23
あの夜から一週間が経っていた。
何が変わったかと言えば、何もかもが変わった。そして、何も変わっていない。
エドヴァルドは相変わらず公の場では無表情だった。会議では冷徹に指示を出し、官吏には厳しく接し、外交文書には一切の感情を交えない。氷の皇帝。その仮面は微動だにしない。
だが、二人きりになると——違った。
執務室で書類を渡すとき、指先がわずかに触れる。以前なら気にもしなかった距離が、今は意味を持つ。目が合うと、紫水晶の瞳の奥にかすかな温度がある。一瞬だけ。他の誰にも見えない、私だけの温度。
夜の書庫は、いつの間にか隣り合って座るようになっていた。それぞれの本を読みながら、時おり肩が触れる。どちらも離れない。
幸せだった。こそばゆくて、温かくて、時々信じられなくて。
変化が訪れたのは、ある朝のことだった。
執務室に入ると、エドヴァルドとクラウスが何かを話し合っていた。テーブルの上に、公式文書の書式に則った紙が広げられている。
「来たか。座れ」
座った。エドヴァルドの表情がいつもより硬い。緊張しているのだ、と気づいた。この人が緊張する場面を、私はほとんど見たことがない。
「デュラン。単刀直入に言う」
「はい」
「俺と婚約しろ」
クラウスが咳払いをした。
「陛下。もう少し——前置きとか、雰囲気づくりとか」
「要らん。回りくどいのは性に合わない」
「分かっていますが、相手は女性ですよ」
「女性だろうが男性だろうが、重要な提案は明確に伝えるべきだ」
二人のやり取りを聞きながら、私は固まっていた。
婚約。
帝国の皇帝との婚約。
「陛下——それは、正式な」
「正式だ。帝国皇帝エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタインは、セラフィーナ・デュランとの婚約を宣言する。帝国法に基づく正式な手続きを経て、一年以内に婚姻を行う」
公式の言い回しだった。皇帝の婚約宣言。帝国の歴史に記録される類の言葉。
「もちろん——」
エドヴァルドの声が、ほんの少し柔らかくなった。
「お前が望まないなら、強制はしない。皇帝の命令ではなく——俺の、個人的な願いだ」
その最後の一言で、胸の中の何かが溶けた。
この人は、公式の場でさえ、私の意思を尊重してくれる。皇帝の権力で押し通すこともできるのに、「願い」と言ってくれる。
「お受けいたします」
「……本当か」
「本当です。陛下と——エドヴァルド様と、婚約いたします」
名前を呼んだのは初めてだった。エドヴァルドの目が見開かれ、それから——耳まで赤くなった。
クラウスが満面の笑みで拍手した。
「おめでとうございます。ようやくですか」
「クラウス、うるさい」
「いえいえ。側近として感無量です。陛下が人間らしい顔をされるのを見るのは、何年ぶりでしょう」
「殴るぞ」
「ご冗談を。では、婚約発表の段取りを進めてまいります。帝国全土への布告、貴族院への通達、各国への外交通知——やることは山ほどありますね」
クラウスが嬉々として書類を抱え、退室した。
二人きりになった。
沈黙が落ちた。さっきまでの公式の空気が消えて、ぎこちなさだけが残っている。
「……セラフィーナ」
名前を呼ばれた。エドヴァルドが私の名前を呼ぶのも初めてだった。
「はい」
「ありがとう」
短い言葉だったが、全てが込められていた。
立ち上がって、エドヴァルドの前に立った。見上げる形になる。いつもと同じ構図。だがもう、距離は必要ない。
エドヴァルドの手を取った。大きくて、少し冷たくて、でも確かに温かい手。
「こちらこそ。私を選んでくださって」
「選ぶも何もない。最初から——お前しかいなかった」
不器用で、素っ気なくて、でもまっすぐな言葉。
この人らしい。
顔が近づいた。二度目のキスは、庭園のときよりも少しだけ長くて、少しだけ温かかった。
婚約は翌日、帝国全土に布告された。
帝国皇帝エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタインとセラフィーナ・デュランの婚約。
帝国中が沸いた。
氷の皇帝に婚約者ができた。しかも相手は、王国から来て帝国の宮廷で活躍している才媛。ヴェルナー侯爵の不正を暴いた功労者。庶民の間では「シンデレラ物語」として語られ、街の酒場では祝杯が上がった。
貴族社会の反応は分かれた。改革派は歓迎し、保守派の残党は渋い顔をした。だがヴェルナー侯爵が失脚した後、保守派の勢力は大きく削がれている。表立って反対する者はいなかった。
ブリギッテには、婚約発表の前夜に伝えた。
「実は——」
「知ってるわ」
「え?」
「あんたたちが両想いだってことくらい、とっくに気づいてたわよ。毎晩書庫で何してたのよ」
「本を読んでいただけよ」
「はいはい。で、いつ発表?」
「明日」
「明日!?」
ブリギッテが跳び上がり、それから私の両手を掴んだ。目に涙が浮かんでいる。
「おめでとう、セラフィーナ。本当に——本当におめでとう」
「ありがとう、ブリギッテ」
「皇妃よ。あんた、帝国の皇妃になるのよ」
「まだ実感がないわ」
「実感なくて当然よ。私だって信じられない。同室だった友達が皇妃って——自慢していい?」
「好きなだけ」
二人で笑って、二人で泣いた。
フリッツは食堂で聞いて、スープを吹き出した。
「マジか! セラフィーナが皇妃!? 俺、皇妃の友達!? やべえ、出世したな俺!」
「あなたは何も変わってないわよ」
レーナは静かに微笑んで、小さな包みを差し出した。
「お祝いです。魔法で作った水晶の花。枯れません」
「レーナ……ありがとう」
透明な水晶で作られた小さな花。光に当たると虹色に輝く。永遠に枯れない花。
仲間がいる。友がいる。そして——愛する人がいる。
前世の佐藤真奈美には、何もなかった。
今の私には、全てがある。
その日の夜、帝城の執務室で。
エドヴァルドが、一つの小箱を差し出した。
「これは——」
「婚約の証だ。帝国の伝統に従って」
小箱を開けた。
中には、銀の台座に紫水晶をあしらった指輪があった。深い紫が蝋燭の灯りに照らされて、あの人の瞳と同じ色に輝いている。
「俺の目の色だと言われるのは分かっている。だが、この石にはもう一つ意味がある」
「何ですか」
「帝国では紫水晶は誠実の石だ。嘘をつかない者の象徴。お前に——ふさわしいと思った」
指輪を左の薬指にはめた。ぴったりだった。
「ありがとうございます。一生、大切にします」
「一生は長い」
「長くていいんです。陛下と一緒なら」
エドヴァルドが目を逸らした。耳が赤い。
「……エドヴァルドでいい。二人のときは」
「では——エドヴァルド」
「何だ」
「幸せです」
短い沈黙。
「……俺もだ」
紫水晶の指輪が、蝋燭の灯りの中で静かに輝いていた。




