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王国の反乱は、二週間で収束した。
デュラン公爵の仲裁により、反乱側の領主たちと王家の間で協定が結ばれたのだ。内容は、王太子候補の見直し、宰相の交代、聖女リュミエールの宮廷政治からの撤退。事実上、アルベールの失政を認める形での妥協だった。
帝国としては、国境の安全を確保するために偵察部隊を南部に配置し、王国の安定を見守る方針が取られた。直接介入は行わない。ただし、王国が混乱した場合に備えた準備は怠らない。
父からの手紙が届いたのは、反乱収束の報から三日後のことだった。
『セラフィーナ。無事だ。心配をかけたな。
王国は揺れたが、折れなかった。反乱の本質は、民の声を無視した王家への抗議だ。アルベール殿下は王太子候補から外されることになるだろう。
お前が帝国から送ってくれたリュミエール嬢への助言が、彼女を動かしたようだ。彼女自ら宮廷政治からの撤退を申し出たことで、反乱側の怒りがかなり和らいだ。お前の判断は正しかった。
帝国での活躍を聞いている。誇りに思う。
体に気をつけろ。春になったら、帝国に会いに行く。
父より』
手紙を読み終えて、胸を撫で下ろした。父は無事だ。王国も最悪の事態は免れた。
リュミエールが宮廷から退いた。私の手紙がきっかけだったとすれば、あのとき書いた助言は正しかったのだろう。
ヴェルナー侯爵の失墜、王国の反乱の収束。二つの嵐が過ぎ去り、帝国は束の間の静けさを取り戻していた。
だが私の中には、もう一つの嵐があった。
エドヴァルドへの気持ちだ。
毒杯事件の夜、あの人のマントに包まれて泣いた。頭に手を置かれて温もりを感じた。「俺もお前の仲間に入るか」と言ってもらった。
もう誤魔化しようがない。好きだ。この人が好きだ。
でも、言えない。
理由はいくつもある。私は宮廷の補佐官で、彼は皇帝だ。立場が違いすぎる。私は元王国の公爵令嬢で、帝国の正式な貴族ではない。皇妃の資格があるとは言い難い。
そして何より——エドヴァルドの気持ちが分からない。
彼は私を有能な補佐官として評価している。それは確かだ。気遣いも見せてくれる。守ってくれる。だがそれが、恋愛感情なのか、それとも優秀な部下への配慮に過ぎないのか。
分からないまま、日々が過ぎていった。
その夜は、宮廷の庭園に出た。
会議続きで頭が煮詰まっていた。冬の夜気に当たりたくて、厚手のコートを羽織って帝城の中庭に出た。
庭園は雪に覆われていた。白い世界の中に、常緑樹の暗い緑が点在している。空には雲がなく、満月が煌々と輝いていた。月明かりが雪に反射して、庭園全体が青白く光っている。
息を吐くと、白い靄になって消えた。
静かだ。帝城の喧騒が嘘のように遠い。
「こんな時間に何をしている」
心臓が跳ねた。
振り返ると、エドヴァルドが立っていた。黒い外套を羽織り、銀髪が月光に照らされて白く輝いている。
「陛下こそ」
「眠れなかった」
珍しく正直な答えだった。
二人で庭園の小径を歩いた。雪を踏む音が交互に響く。他には何の音もない。
「王国が落ち着いたようだな」
「はい。父のおかげです」
「お前の助言もあったと聞いた。聖女が宮廷から退いたのは、お前の手紙がきっかけだと」
「大したことはしていません。当たり前のことを書いただけです」
「当たり前のことを当たり前にやるのが、一番難しい」
庭園の中央に、小さな東屋があった。雪に覆われた屋根の下に石のベンチがある。エドヴァルドがそこに腰を下ろした。私も隣に座った。
月が真上にある。満月の光が雪の庭園を照らし、まるで昼のように明るい。
しばらく二人で月を眺めていた。
「デュラン」
「はい」
「一つ、聞きたいことがある」
声が硬い。いつもの命令口調ではなく、何かを必死に絞り出すような響き。
「お前は——帝国にいる理由を、俺に話してくれた。学びたい、帝国の役に立ちたいと。そしてそれは本当だと、俺は信じている」
「はい」
「だが——それだけか」
意味を掴めず、黙った。
「お前がこの帝国に留まっている理由は、学問と仕事だけか。他に——何もないのか」
エドヴァルドの横顔を見た。月明かりに照らされた彫りの深い顔。紫水晶の瞳が、まっすぐに前を向いている。だがその瞳の奥に、揺らぎがあった。
この人は——聞いているのだ。
俺のために留まっているのか、と。
直接は聞けない。この人のプライドと不器用さが、それを許さない。だから遠回しに、こんな聞き方をしている。
心臓が痛いほど打っていた。
嘘をつくこともできた。「ええ、学問と仕事です」と答えれば、この場は収まる。今まで通りの関係が続く。安全な距離が保たれる。
でも——
この人は嘘を嫌う。そして私も、この人に嘘をつきたくない。
「陛下」
「何だ」
「帝国に留まっている理由は、学問と仕事だけではありません」
エドヴァルドの横顔が、わずかに強張った。
「この帝国に——陛下がいらっしゃるからです」
言った。
言ってしまった。
エドヴァルドが振り向いた。紫水晶の瞳が、真正面から私を捉えた。月明かりの中で、その瞳が揺れている。驚きと、困惑と——それから、名前のつかない何か。
沈黙が降りた。雪の上の静寂。月だけが、二人を見下ろしている。
「俺は」
エドヴァルドが口を開いた。声がかすれていた。
「俺は——お前に、補佐官以上のものを求めている」
息が止まった。
「政略でも打算でもない。帝国のためでもない。俺個人の——」
言葉が途切れた。この人は、自分の感情を言葉にすることに慣れていない。十五歳から帝位に就き、感情を殺して生きてきた人だ。今、必死に言葉を探している。
「俺の隣に、お前がいてほしい」
声は小さかった。だが、一語一語に確かな重みがあった。
月が、雪が、世界の全てが止まったような気がした。
涙が溢れた。堪えられなかった。堪えるつもりもなかった。
「私も——」
声が震える。
「私も、陛下のお傍にいたいです。ずっと——ずっと、そう思っていました」
エドヴァルドの手が伸びた。今度は頭ではなく、頬に。
冷たいはずの手が、温かかった。親指が涙を拭う。ぎこちない動作。この人は、誰かの涙を拭ったことがないのかもしれない。
「泣くな」
「泣いてません」
「嘘をつくなと言っただろう」
「……嘘です。泣いてます」
エドヴァルドの口元が、ほんのわずかに——緩んだ。
それから、ゆっくりと顔が近づいた。
唇が触れた。
冷たくて、温かくて、震えていた。
短いキスだった。触れるだけの、不器用な。
離れた後、エドヴァルドの頬がほんのり赤く染まっていた。月明かりでも分かるほどに。
「……これが、俺にとって初めてだ。全てが」
「私もです」
二つの人生を合わせても初めてだとは、さすがに言えなかった。
エドヴァルドが目を逸らした。照れているのだ。氷の皇帝が、照れている。
「明日から——いや、明日のことは明日考える。今は」
「今は?」
「もう少し、こうしていたい」
東屋のベンチで、二人で並んで座った。肩が触れている。雪が静かに降り始めた。白い結晶が銀髪の上に積もっていく。
言葉はなくてよかった。
ただ隣にいること。それだけで、世界は完璧だった。
月が二人を照らしている。
氷は溶けた。もう、元には戻らない。




