。学園入学前の三年間で、私は三つのことを進めた。
一つ目は帝国語の習得。母の侍女マルタに師事した。マルタは帝国の中流貴族の出身で、母に従って王国に来た女性だ。母の死後もデュラン家に残ってくれたのは、幼いセラフィーナのためだった。
帝国語を学びたいと言ったとき、マルタは少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで頷いた。
「奥様もお喜びになりますわ。帝国の言葉を、お嬢様が」
三年間みっちり教わった。日常会話だけでなく、帝国の歴史、文化、礼法も。マルタは優秀な教師だった。
二つ目は資金の確保。デュラン公爵家は王国でも有数の名門で、領地経営も順調だ。しかし婚約破棄されれば、私個人が自由に使える資金は限られる。だから母の遺産の管理を父に頼み、自分名義の資産として確保した。また、学園に入ってからは成績優秀者への奨学金を受け、その一部も貯蓄に回した。
三つ目は人脈作り。父の商会を通じて、帝国との交易に関わる商人たちと面識を得た。直接的な接触はせず、父経由で「デュラン家の令嬢が帝国に関心を持っている」という情報を流す程度だが、いざというとき助けてくれる人間が帝国側にいることは重要だった。
十五歳で学園に入学してからの三年間は、綱渡りの連続だった。
いじめイベントの回避は計画通りにいった。だが予想外の問題もあった。原作のセラフィーナは取り巻きの令嬢たちを使ってリュミエールを追い詰めるのだが、私がそれをしないものだから、取り巻き候補だった令嬢たちが戸惑った。
セラフィーナ様はリュミエールに何もしないんですの? あの平民がアルベール殿下に近づいているのに?
そう聞いてくる令嬢もいた。私は柔らかく笑って「殿下がお選びになることですもの。私がとやかく言うことではないわ」と答え続けた。次第に、私は「変わった公爵令嬢」として認識されるようになった。それで構わなかった。目立たず、恨まれず、実力だけは示す。それが方針だった。
学業は真面目に取り組んだ。特に外交史と経済学。前世の知識が活きる分野だ。帝国語の授業では教師に質問攻めにして追加の文献を借り、歴史の授業では帝国と王国の関係史を重点的に学んだ。
アルベールとの関係は、最低限の礼節だけを保った。月に一度の茶会は欠かさず出席したが、それ以上の接触は避けた。アルベールの方も、リュミエールに夢中で私には興味がなかった。形式上の婚約者という関係が、三年間続いた。
そして残り半年になった頃、父に全てを打ち明けた。
転生者だとは言っていない。ただ「卒業パーティーで婚約破棄される可能性が高い」「その場合、帝国に渡りたい」「そのための準備をしてきた」と伝えた。
父は長い沈黙の後、言った。
「お前は母に似ている。自分の目で見て、自分の足で歩く。止めても無駄だろう」
「……ごめんなさい、お父様」
「謝るな。お前が幸せになる道を選ぶなら、父として支えるのは当然だ」
父はその日のうちに王宮への根回しを始め、三ヶ月後には正式な渡航許可証を手に入れてくれた。国王陛下——アルベールの父は、息子の愚行をある程度察していたのかもしれない。許可は驚くほどすんなり下りた。
護衛としてギルベルトを付けてくれたのも父だ。老騎士だが腕は確かで、何より口が堅い。
全ての準備が整って、迎えた卒業パーティーの朝。
鏡の前でドレスを整えながら、私は自分に言い聞かせた。
七年間、よくやった。前世ではブラック企業に人生を搾り取られたけれど、今世では違う。自分の意思で、自分の未来を選ぶ。
マルタが最後のブローチを付けてくれた。アメジストの蝶。母の遺品だ。
「お嬢様。帝国は寒い国ですけれど、人の心は温かいですよ」
「知っているわ。お母様がそうだったもの」
マルタが目を潤ませた。
ドレスの内ポケットに留学許可証を忍ばせて、私は部屋を出た。
恐怖がないと言えば嘘になる。でもそれ以上に、胸の奥が高鳴っていた。未知の国。未知の人生。そして——ゲームの画面越しではなく、初めてこの目で見る、氷の皇帝。
会えるかどうかも分からない。会えたとしても、ゲームのように好感度が上がる保証はない。
でも、それでいい。
もうゲームの攻略なんかじゃない。これは私の人生だ。
七年間の全てを賭けて、今日、私は自由になる。




