17
宮廷入りした初日から、風当たりは予想以上だった。
帝城の東翼三階。エドヴァルドの執務室の隣に、私の小さな執務室が用意されていた。机と椅子、本棚、窓一つ。質素だが十分な空間だ。
朝、出仕すると廊下ですれ違う宮廷官吏たちの視線が刺さった。好奇、警戒、そして敵意。聴講生の外国人が、いきなり皇帝直属の補佐官になった。帝国の宮廷に波紋が広がるのは当然だった。
「お気になさらず」
隣の執務室からクラウスが顔を出した。彼の執務室は廊下を挟んで反対側にある。
「最初はみんなそうです。陛下の人事に文句を言える者はいませんが、裏では色々と言っているでしょうね」
「どんなことを?」
「外国の小娘が皇帝に取り入った。あるいは——もっと下世話な憶測も」
「想像がつきます」
「気にしないでください。結果を出せば黙ります。帝国は実力主義ですから」
クラウスの言葉は正しい。だが問題は、結果を出す前に潰しにかかる人間がいることだ。
最初の妨害は、些細なものから始まった。
私の執務室に届くはずの資料が遅れる。会議の時間変更が伝達されない。宮廷の食堂で、私の席だけ食事が出てこない。
陰湿だが、巧妙だ。一つ一つは「手違い」で済ませられる程度のもので、誰かの悪意を証明するのは難しい。
犯人の見当はついていた。
ヴェルナー侯爵。帝国の保守派貴族の筆頭で、宮廷内に強い影響力を持つ老貴族だ。エドヴァルドの即位以来、保守派と皇帝の間には緊張関係がある。エドヴァルドの改革路線——実力主義の徹底、旧来の貴族特権の縮小——は、ヴェルナーのような古い権力者にとって脅威だ。
そしてヴェルナー侯爵には、もう一つの思惑がある。
娘のイルゼを皇妃にすること。
イルゼ・フォン・ヴェルナー。侯爵家の令嬢で、帝国の社交界では屈指の美貌を誇る女性らしい。私はまだ直接会ったことがないが、噂はよく耳にした。金髪碧眼、社交に長け、高位貴族の令嬢たちを束ねる存在。
ヴェルナー侯爵からすれば、皇帝の近くに若い女性の補佐官が配置されたことは、皇妃計画への障害に他ならない。
三日目の朝、廊下でその女性と遭遇した。
「あら。あなたが噂の補佐官?」
振り返ると、そこに立っていたのは金髪を高く結い上げた若い女性だった。白いドレスに真珠のネックレス。完璧な姿勢、完璧な微笑み。
「イルゼ・フォン・ヴェルナーですわ。お初にお目にかかりますわね」
「セラフィーナ・デュランです。お噂はかねがね」
「まあ、どんな噂かしら。ろくな話ではないでしょうけど」
笑顔のまま、目が笑っていない。王国の社交界で見飽きた種類の微笑みだ。
「王国からいらしたのでしょう? 帝国の宮廷は王国とは違いますのよ。お気をつけになって」
「ご忠告ありがとうございます。帝国の方は親切ですわね」
「親切ですわよ。味方でいる限りはね」
意味深な台詞を残して、イルゼは去っていった。ドレスの裾が廊下の石の上を滑る音が、耳に残った。
敵意は明白だが、直接的な攻撃ではない。まだ様子見の段階だ。だがヴェルナー家が本格的に動き出せば、宮廷内の保守派が一斉に私への圧力を強めるだろう。
対策が必要だ。
その夜、書庫ではなく自分の執務室で遅くまで仕事をしていた。
ヴェルナー侯爵に関する情報を集めていた。宮廷の公式記録、貴族院の議事録、商会の取引記録。クラウスが「使えるかもしれない」と渡してくれた非公式の資料もある。
時計が深夜零時を回った頃、執務室のドアがノックされた。
「まだいるのか」
エドヴァルドだった。
隣の執務室からの移動だろう。つまり彼もまだ仕事をしていたということだ。
「陛下こそ」
「俺の執務時間に口を出すな」
そう言いながら、手にマグカップを二つ持っていた。一つを私の机に置く。温かい蜂蜜入りのハーブティー。
「……ありがとうございます」
「寒いだろう。暖炉の薪を足しておけ」
言われて気づいた。暖炉の火が小さくなっている。資料に集中して、部屋が冷えていることに気づかなかった。
エドヴァルドが暖炉の前にしゃがみ、薪をくべた。皇帝が自分の手で薪をくべる姿は、さすがに見たことがない。
「陛下、私がやります——」
「座ってろ。もうやった」
火が勢いを取り戻し、部屋が明るくなった。エドヴァルドは立ち上がり、机の上に散らばった資料にちらりと目をやった。
「ヴェルナーか」
隠すつもりはなかった。
「はい。妨害の頻度が上がっています。このままでは業務に支障が出ます」
「分かっている。ヴェルナーは以前から目をつけていた。だが、帝国の貴族は証拠なく処分できない」
「証拠はこれから集めます」
「一人でやるつもりか」
「いいえ。仲間がいます」
エドヴァルドが眉を上げた。
「学院の友人たちです。ブリギッテは軍閥の家系で、ヴェルナー派とは別系統の情報網を持っています。フリッツは軍学科の人脈がある。レーナの魔法研究室には、宮廷とは独立した記録保管庫がある」
「聴講生の仲間を宮廷の暗闘に巻き込むのか」
「巻き込みはしません。お願いするだけです。受けるかどうかは彼らが決めます」
エドヴァルドは少し考えて、頷いた。
「好きにしろ。だが——無理はするな」
「はい」
「それと」
ドアに向かいかけたエドヴァルドが、立ち止まった。こちらを振り返らないまま。
「お前を宮廷に入れたのは俺の判断だ。お前が攻撃されるなら、それは俺の責任でもある。だから——一人で抱え込むな」
声が低かった。怒りでも命令でもない。もっと穏やかで、もっと切実な響き。
「……陛下」
「何だ」
「薪をくべてくださって、ありがとうございます。お茶も」
エドヴァルドの背中が一瞬だけ強張った。
「……当然のことだ」
扉が閉まった。
一人になった執務室で、マグカップを両手で包んだ。蜂蜜の甘い香りが鼻をくすぐる。
一人で抱え込むな。
この人は、不器用な言葉でいつも核心をつく。私が一人で戦おうとしていることを見抜いて、そうするなと言ってくれる。
ハーブティーを一口飲んだ。体の芯まで温まった。
大丈夫。一人じゃない。
明日、ブリギッテたちに相談しよう。ヴェルナー侯爵の正体を暴くために。
そしていつか——この人の隣に立つに相応しい自分になるために。
暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら、私は資料に向き直った。




