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通商条約の交渉が大詰めを迎えた頃、予想外の訪問者が帝城に現れた。
クラウスが眉をひそめて報告に来た。
「ルクレシア王国の前第三王子アルベール殿下が、個人的な面会を求めています。使節団とは別行動で、非公式に帝国に入国されたようです」
「非公式?」
「王国の外交官が同行していますが、使節団の正式なメンバーではありません。個人の資格での訪問ということのようです」
エドヴァルドの執務室で報告を受けたとき、彼は一瞬だけ不快そうな顔をした。
「何の用だ」
「セラフィーナ殿との面会を希望しているそうです」
エドヴァルドが私を見た。決定を委ねる目だった。
「会います」
「いいのか」
「いつかは向き合わなければならない相手です。今がその時なのでしょう」
エドヴァルドが黙って頷いた。
「場所は帝城の応接室を使え。俺は同席しない。お前の問題だ。だが——隣室に近衛を配置する」
「ありがとうございます」
応接室で待っていると、扉が開いた。
アルベール・ド・ルクレシアが入ってきた。
半年ぶりに見る彼は、別人のようだった。
金髪は変わらないが、以前の傲慢な輝きが消えている。目の下に深い隈があり、頬はこけ、背筋に以前ほどの張りがない。白い軍服の代わりに、質素な旅装。王子の威光は、どこにもなかった。
「セラフィーナ」
「アルベール殿下。お久しぶりです」
「殿下はやめてくれ。もう王太子候補でもない。ただのアルベールだ」
声まで変わっていた。以前の自信に満ちた声ではなく、疲れた声。
「座りませんか」
二人で向かい合って座った。お茶が運ばれたが、アルベールはカップに手を触れなかった。
しばらくの沈黙の後、アルベールが口を開いた。
「お前に——言わなければならないことがある」
「聞きます」
「あの日のこと。卒業パーティーで、俺がお前にしたこと」
アルベールの手が膝の上で握られた。
「俺は——愚かだった」
声が震えていた。
「リュミエールに夢中で、何も見えていなかった。お前がどれだけ優秀か、どれだけ王国に貢献していたか。全部分かっていたはずなのに——いや、分かっていなかった。分かろうともしなかった」
「殿下——」
「証拠もなしにお前を断罪した。ロベールとジャン=ポールの嘘の証言を信じた。お前が反論しても聞く耳を持たなかった。最低だった」
アルベールが俯いた。
「お前が帝国に行った後、全てが崩れた。デュラン公爵との関係が悪化し、南部の交易が止まり、財政が傾いた。リュミエールの政策を鵜呑みにして、国庫を空にした。反乱が起きて、父上に王太子候補から外された」
「……」
「全部、俺のせいだ。お前を失ったことだけじゃない。正しい判断をする力を——俺は最初から持っていなかった。それなのに王子だから、周りが合わせてくれるから、自分は正しいと思い込んでいた」
アルベールが顔を上げた。碧い目が赤くなっている。
「セラフィーナ。俺は謝りに来た。許してもらおうとは思っていない。ただ——お前に直接言いたかった。私が愚かだったと。お前は何も悪くなかったと」
部屋に静寂が落ちた。
アルベールの言葉を、一つ一つ受け止めた。
怒りはなかった。恨みもなかった。あの日の断罪が、巡り巡って今の幸せに繋がっている。運命の皮肉と言えばそれまでだが、事実だ。
「アルベール殿下」
「アルベールでいい」
「では、アルベール。一つだけ、言わせてください」
「何だ」
「あの日の婚約破棄がなければ——私は帝国に来ていませんでした」
アルベールの目が揺れた。
「エドヴァルド様にも出会えませんでした。今の私の居場所も、仲間も、全てはあの日から始まっています」
「……」
「だから——ありがとうございます、と言いたいんです。心から」
アルベールの顔が歪んだ。
それは予想外だったのだろう。怒りや恨みなら受け止められた。冷たい言葉なら耐えられた。だが、感謝——心からの感謝は、彼を最も深く打ちのめした。
自分が捨てた女が、捨てられたことに感謝している。それは、自分の行為がいかに的外れだったかを、これ以上ないほど鮮明に突きつける。
アルベールが両手で顔を覆った。肩が震えている。
「……すまなかった」
絞り出すような声だった。
「本当に、すまなかった」
涙だった。金髪の王子が、応接室の椅子で泣いていた。プライドも威厳もかなぐり捨てて、ただ一人の人間として、過ちを悔いている。
テーブルの上のハンカチを差し出した。アルベールはしばらくそれに気づかず、やがて顔を上げて受け取った。
「ありがとう。……お前はいつもそうだった。相手が何をしても、優しい」
「優しいのではなくて、恨む理由がないだけです」
「それが——一番堪える」
お茶を一口飲むよう勧めた。アルベールは素直にカップを手に取った。帝国の紅茶を飲み、少しだけ落ち着いたようだった。
「今は何をしているの」
「東部の領地を預かっている。小さな領地だ。領民は三千人ほど。農業が主な産業で、正直、王都にいた頃とは比べものにならないほど地味な暮らしだ」
「領民との関係は」
「最初は相手にされなかった。王都のお坊ちゃんが何しに来た、という目で見られた。でも——半年間、毎日畑に出て、領民と一緒に汗を流した。少しずつ、話を聞いてもらえるようになった」
アルベールの表情に、かすかな誇りが浮かんだ。小さな、しかし確かな誇り。
「まだ何も成し遂げていない。でも——やっと、自分の足で立ち始めた気がする」
「それでいいと思います。人は何度でもやり直せる」
「……お前に言ってもらえると、少しだけ信じられる」
アルベールが立ち上がった。
「長居した。帝国の皇妃殿下のお時間をこれ以上いただくわけにはいかない」
「皇妃はまだよ。まだ婚約者」
「そうか。でも——似合っている。皇帝の隣が」
扉の前でアルベールが振り返った。
「セラフィーナ。幸せになってくれ」
「あなたもね、アルベール」
微笑みを交わして、扉が閉じた。
一人になった応接室で、窓の外を見た。
春の陽光が差し込んでいる。雪解けの水が屋根から滴っている。冬が終わろうとしている。
過去との決着がついた。
あの日断罪した王子と、断罪された令嬢。二人の間にあったものは、恋でも憎しみでもなく——ただの行き違いだった。
でも、その行き違いがなければ、今はなかった。
窓を開けた。春の風が吹き込んできた。冷たさの中に、かすかな花の香り。帝国にも、春が来る。
ポケットの中の紫水晶の指輪に触れた。
さあ。前を向こう。
未来が待っている。




