表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/30

23

あの夜から一週間が経っていた。


 何が変わったかと言えば、何もかもが変わった。そして、何も変わっていない。


 エドヴァルドは相変わらず公の場では無表情だった。会議では冷徹に指示を出し、官吏には厳しく接し、外交文書には一切の感情を交えない。氷の皇帝。その仮面は微動だにしない。


 だが、二人きりになると——違った。


 執務室で書類を渡すとき、指先がわずかに触れる。以前なら気にもしなかった距離が、今は意味を持つ。目が合うと、紫水晶の瞳の奥にかすかな温度がある。一瞬だけ。他の誰にも見えない、私だけの温度。


 夜の書庫は、いつの間にか隣り合って座るようになっていた。それぞれの本を読みながら、時おり肩が触れる。どちらも離れない。


 幸せだった。こそばゆくて、温かくて、時々信じられなくて。



 変化が訪れたのは、ある朝のことだった。


 執務室に入ると、エドヴァルドとクラウスが何かを話し合っていた。テーブルの上に、公式文書の書式に則った紙が広げられている。


「来たか。座れ」


 座った。エドヴァルドの表情がいつもより硬い。緊張しているのだ、と気づいた。この人が緊張する場面を、私はほとんど見たことがない。


「デュラン。単刀直入に言う」


「はい」


「俺と婚約しろ」


 クラウスが咳払いをした。


「陛下。もう少し——前置きとか、雰囲気づくりとか」


「要らん。回りくどいのは性に合わない」


「分かっていますが、相手は女性ですよ」


「女性だろうが男性だろうが、重要な提案は明確に伝えるべきだ」


 二人のやり取りを聞きながら、私は固まっていた。


 婚約。


 帝国の皇帝との婚約。


「陛下——それは、正式な」


「正式だ。帝国皇帝エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタインは、セラフィーナ・デュランとの婚約を宣言する。帝国法に基づく正式な手続きを経て、一年以内に婚姻を行う」


 公式の言い回しだった。皇帝の婚約宣言。帝国の歴史に記録される類の言葉。


「もちろん——」


 エドヴァルドの声が、ほんの少し柔らかくなった。


「お前が望まないなら、強制はしない。皇帝の命令ではなく——俺の、個人的な願いだ」


 その最後の一言で、胸の中の何かが溶けた。


 この人は、公式の場でさえ、私の意思を尊重してくれる。皇帝の権力で押し通すこともできるのに、「願い」と言ってくれる。


「お受けいたします」


「……本当か」


「本当です。陛下と——エドヴァルド様と、婚約いたします」


 名前を呼んだのは初めてだった。エドヴァルドの目が見開かれ、それから——耳まで赤くなった。


 クラウスが満面の笑みで拍手した。


「おめでとうございます。ようやくですか」


「クラウス、うるさい」


「いえいえ。側近として感無量です。陛下が人間らしい顔をされるのを見るのは、何年ぶりでしょう」


「殴るぞ」


「ご冗談を。では、婚約発表の段取りを進めてまいります。帝国全土への布告、貴族院への通達、各国への外交通知——やることは山ほどありますね」


 クラウスが嬉々として書類を抱え、退室した。


 二人きりになった。


 沈黙が落ちた。さっきまでの公式の空気が消えて、ぎこちなさだけが残っている。


「……セラフィーナ」


 名前を呼ばれた。エドヴァルドが私の名前を呼ぶのも初めてだった。


「はい」


「ありがとう」


 短い言葉だったが、全てが込められていた。


 立ち上がって、エドヴァルドの前に立った。見上げる形になる。いつもと同じ構図。だがもう、距離は必要ない。


 エドヴァルドの手を取った。大きくて、少し冷たくて、でも確かに温かい手。


「こちらこそ。私を選んでくださって」


「選ぶも何もない。最初から——お前しかいなかった」


 不器用で、素っ気なくて、でもまっすぐな言葉。


 この人らしい。


 顔が近づいた。二度目のキスは、庭園のときよりも少しだけ長くて、少しだけ温かかった。



 婚約は翌日、帝国全土に布告された。


 帝国皇帝エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタインとセラフィーナ・デュランの婚約。


 帝国中が沸いた。


 氷の皇帝に婚約者ができた。しかも相手は、王国から来て帝国の宮廷で活躍している才媛。ヴェルナー侯爵の不正を暴いた功労者。庶民の間では「シンデレラ物語」として語られ、街の酒場では祝杯が上がった。


 貴族社会の反応は分かれた。改革派は歓迎し、保守派の残党は渋い顔をした。だがヴェルナー侯爵が失脚した後、保守派の勢力は大きく削がれている。表立って反対する者はいなかった。


 ブリギッテには、婚約発表の前夜に伝えた。


「実は——」


「知ってるわ」


「え?」


「あんたたちが両想いだってことくらい、とっくに気づいてたわよ。毎晩書庫で何してたのよ」


「本を読んでいただけよ」


「はいはい。で、いつ発表?」


「明日」


「明日!?」


 ブリギッテが跳び上がり、それから私の両手を掴んだ。目に涙が浮かんでいる。


「おめでとう、セラフィーナ。本当に——本当におめでとう」


「ありがとう、ブリギッテ」


「皇妃よ。あんた、帝国の皇妃になるのよ」


「まだ実感がないわ」


「実感なくて当然よ。私だって信じられない。同室だった友達が皇妃って——自慢していい?」


「好きなだけ」


 二人で笑って、二人で泣いた。



 フリッツは食堂で聞いて、スープを吹き出した。


「マジか! セラフィーナが皇妃!? 俺、皇妃の友達!? やべえ、出世したな俺!」


「あなたは何も変わってないわよ」


 レーナは静かに微笑んで、小さな包みを差し出した。


「お祝いです。魔法で作った水晶の花。枯れません」


「レーナ……ありがとう」


 透明な水晶で作られた小さな花。光に当たると虹色に輝く。永遠に枯れない花。


 仲間がいる。友がいる。そして——愛する人がいる。


 前世の佐藤真奈美には、何もなかった。


 今の私には、全てがある。



 その日の夜、帝城の執務室で。


 エドヴァルドが、一つの小箱を差し出した。


「これは——」


「婚約の証だ。帝国の伝統に従って」


 小箱を開けた。


 中には、銀の台座に紫水晶をあしらった指輪があった。深い紫が蝋燭の灯りに照らされて、あの人の瞳と同じ色に輝いている。


「俺の目の色だと言われるのは分かっている。だが、この石にはもう一つ意味がある」


「何ですか」


「帝国では紫水晶は誠実の石だ。嘘をつかない者の象徴。お前に——ふさわしいと思った」


 指輪を左の薬指にはめた。ぴったりだった。


「ありがとうございます。一生、大切にします」


「一生は長い」


「長くていいんです。陛下と一緒なら」


 エドヴァルドが目を逸らした。耳が赤い。


「……エドヴァルドでいい。二人のときは」


「では——エドヴァルド」


「何だ」


「幸せです」


 短い沈黙。


「……俺もだ」


 紫水晶の指輪が、蝋燭の灯りの中で静かに輝いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ