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婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


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結婚式の前夜。


 帝城の客室に一人でいた。明日のための白いドレスがマルタの手で整えられ、衣装掛けにかかっている。帝国の伝統に則った純白に銀糸の刺繍。ヴェールには小さなアメジストが散りばめられている。


 マルタは「お嬢様、早くお休みにならないと明日に響きますよ」と言って部屋を出ていったが、眠れるはずがなかった。


 窓辺に座って、夜の帝都を見下ろした。


 街のあちこちに灯りが揺れている。明日の祝典に備えて、市民たちも遅くまで準備をしているのだろう。街路に花飾りが結ばれ、広場には仮設の舞台が組まれている。帝国全土から祝賀の人々が集まってきていた。


 明日、私は帝国の皇妃になる。


 まだ信じられない。


 目を閉じると、前世の記憶が浮かんできた。



 佐藤真奈美。二十八歳。東京都内の広告代理店勤務。


 六畳一間のワンルーム。玄関に靴が一足。冷蔵庫にはコンビニのおにぎりと栄養ドリンク。洗濯物は三日分溜まっている。


 朝七時に家を出て、夜十一時に帰る。休日出勤は月に二回。有給は取ったことがない。


 友人と呼べる人間はいなかった。学生時代の友達とは社会人になってから疎遠になった。会社の同期は次々と辞めていった。最後まで残ったのは私だけで、それは強さではなく、ただ辞める勇気がなかっただけだった。


 恋人もいなかった。出会いの場に行く時間も気力もなかった。たまに母から「いい人いないの」と電話がかかってきて、「忙しいから」と切った。


 唯一の楽しみが乙女ゲームだった。通勤電車の中でスマホを開き、架空の世界の架空の王子様に話しかける。馬鹿みたいだと思いながら、やめられなかった。


 「聖輝のエトワール」の隠しルートを解放したのは、連休のない年末年始だった。会社に泊まり込んで仕事をした後、深夜のオフィスでゲームを起動した。


 エドヴァルドが画面に現れたとき、息を呑んだ。


 銀髪に紫の瞳。冷たい表情。だがルートを進めるうちに、彼の孤独と優しさが見えてくる。幼くして帝位に就き、誰も信用できない中で国を守ってきた。不器用で、愛し方を知らなくて、でも一度信じた相手には全てを捧げる。


 クリアしたとき、泣いた。


 深夜のオフィスで、パソコンの画面の前で、声を殺して泣いた。


 こんな人がいたらいいのに、と思った。こんなふうに誰かに必要とされたい、と思った。


 でも現実には、誰もいなかった。



 あの冬の夜。終電を逃して、タクシーも捕まらなくて、歩いて帰る途中で意識を失った。


 最後に見たのは、街灯の光だった。オレンジ色の光が、雪の上で滲んでいた。


 寒いな、と思った。


 疲れたな、と思った。


 もう——いいかな、と思った。


 それが、佐藤真奈美の最後だった。



 目を開けた。


 窓の外の帝都が滲んでいた。涙が出ていた。


 前世の自分に語りかけた。声には出さず、心の中で。


 ねえ、真奈美さん。


 あなたはあの夜、一人で倒れた。誰にも気づかれず、誰にも看取られず。きっと寂しかったよね。きっと悔しかったよね。もっと生きたかったよね。


 あなたの人生は報われなかった。頑張っても頑張っても、誰にも認められなかった。


 でも——あなたの頑張りは、無駄じゃなかった。


 あなたがブラック企業で培った根性と事務能力が、この世界で私を支えてくれた。あなたが通勤電車で読んだ経済学の本が、帝国の交易政策を変えた。あなたが深夜のオフィスでクリアしたゲームの知識が、この世界で生き延びるための地図になった。


 そして——あなたが画面の向こうで泣きながら好きになったあの人が、今、私の隣にいる。


 画面の中のキャラクターじゃない。生身の人間として。不器用で、冷たくて、でも温かい。あなたが恋した通りの人だった。


 だから、ありがとう。


 あなたがいたから、私がいる。あなたの人生は無駄じゃなかった。全部、ここに繋がっている。


 涙を拭った。


 窓の外の帝都が、涙の膜が消えてくっきりと見えた。白い街並みに、朝の気配が忍び寄っている。夜が明けようとしていた。


 机の上に、一通の手紙が置かれていた。夕方、マルタが「陛下からです」と持ってきてくれたもの。まだ開けていなかった。


 封を切った。


 エドヴァルドの筆跡。硬質で、無駄のない字。だが、いつもの公式文書とは違う。インクの乗り方が不均一で、何度か書き直した跡がある。



『セラフィーナ。


 手紙を書くのは得意ではない。だが、明日を前にして、どうしても伝えておきたいことがある。


 俺は十五で帝位に就いてから、一度も弱さを見せたことがなかった。弱さは隙だ。隙は命取りになる。だから感情を消した。氷になった。


 それで良いと思っていた。皇帝に感情は要らない。判断力と意志があればいい。


 お前が来るまでは、そう信じていた。


 お前は俺に媚びなかった。嘘もつかなかった。俺の冷たさを恐れもしなかった。ただまっすぐに、俺を見た。


 書庫で隣に座っていたとき、俺の中の氷が溶けていくのが分かった。怖かった。溶けたら、もう元には戻れない。


 だが——戻りたくないと思った。


 明日、お前は俺の妻になる。


 俺の人生で最も幸福な日になる。お前に出会えたことに感謝する。


 不器用な俺だが——一生かけて、お前を幸せにする。


 エドヴァルド』



 手紙を胸に抱いた。


 涙がまた溢れた。今度は前世の悲しみではなく、今の幸福のために。


「もう攻略なんかじゃない。これは——私の人生だ」


 声に出して言った。


 窓の外で、帝都の空が白み始めていた。東の空に、朝の光が差している。


 明日が来る。いや、もう今日だ。


 今日、私はセラフィーナ・デュランとして最後の日を迎え、セラフィーナ・フォン・ヴァルトシュタインとして新しい人生を始める。


 ドレスを見た。白い布地が朝の光を受けて、銀色に輝いている。


 深呼吸した。


 さあ、行こう。

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