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結婚式から半年。季節は秋に移り変わっていた。
帝国と王国を結ぶ南部交易路には、以前の三倍の荷馬車が行き交っている。アイスジルバー条約の効果は、数字に表れ始めていた。
ルクレシア王国、東部領。
アルベール・ド・ルクレシアは、朝五時に起きて畑に出た。
王子時代には考えられなかった生活だ。泥まみれの長靴を履き、手には鍬。領民たちと並んで秋の収穫作業に汗を流す。
「アルベール様、そろそろ休憩にしましょう」
領地の村長が声をかけた。五十代の、日焼けした顔の男。最初は「王都のお坊ちゃん」と冷ややかだったこの男が、今は名前で呼んでくれる。
「もう少し。この畝だけ終わらせる」
「無理なさらず。体壊しちゃ元も子もないですからな」
鍬を振りながら、アルベールは思った。
半年前、帝国でセラフィーナに会った。あのとき彼女は「ありがとうございます」と言った。婚約破棄への感謝。あの言葉に打ちのめされた。
だがそれは同時に、一つの解放でもあった。
もう取り繕わなくていい。もう強がらなくていい。王子の仮面を捨てて、ただの人間として、目の前の土と向き合えばいい。
領地は小さい。領民は三千人。だが、ここには確かな生活がある。種を蒔けば芽が出る。水をやれば育つ。収穫すれば、みんなの笑顔がある。
王都の宮廷では、そんな当たり前のことが見えなかった。
「アルベール様」
「ん?」
「来月の収穫祭、今年はアルベール様が音頭を取ってくださいますか。領民たちも喜びますよ」
「俺が?」
「ええ。みんな言ってますよ。うちの領主様は働き者だって」
胸の奥が温かくなった。
これでいい。ここが、俺の場所だ。
王都ルミエール。王国宮廷。
国王の執務室で、新宰相がデュラン公爵と向かい合っていた。
「アイスジルバー条約の効果が出ていますな。南部の交易収入が持ち直してきた」
「ええ。帝国との共同管理が功を奏しています。ただし、まだ油断はできません。王国自身の経済改革が本格化するのはこれからです」
デュラン公爵の存在感は、反乱の仲裁以降、かつて以上に大きくなっていた。新宰相と協力して内政改革を進め、王国の立て直しに尽力している。
「公爵。お嬢様のことは」
「ああ。帝国で元気にやっているよ。皇妃として忙しいようだが——あいつは忙しい方が性に合っている」
公爵が窓の外を見た。
「あいつが帝国に渡って一年半。最初は心配もした。だが今は——あいつが正しかったと思っている。あいつがいなければ、この条約もなかった。王国の再建もこうは進まなかった」
「娘御が帝国の皇妃として、王国にも力を貸してくださっている。皮肉なものですな」
「皮肉じゃない」
公爵が静かに言った。
「あいつは最初から、こうなることを見据えていたんだ。十歳の頃から。……あの子は母親に似ている。俺よりずっと先が見える」
王都の郊外、小さな治療院。
リュミエールは今日も白い法衣を着て、患者の手を握っていた。
聖女の癒しの光が、老婆の傷ついた手を包む。温かい光が傷を塞ぎ、痛みを和らげる。
「ありがとうございます、聖女様」
「お大事にしてくださいね。三日後にまた来てください」
老婆が去った後、治療院の窓から外を見た。
宮廷にいた頃の自分が嘘のようだ。あの頃は毎日が怖かった。政治の話を聞いても分からない。意見を求められても何を言っていいか分からない。アルベールの隣にいたのは愛されていたからだが、それ以外の全てが重荷だった。
今は違う。
毎日、たくさんの人が治療院に来る。怪我をした子供、病に伏せた老人、出産を控えた妊婦。聖女の力が必要とされている。直接、目の前で、人を助けることができる。
セラフィーナさんの手紙がなければ、まだ宮廷でもがいていただろう。
机の引き出しに、あの手紙を大切にしまってある。時々読み返す。
『聖女として、民の傍にいてください。それがあなたの力が最も活きる場所です』
その通りだった。
治療院の入り口に、次の患者が来た。リュミエールは微笑んで迎えた。
「どうぞ。お待ちしていました」
ここが私の場所。ここで私は、私らしくいられる。
ロベールとジャン=ポール。かつてのアルベールの取り巻き二人は、それぞれ異なる道を歩んでいた。
ロベールは、嘘の証言をした責任を問われ、侯爵家の嫡男の座を弟に譲った。今は商人として身を立てようとしているらしいが、うまくいっていないという噂だ。
ジャン=ポールの父——元宰相は、反乱の責任を取って引退した。ジャン=ポール自身は王国の外交官として地方に赴任している。彼は後に、帝国への留学制度を利用して帝国で学び直すことになるが、それはまだ先の話だ。
因果は巡る。
だが、全員が破滅したわけではない。
アルベールは自分の足で立ち始めた。リュミエールは自分の居場所を見つけた。ロベールは苦労しながらも新しい道を模索している。ジャン=ポールは学び直す機会を得るだろう。
セラフィーナの温情——というよりは、彼女が設計したアイスジルバー条約の枠組みが、結果的に王国の全ての人間にやり直しの機会を与えていた。
復讐ではなく、再建。
それがセラフィーナの選択だった。




