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「セラフィーナ・デュラン!」
アルベールの声が広間に響き渡った。指が私を差している。その隣でリュミエールが不安そうに王子の袖を掴んでいるのが見えた。
「俺はここに宣言する。お前との婚約を、本日をもって破棄する!」
会場にどよめきが走った。予想していた者もいたのだろう、驚きの中にも「やはり」という色がある。私は黙ったまま、王子の言葉の続きを待った。
「お前はこの三年間、リュミエールに対して陰湿な嫌がらせを繰り返してきた。教科書を隠し、ドレスを汚し、彼女を孤立させようとした。そのような卑劣な人間を、俺は未来の王妃として認めるわけにはいかない!」
アルベールの隣に、二人の男子生徒が進み出た。侯爵家の嫡男ロベールと、宰相の息子ジャン=ポール。どちらもアルベールの取り巻きで、原作では断罪イベントでセラフィーナの「罪状」を証言する役だ。
「私も見ました。セラフィーナ様がリュミエールさんの教科書を窓から投げ捨てるのを」
ロベールが声を上げた。
「僕も証言します。セラフィーナ様がリュミエールさんに『平民のくせに学園に来るな』と言っているのを聞きました」
ジャン=ポールが続く。
——嘘だ。
その二つのイベントは、私が十歳の時点で回避済みだ。教科書のイベントは二年生の秋、ドレスのイベントは三年生の春。どちらも発生条件を潰してある。ロベールとジャン=ポールは、見てもいないことを証言している。
だが彼らがそうする理由は分かる。アルベールに媚びたいのだ。王子が断罪すると決めた以上、証拠は後からいくらでも作れると思っている。
会場の視線が私に集まった。数百人の生徒と教師。息を呑む音が聞こえる。
さて。
「殿下」
私は一歩前に出た。スカートの裾が床の上を滑る音だけが響いた。
「ありがとうございます」
微笑んだ。心からの笑顔を、できるだけ穏やかに。
会場が凍った。アルベールの表情が固まる。
「……何だと?」
「婚約の破棄、ありがとうございます、と申し上げました。実はちょうど、私からもお願いしようと思っていたところでした」
ざわめきが波のように広がった。断罪される側が感謝する。これは原作にはない展開だ。アルベールの台本にもないだろう。
王子の碧い目が揺れた。怒りと困惑が入り混じっている。彼のシナリオでは、セラフィーナは泣いて許しを請うか、逆上して醜態を晒すはずだった。そのどちらでもない反応に、明らかに動揺している。
「ふざけるな。お前は自分の罪を認めないのか」
「罪、ですか」
私は首を傾げた。
「殿下、一つお伺いしてもよろしいですか。ロベール様とジャン=ポール様がおっしゃった件ですが、具体的にいつ、どこで起きたことか、日付と場所を教えていただけますか?」
「そ、それは——」
ロベールが口ごもった。当然だ。起きていないことに日付はない。
「また、リュミエールさんご本人にも確認をお取りになりましたか?」
アルベールの横で、リュミエールの顔が蒼白になった。彼女は首を横に振る。
「わ、私は……セラフィーナ様にそのようなことをされた覚えは……」
「リュミエール、お前は優しいから庇おうとしているんだ」
アルベールがリュミエールの言葉を遮った。思い込みが激しい。原作通りの性格だ。
ため息が出そうになるのを堪えた。ここで王子の愚かさを暴いても意味がない。目的は断罪を覆すことではなく、断罪を受け入れた上で、自分の退路を確保することだ。
「殿下」
声を落として、けれどはっきりと言った。
「証拠の有無については、後日改めて調査されればよろしいでしょう。ですが婚約の破棄については、私も異存ございません。王家とデュラン家の間で正式な手続きを進めていただければ、私は喜んでお受けいたします」
懐から書状を取り出した。
「つきましては、本日をもちまして、私はヴァルトシュタイン帝国への留学の途に就きます。こちらは国王陛下より正式にいただいた渡航許可証です」
会場がざわめいた。アルベールの目が見開かれた。
「帝国だと……? いつの間にそんな準備を」
「以前から興味がございましたので。婚約が解消されるのであれば、なおのこと、新天地で学びたいと思っておりました」
嘘ではない。嘘ではないが、全てでもない。この留学が七年越しの計画であることは、言う必要がない。
ロベールが焦ったように声を上げた。
「待て、逃げるつもりか! 罪を認めずに帝国に——」
「ロベール様」
視線を向けると、彼は一瞬たじろいだ。
「存在しない罪を認めることはできません。ですが、婚約破棄という殿下のご意思は尊重いたします。その上で、私がどこで学び、どこで生きるかは、私自身が決めることです」
会場が静まった。教師たちの何人かが頷いているのが見えた。学園の成績優秀者であり、品行にも問題がなかった私が、根拠のない罪状で一方的に断罪されている——冷静に見れば、おかしいのは王子の側だと気づく人間は少なくないはずだ。
でも、それを声に出す者はいない。相手は王子だから。
だから、私は自分で自分を守る。
アルベールは拳を握りしめていた。彼の想定した展開とはまるで違ったのだろう。セラフィーナが泣き崩れ、リュミエールの勝利が確定し、会場の同情が全てヒロインに集まる——そんな筋書きが崩壊した。
「勝手にしろ」
それだけ言って、アルベールは背を向けた。リュミエールの手を引いて広間の奥へ去っていく。リュミエールが一度だけ振り返って、私に申し訳なさそうな目を向けた。
私は小さく頷いた。あなたのせいじゃない。
彼女が去ると、周囲の空気が弛緩した。令嬢たちがひそひそと話し始める。「セラフィーナ様、帝国に行くんですって」「証拠もなしにあんな断罪って、王子殿下もどうなの」「でも逆らえないわよね」。
私はもう聞いていなかった。グラスを手に取り、今度は本当にワインを一口飲んだ。
終わった。
第一段階完了。
乙女ゲーム「聖輝のエトワール」の悪役令嬢ルートは、ここで事実上終了する。原作ではこの後、セラフィーナは修道院送りになり、孤独と病に蝕まれて死ぬ。
でも私は修道院には行かない。留学許可証がある。父の協力がある。マルタがいる。七年分の貯えがある。そして何より——行くべき場所を知っている。
ヴァルトシュタイン帝国。原作ではほとんど描かれなかった北方の大国。ただし一つだけ、重要な情報がある。
隠しルート。
本編を全クリアした後に解放される、隠し攻略対象——氷の皇帝エドヴァルド・フォン・ヴァルトシュタイン。
原作で私が唯一、心から攻略したいと思ったキャラクターだ。
会場を出ると、廊下に一人の男が立っていた。老年の騎士。白髪を短く刈り込み、古びた鎧を身につけている。名をギルベルトという。デュラン家に三十年仕えた護衛騎士で、父が私のために付けてくれた。
「お嬢様。馬車の準備はできております」
「ありがとう、ギルベルト。予定通りね」
「はい。マルタ殿も合流地点で待機中です」
ギルベルトの声は淡々としていたが、目元には安堵の色があった。断罪イベントがどうなるか、彼も心配していたのだろう。
学園の正門を出ると、待っていたのは公爵家の紋章が入った馬車ではなく、地味な商人風の馬車だった。目立たないように、という父の配慮だ。
馬車に乗り込む前に、一度だけ学園を振り返った。
白亜の校舎。薔薇のアーチ。噴水のある中庭。三年間通った場所だ。楽しいことばかりではなかったけれど、学ぶことは多かった。
「さようなら」
小さく呟いて、馬車に乗り込んだ。
振り返るのはこれで最後にしよう。
目を閉じると、馬車が揺れ始めた。学園の喧騒が遠ざかり、代わりに街の音が聞こえてくる。商人の呼び声、子供の笑い声、馬の蹄の音。
あと数時間で、デュラン家の屋敷に着く。そこで父に最後の挨拶をして、明朝には帝国に向けて発つ。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
でも、これでいい。これが最善の道だ。
七年間ずっと、この日のために準備してきた。原作の死亡ルートを回避し、新しい人生を手に入れるために。
目を開けた。窓の外を夕日が染めている。
明日から、全てが変わる。




