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婚約発表から一ヶ月。
帝国は婚約の祝賀ムードに包まれていた。街では菓子店が「皇妃殿下のアメジストタルト」なる新商品を売り出し、仕立て屋には「皇妃様と同じ蒼色のドレスを」という注文が殺到しているらしい。
当の皇妃候補——私は、祝賀どころではなかった。
婚約と同時に、仕事量が倍増した。補佐官としての通常業務に加え、皇妃としての公務の準備。帝国の歴代皇妃の事績を学び、宮廷儀礼の特別講習を受け、帝国全土の領主への挨拶状を書き——
「セラフィーナ殿、本日の予定です。午前中に宮廷礼法の講習、昼に財務大臣との会食、午後は陛下との政策会議、夕方に——」
「クラウスさん。一日は二十四時間しかないのですが」
「ええ。ですから効率よく」
「人間には睡眠も必要です」
「陛下は四時間で足りるそうですよ」
「私は人間です」
そんなやり取りが日常になっていた。
王国が正式な外交使節を再び送ってきたのは、春の兆しが見え始めた頃だった。
前回とは目的が異なる。反乱後の王国再建に向けた帝国との新たな通商条約の締結。そして——帝国皇帝の婚約に対する祝賀の使節。
使節団の構成は前回から大きく変わっていた。団長はアルベールではなく、王国の新宰相が務めている。アルベールは王太子候補から外され、地方領の管理に就いたと聞いている。
そして使節団の中に、一人の少女がいた。
リュミエール。
聖女として——ではなく、王国の民間治療院の代表として。帝国との文化交流の一環として派遣されてきたのだ。
面会の場は帝城の応接室だった。
扉が開き、リュミエールが入ってきた。
銀色の髪を簡素にまとめ、白い清楚なワンピース。宮廷の華やかなドレスではなく、実務者の装い。最後に見たときよりも、少し痩せたが、目に光がある。前に会ったときにあった怯えの色が消えていた。
「セラフィーナ様」
リュミエールが深くお辞儀をした。
「お久しぶりです。ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとう、リュミエール。元気そうね」
「はい。おかげさまで」
二人で椅子に座り、お茶が運ばれた。
リュミエールの手がカップを包む。指先に治療の跡がある。聖女の癒しの力を日常的に使っている証拠だ。
「お手紙、ありがとうございました」
リュミエールが真剣な目で言った。
「あのとき、セラフィーナ様に言っていただかなければ、私はまだ宮廷にしがみついていたと思います。政治のことは何も分からないのに、分かったふりをして——民を苦しめていた」
「あなたのせいではないわ。あなたに政治を押し付けた周囲の責任よ」
「でも、断る勇気がなかったのは私です」
リュミエールが俯いた。
「セラフィーナ様にいじめられたことなんて一度もなかったのに、あの日、何も言えなかった。アルベール様の隣で黙って立っているだけで——あなたを助けられなかった。そのことが、ずっと心に引っかかっていたんです」
「リュミエール」
「だからこそ、今日はどうしても直接お会いして——ごめんなさい。あのときのこと、本当にごめんなさい」
リュミエールの目から涙がこぼれた。彼女は唇を噛みしめて、それでも真っすぐにこちらを見ていた。
この子は変わった、と思った。
原作のリュミエールは、善意で世界を救うヒロインだった。でもこの世界のリュミエールは、自分の弱さと向き合い、自分の居場所を見つけた一人の少女だ。
「許すも何も、最初から怒っていないわ」
リュミエールの手を取った。小さくて温かい手だ。
「あなたは何も悪くない。あの断罪劇はアルベール殿下が一方的に始めたこと。あなたは利用されただけ」
「でも——」
「リュミエール。聞いて」
彼女の目を見つめた。
「もしあの日、婚約破棄がなかったら——私は帝国に来ていなかった。エドヴァルド様にも出会えなかった。今のこの幸せは、なかった」
リュミエールが目を丸くした。
「だから、ある意味では感謝しているの。全てがあったから、今がある。あなたが宮廷から退いて治療院を開いたのも、あなた自身が選んだ道でしょう?」
「はい。今の仕事が好きです。毎日、たくさんの人を治療しています。聖女の力が——やっと、正しい場所で使えている気がします」
「それでいいのよ。お互い、自分の場所を見つけたんだから」
リュミエールが涙を拭い、少しだけ笑った。幼さの残る、だが芯のある笑顔。
「ありがとうございます、セラフィーナ様」
「セラフィーナでいいわ」
「では——セラフィーナさん。帝国の皇妃になっても、お友達でいてくれますか」
「もちろん」
花束を渡された。白いユリと青い矢車菊。
「お祝いです。ルクレシアの花を持ってきました」
「ありがとう。きれいね」
白と青。王国と帝国の色が混ざった花束。それが何だか、象徴的に思えた。
面会の後、エドヴァルドに報告した。
「リュミエールと会ったそうだな」
「はい。謝罪に来てくれました」
「お前はどう応じた」
「許しました。というより、最初から怒っていなかったから」
「甘いな」
「甘いでしょうか」
「いや——お前らしい」
エドヴァルドが書類から目を上げた。
「王国との通商条約の最終案は、お前が仕上げろ。両国の事情を知るお前が書くのが最善だ」
「はい。ただし、条件は厳しく設定します」
「当然だ。甘いのは人間関係だけにしろ」
「はい、陛下」
「エドヴァルドだと言っただろう」
「はい——エドヴァルド」
名前を呼ぶたびに、まだ少し照れくさい。でも、幸せだった。
リュミエールの花束を執務室の花瓶に活けた。白いユリが、冬の終わりの窓辺で静かに輝いていた。
過去と和解した。
あとは、未来に向かって歩くだけだ。




