18
ヴェルナー侯爵の調査は、静かに、しかし着実に進んでいた。
ブリギッテが軍の情報網から拾ってきたのは、ヴェルナー家の領地で不自然な資金の流れがあるという噂だった。フリッツが軍学科の先輩から聞き出したのは、ヴェルナー家の私兵団が帝国軍の許可なく兵力を増強しているという情報。レーナが魔法研究室の記録保管庫で見つけたのは、ヴェルナー領の鉱山から産出される魔石の量と、帝国に報告されている量との乖離。
一つ一つはパズルのピースだ。まだ全体像は見えないが、点と点が線になり始めている。
だが、こちらが動いているということは、向こうも動いているということだ。
事件が起きたのは、帝国の建国記念祝典の夜だった。
帝城の大広間で催された祝典晩餐会。帝国中の高位貴族が一堂に会し、皇帝を筆頭に帝国の繁栄を祝う。宮廷官吏である私にも出席が義務付けられていた。
席順はエドヴァルドの右隣。前回の晩餐会と同じ位置だ。もはや定位置になりつつある。周囲の貴族たちの視線は相変わらず冷たかったが、面と向かって文句を言う者はいない。
料理が運ばれ、乾杯の準備が整った。
銀の杯にワインが注がれる。帝国の祝典では、皇帝が最初に杯を掲げ、一同がそれに続く。古来からの儀式だ。
杯が並べられた。エドヴァルドの前に一つ、私の前に一つ。
何の前触れもなく、エドヴァルドの手が伸びた。
私の杯を取り上げ、自分の杯と入れ替えた。
「陛下?」
小声で問いかけたが、エドヴァルドは答えなかった。視線は正面を向いたまま。まるで無意識の動作のように自然だった。
だが次の瞬間、彼の目がわずかに細くなった。自分の前に来た——もとは私の前にあった——杯の中身を見つめている。
周囲は何も気づいていない。杯の交換は一瞬の出来事で、すぐ隣にいた私にしか見えなかった。
「クラウス」
エドヴァルドが低い声で側近を呼んだ。クラウスが素早く近づく。
「この杯を調べろ。今すぐ。目立たぬようにな」
クラウスの表情が一瞬で変わった。飄々とした仮面が剥がれ、鋭い目つきになる。杯を布で覆い、手際よく持ち去った。
エドヴァルドは何事もなかったかのように、元からあった——もとは私の前にあった——方の杯とは別の新しい杯をさりげなく取り、乾杯の音頭を取った。
「帝国の繁栄に」
一同が杯を掲げた。私も新しく注がれた杯で応じた。手が震えていた。
何が起きたのか。
エドヴァルドは私の杯に何かを感じ取り、咄嗟に交換した。もし彼が動かなければ——私はその杯の中身を口にしていた。
祝典が終わり、貴族たちが退出した後。
帝城の奥まった一室に、エドヴァルドとクラウスと私の三人が集まった。
テーブルの上に、あの杯が置かれている。クラウスが宮廷の薬師に調べさせた結果が、紙一枚にまとめられていた。
「蒼銀花の抽出液。遅効性の毒で、摂取後六時間から十二時間で高熱と意識混濁を引き起こします。致死量には至りませんが、重篤な衰弱を招く」
クラウスの声は淡々としていたが、拳は白くなるほど握りしめられていた。
「殺すのではなく、病に見せかけて倒す。狡猾ですね」
「犯人の目処は」
「給仕の動線を調べています。杯にワインを注いだ後、テーブルに並べるまでの間に手を加えたはずです。……時間をいただければ」
「三日以内に洗え。全ての関係者を調べ上げろ」
エドヴァルドの声は氷よりも冷たかった。
クラウスが退室し、二人きりになった。
沈黙が落ちた。
エドヴァルドは窓際に立ち、外を見ていた。その背中から、明確な怒りの気配が漏れている。室内の温度が体感で数度下がっていた。氷の魔力が制御を離れかけている。
「陛下」
「黙れ」
初めて、そんな冷たい声を向けられた。
だが、すぐに分かった。怒りは私に向けられたものではない。
「——すまん。お前に言ったんじゃない」
振り返ったエドヴァルドの顔は、蒼白だった。普段は鉄壁の無表情を保つこの人が、感情を隠しきれていない。
「あの杯を——お前が飲んでいたらと思うと」
声が、わずかに震えていた。
「なぜ気づいたんですか。杯に毒が入っていることに」
「匂いだ。蒼銀花の抽出液は、微かに金属の匂いがする。氷の魔力を持つ者は、温度と匂いの変化に敏感になる。お前の杯の近くを通ったとき、何か違うと感じた」
「それで、咄嗟に——」
「考える前に手が動いた」
エドヴァルドが歩いてきて、私の前に立った。見上げる形になる。紫水晶の瞳が、蝋燭の灯りの中で揺れていた。
「お前を失う可能性を、俺は許容できない」
心臓が止まるかと思った。
「それは——帝国にとって有用な人材だから、ですか」
聞いてしまった。聞かなければよかったかもしれない。でも、聞かずにはいられなかった。
エドヴァルドの表情が、一瞬だけ揺れた。何かを言おうとして——飲み込んだ。
「……そうだ。帝国にとって、お前は必要な人間だ」
やはり、そう答える。
でも。
嘘だ、と思った。
咄嗟に杯を交換した人間が、理性で動いているわけがない。考える前に手が動いた——その言葉が全てを物語っている。あれは政治的判断ではなく、本能だ。
けれど、この人はまだそれを認められない。自分の感情に名前をつけることを恐れている。
だから、今は追及しない。
「ありがとうございます、陛下。お守りいただいて」
「今後は食事の前に全て検査する。お前の分も、俺の分も。宮廷の警備を総入れ替えする」
「大掛かりですね」
「当然だ。俺の目の届く場所で毒を盛られた。これは帝国への侮辱だ」
皇帝の怒り。それは一個人の感情を超えて、国家の意志になる。
「陛下。一つお願いがあります」
「何だ」
「犯人の追及は、私にもやらせてください。ヴェルナー侯爵の調査と合わせて、証拠を固めます」
「危険だ」
「もう狙われている時点で、安全な場所などありません。ならば、攻めに回った方がいい」
エドヴァルドが黙った。
しばらくの沈黙の後、低い声で言った。
「分かった。だが、一人では動くな。クラウスと連携しろ。そして——」
一歩、近づいた。
「お前の傍に、俺自身が護衛に立つ」
「陛下が護衛ですか。さすがにそれは——」
「文句があるか」
「……ありません」
この距離は近すぎる。エドヴァルドの体温が伝わってきそうだ。冷たいはずなのに、不思議と温かい。
「今夜は帝城に泊まれ。学院までの道が安全とは限らん。客室を用意させる」
「はい」
抗弁する気力は残っていなかった。毒を盛られかけたという事実が、遅れて体に響いてきた。足が震えている。
エドヴァルドがそれに気づいたのだろう。何も言わず、マントを外して私の肩にかけた。重い生地が体を包む。エドヴァルドの匂いがした。冬の風と、かすかな針葉樹の香り。
「寒いだろう」
「……はい」
涙が出そうだった。怖かったわけじゃない。いや、怖かった。でもそれ以上に——この人が守ってくれることが、こんなにも心強くて、こんなにも温かいことが、胸を締めつけた。
「ありがとうございます」
「もう寝ろ。明日から忙しくなる」
「はい」
客室に向かう廊下で、エドヴァルドのマントを肩に感じながら歩いた。重くて温かい。この重さは、あの人が毎日背負っているものの象徴だ。
客室に入り、ベッドに座って、ようやく一人になった。
マントを抱きしめて、声を殺して泣いた。
怖かった。死ぬかもしれなかった。でもそれ以上に——あの人が杯を交換してくれなければ。あの人がいなければ。
もう、あの人なしでは生きられない。
それは弱さだろうか。依存だろうか。
分からない。でも確かなのは、この気持ちが本物だということ。
涙が止まった後、深呼吸した。
泣くのは今夜だけ。明日からは戦う。
あの人を守る側に立つために。




