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婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


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三日後、全ての準備が整った。


 ブリギッテが父ホーエンシュタイン伯爵の紹介状を携え、ブランデンブルク公爵のもとを訪れたのは、冬の朝のことだった。


 ブランデンブルク公爵アウグスト。七十を過ぎた白髪の老貴族で、貴族院の議長として帝国の司法を束ねている。どの派閥にも与しない中立の立場を貫いてきた人物だ。


 ブリギッテが持参した資料は三つの束に分かれていた。


 第一の束——ヴェルナー領の鉱山から産出される魔石の量と、帝国に報告されている量の乖離。レーナが魔法研究室の記録と照合して作成した精密なデータ。報告量の三割が闇に消えている。


 第二の束——ヴェルナー家の私兵団の実態。帝国法で認められた規模の二倍以上の兵力を維持している証拠。フリッツが軍学科の人脈から集めた情報を、クラウスが裏取りした。


 第三の束——帝国の商人たちの証言記録。ヴェルナー領と取引のある商会が、不自然な大口取引を何件も行っていた。取引の相手先は実体のない幽霊会社。マネーロンダリングの典型的な手口だ。


 そして最後に——毒杯事件の調査報告。給仕の自白、仲介者の経歴、ヴェルナー家の元使用人との繋がり。


 ブランデンブルク公爵は二時間をかけて全てに目を通した。


 そして——調査令状に署名した。



 その日の午後、帝国の御前会議が緊急招集された。


 御前会議は帝国の最高意思決定機関だ。皇帝を議長とし、宰相、軍務大臣、財務大臣、貴族院議長が出席する。通常は月に二度しか開かれないが、皇帝の判断で臨時開催ができる。


 私は出席資格がないため、クラウスの執務室で待機していた。


 会議は三時間に及んだ。


 クラウスが戻ってきたとき、彼の顔にはっきりと安堵の色が浮かんでいた。


「終わりました」


「結果は」


「ヴェルナー侯爵、爵位剥奪。所領没収。帝都からの追放。不正蓄財については帝国裁判所で正式に裁かれます」


 息を吐いた。長い、長い息だった。


「証拠の束を見た瞬間、ヴェルナーの顔色が変わったそうです。最初は否認を試みましたが、ブランデンブルク公爵が調査令状を提示し、同時に侯爵邸の書庫からの証拠品の押収が行われている旨を告げたところ——沈黙したと」


「書庫からは何が出ましたか」


「帳簿です。二十年分の裏帳簿。不正蓄財の全容が記録されていました。侯爵は記録魔だったようで、自分の犯罪を几帳面に記録していた。ある意味、助かりましたね」


 クラウスが苦笑した。


「娘のイルゼ様は——」


「皇妃候補から外されました。ヴェルナー家自体が取り潰しですから。イルゼ殿は実家に戻るそうです。侯爵邸ではなく、地方の分家に」


 イルゼの顔が浮かんだ。あの完璧な微笑み。「味方でいる限りはね」という言葉。


 同情はしない。だが、父親の犯罪に巻き込まれた側面もある。複雑な気持ちだった。


「スパイの噂は」


「もう誰も口にしていません。ヴェルナー派が流した噂だということが明白になりましたから。むしろ、あなたの調査が帝国を救ったという評判が広まっています」


「私だけの手柄ではありません。ブリギッテ、フリッツ、レーナ、クラウスさん——皆の力です」


「そうですね。ですが、全体の絵を描いたのはあなたです。陛下もそう認識されています」


 クラウスが一枚の紙を差し出した。


「陛下からの伝言です。今夜、執務室に来るように、と」



 夜。


 エドヴァルドの執務室に入ると、彼はいつもの椅子に座っていた。だが、いつもと雰囲気が違う。机の上に書類はなく、代わりにワインの瓶とグラスが二つ。


「座れ」


 座った。エドヴァルドがワインを注ぐ。帝国の赤ワイン。深い紅色が蝋燭の灯りに照らされて宝石のように輝いている。


「飲め」


「毒は入っていませんか」


 冗談のつもりで言ったが、エドヴァルドの目が一瞬鋭くなった。


「……すみません。不謹慎でした」


「いや。笑えるようになったなら、もう大丈夫だということだ」


 グラスを軽く合わせた。静かな乾杯。


 ワインは辛口で、体の芯が温まった。


「ヴェルナーは終わった。お前の功績だ」


「皆の——」


「皆の功績だ。分かっている。だが、指揮を執ったのはお前だ。それは認めろ」


 反論を許さない口調だった。


「……はい。ありがとうございます」


 エドヴァルドがワインを一口飲み、窓の外に目をやった。


「お前が宮廷に来てから、四ヶ月か。短いようで長い」


「陛下にとっては長かったですか」


「俺にとっては——」


 言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込んだ。


「いや。いい」


 何を言おうとしたのか。聞きたかった。でも、無理には聞かない。この人には、この人のペースがある。


 しばらく二人で静かにワインを飲んだ。暖炉の火が穏やかに燃えている。



 その静寂を破ったのは、廊下の足音だった。


 ドアが乱暴にノックされ、クラウスが飛び込んできた。彼がこれほど取り乱した姿を見るのは初めてだった。


「陛下。緊急報告です」


「何だ」


「王国から急報です。ルクレシア王国で貴族の反乱が発生。複数の地方領主が王家に対し、内政改革を要求して蜂起しました。王都への物流が遮断され、国政が麻痺状態に陥っています」


 グラスを持つ手が止まった。


「反乱の規模は」


「南部と東部の領主が連合しています。軍事衝突は今のところありませんが、交渉が決裂すれば武力衝突に発展する可能性があります」


「穏健派の動きは」


「デュラン公爵が仲裁に動いているようですが、王家側がアルベール殿下の失政を認めない限り、反乱側は矛を収めないでしょう」


 私の心臓が冷えた。


 父。


 反乱の渦中で、仲裁者として動いている。危険な立場だ。どちら側からも標的にされる可能性がある。


「お父様は……」


「現時点では無事のようです。ただし、状況は流動的です」


 エドヴァルドが立ち上がった。


「明朝、御前会議を招集しろ。帝国としての対応を協議する。王国の内乱が帝国の国境に飛び火する前に手を打つ」


「はい」


 クラウスが去った後、二人きりになった。


 エドヴァルドが私を見た。


「デュラン」


「はい」


「お前の父が心配か」


「……はい」


 正直に答えた。声が震えるのを止められなかった。


 ヴェルナー侯爵を倒した安堵が、一瞬で吹き飛んだ。帝国の問題が片付いた途端に、王国の問題が噴出する。まるで試練に終わりがないかのようだ。


 エドヴァルドが一歩近づいた。


 手が伸びてきた。


 私の頭に——大きな手が乗った。


 ぎこちない、不器用な動作。頭を撫でるというより、手を置いただけに近い。だがその手は温かかった。


「俺にできることは限られるが——お前の父の安全は、帝国としても配慮する。約束する」


「……ありがとうございます」


 涙は堪えた。堪えられたと思う。


 エドヴァルドの手が離れた。


「今夜は休め。明日から忙しくなる」


「はい」


 執務室を出て、廊下を歩いた。


 頭に残る温もりを、ずっと感じていた。


 お父様。どうか無事で。


 窓の外の雪が、音もなく降り続けていた。

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