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帝城ヴァイスブルクの大聖堂。
千年の歴史を持つ石造りの聖堂は、白い花と銀のリボンで飾り尽くされていた。ステンドグラスから差し込む春の光が、石の床に色とりどりの模様を描いている。
参列者は三千人を超えた。帝国の全高位貴族、軍の将官、各省の大臣、そして各国の外交使節。大聖堂の席は満席で、入りきらなかった市民たちは広場に設置された巨大な魔法映写装置で式の様子を見守っている。
控室で、マルタが最後の仕上げをしてくれた。
白いドレスは体に完璧に合っていた。銀糸の刺繍が光を受けてきらめき、長いヴェールがアメジストの小さな輝きをまとって後ろに流れている。髪は帝国式の編み上げで、母のアメジストのイヤリングと、エドヴァルドからもらった紫水晶の婚約指輪。
「お嬢様——いえ、もうすぐ陛下のお妃様ですわね」
マルタの目が真っ赤だった。
「マルタ、泣かないで。私まで泣いちゃう」
「泣いてなんかおりません。……少しだけですわ」
ブリギッテが控室に入ってきた。今日は花嫁付添人の一人として、淡い青のドレスを着ている。
「準備できた?」
「うん」
「緊張してる?」
「すごく」
「大丈夫。あんたは帝国で一番強い女よ。皇帝を落とした女がいまさら結婚式で怖気づくんじゃないわよ」
笑った。笑ったら少し楽になった。
「ありがとう、ブリギッテ」
「行きましょう。みんな待ってるわ」
大聖堂の扉が開いた。
ファンファーレが鳴り響き、三千人の視線が一斉にこちらを向いた。
腕を取ってくれたのは父だった。白髪が増えた大きな体。正装の軍服に、デュラン家の紋章。父の腕は温かくて、どっしりとしていて、安心した。
「緊張しているか」
「少しだけ」
「嘘をつけ。手が震えているぞ」
「お父様も震えてます」
「……うるさい」
笑い声が漏れた。参列者の何人かが微笑んだ。
長い通路を歩く。赤い絨毯の上を、一歩ずつ。
通路の両側に、見知った顔がある。クラウスが目頭を押さえている。フリッツが拳を突き上げて無言で「やったな」と口を動かしている。レーナが水晶の花——あの日くれたのと同じ——を胸元に飾って、静かに微笑んでいる。
王国の使節席には、リュミエールがいた。白い花束を抱えて、涙を流しながら笑っている。
そして——祭壇の前に。
エドヴァルドが立っていた。
白銀の正装。いつもの黒い軍服ではなく、帝国皇帝の婚礼衣装。白い上着に銀のマント、額には正式な冠。背筋をまっすぐに伸ばし、微動だにしない。
だが、目だけが違った。
紫水晶の瞳が、私だけを見ていた。冷たくない。凍っていない。あの瞳の奥に、確かな温度がある。
祭壇の前で、父が私の手を放した。
「幸せにな」
小さな声で言って、父は席に下がった。
エドヴァルドの前に立った。近い。あの夜の書庫よりも、庭園のキスよりも近い。
帝国の大神官が儀式の言葉を唱え始めた。古い帝国語で綴られた婚姻の誓い。千年前から変わらない言葉。
誓いの時が来た。
大神官がエドヴァルドに問う。
「汝、エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタイン。この女性を妻とし、生涯守り、愛し、敬うことを誓うか」
エドヴァルドの声が、大聖堂に響いた。
「誓う」
一言。だがその一言に、三千人の空気が震えた。氷の皇帝が、愛を誓った。
大神官が私に問う。
「汝、セラフィーナ・デュラン。この男性を夫とし、生涯寄り添い、支え、愛することを誓うか」
「誓います」
声は震えなかった。二つの人生をかけた、私の答え。
エドヴァルドが私の手を取った。指輪の交換。金の指輪が、紫水晶の婚約指輪の隣にはまった。
大神官が宣言した。
「ここに、帝国皇帝エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタインとセラフィーナ・フォン・ヴァルトシュタインの婚姻の成立を宣言する」
大聖堂が歓声に包まれた。拍手が嵐のように鳴り響く。
エドヴァルドが私の肩にそっと手を置いた。近づく顔。
三度目のキスは、三千人の前で。
短く、けれど確かに。冷たい唇が触れて、離れた。
離れた後のエドヴァルドの顔は、驚くほど穏やかだった。氷の仮面が溶けて、その下にあった素顔が覗いている。柔らかくて、少し照れていて、でも幸福に満ちた顔。
「俺は生涯、この女性だけを愛する」
誓いの言葉とは別に、エドヴァルドが自分の言葉で言った。大神官に求められたのではなく、自発的に。
大聖堂が静まった。
それから——今度は歓声ではなく、嗚咽が混じった拍手が起こった。帝国の無表情な貴族たちが、涙を浮かべて拍手をしている。氷の皇帝が、人間の顔を見せた。それだけで、この婚礼は歴史に残る。
披露宴は大広間で行われた。
料理が運ばれ、酒が注がれ、祝辞が述べられた。帝国の重臣たちが次々と祝いの言葉を述べ、各国の使節が贈り物を献上した。
王国の使節席から、リュミエールが花束を持って歩いてきた。白いユリと青い矢車菊。前にもらったのと同じ花。
「セラフィーナさん。おめでとうございます」
「ありがとう、リュミエール」
「幸せそうで——本当に、よかった」
リュミエールが微笑んで、花束を渡してくれた。小さな手が、少し震えていた。嬉し涙だ。
「あなたも幸せでいてね」
「はい。治療院、頑張ります」
リュミエールが席に戻る後ろ姿を見送りながら、思った。原作のヒロインと悪役令嬢が、こうして笑い合える日が来るなんて。ゲームのシナリオライターも想像しなかっただろう。
宴が進む中、エドヴァルドが隣で小さく呟いた。
「疲れたか」
「少しだけ。でも幸せです」
「俺もだ。こんなに人前にいるのは苦痛だが——今日だけは構わない」
「今日だけ?」
「お前がいるからだ」
さらりと言って、ワインを飲む。
こういうところが——こういう不意打ちが、この人はずるい。
心の中で、前世の自分に報告した。
ねえ、真奈美さん。聞いて。
私、結婚したよ。
あのゲームで泣きながら好きになった人と。画面の中じゃなくて、本物の。
あなたの人生は無駄じゃなかった。全部——ここに繋がっていたよ。
ありがとう。
グラスの中のワインが、蝋燭の灯りを受けて宝石のように輝いていた。




