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婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


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宮廷入りした初日から、風当たりは予想以上だった。


 帝城の東翼三階。エドヴァルドの執務室の隣に、私の小さな執務室が用意されていた。机と椅子、本棚、窓一つ。質素だが十分な空間だ。


 朝、出仕すると廊下ですれ違う宮廷官吏たちの視線が刺さった。好奇、警戒、そして敵意。聴講生の外国人が、いきなり皇帝直属の補佐官になった。帝国の宮廷に波紋が広がるのは当然だった。


「お気になさらず」


 隣の執務室からクラウスが顔を出した。彼の執務室は廊下を挟んで反対側にある。


「最初はみんなそうです。陛下の人事に文句を言える者はいませんが、裏では色々と言っているでしょうね」


「どんなことを?」


「外国の小娘が皇帝に取り入った。あるいは——もっと下世話な憶測も」


「想像がつきます」


「気にしないでください。結果を出せば黙ります。帝国は実力主義ですから」


 クラウスの言葉は正しい。だが問題は、結果を出す前に潰しにかかる人間がいることだ。



 最初の妨害は、些細なものから始まった。


 私の執務室に届くはずの資料が遅れる。会議の時間変更が伝達されない。宮廷の食堂で、私の席だけ食事が出てこない。


 陰湿だが、巧妙だ。一つ一つは「手違い」で済ませられる程度のもので、誰かの悪意を証明するのは難しい。


 犯人の見当はついていた。


 ヴェルナー侯爵。帝国の保守派貴族の筆頭で、宮廷内に強い影響力を持つ老貴族だ。エドヴァルドの即位以来、保守派と皇帝の間には緊張関係がある。エドヴァルドの改革路線——実力主義の徹底、旧来の貴族特権の縮小——は、ヴェルナーのような古い権力者にとって脅威だ。


 そしてヴェルナー侯爵には、もう一つの思惑がある。


 娘のイルゼを皇妃にすること。


 イルゼ・フォン・ヴェルナー。侯爵家の令嬢で、帝国の社交界では屈指の美貌を誇る女性らしい。私はまだ直接会ったことがないが、噂はよく耳にした。金髪碧眼、社交に長け、高位貴族の令嬢たちを束ねる存在。


 ヴェルナー侯爵からすれば、皇帝の近くに若い女性の補佐官が配置されたことは、皇妃計画への障害に他ならない。



 三日目の朝、廊下でその女性と遭遇した。


「あら。あなたが噂の補佐官?」


 振り返ると、そこに立っていたのは金髪を高く結い上げた若い女性だった。白いドレスに真珠のネックレス。完璧な姿勢、完璧な微笑み。


「イルゼ・フォン・ヴェルナーですわ。お初にお目にかかりますわね」


「セラフィーナ・デュランです。お噂はかねがね」


「まあ、どんな噂かしら。ろくな話ではないでしょうけど」


 笑顔のまま、目が笑っていない。王国の社交界で見飽きた種類の微笑みだ。


「王国からいらしたのでしょう? 帝国の宮廷は王国とは違いますのよ。お気をつけになって」


「ご忠告ありがとうございます。帝国の方は親切ですわね」


「親切ですわよ。味方でいる限りはね」


 意味深な台詞を残して、イルゼは去っていった。ドレスの裾が廊下の石の上を滑る音が、耳に残った。


 敵意は明白だが、直接的な攻撃ではない。まだ様子見の段階だ。だがヴェルナー家が本格的に動き出せば、宮廷内の保守派が一斉に私への圧力を強めるだろう。


 対策が必要だ。



 その夜、書庫ではなく自分の執務室で遅くまで仕事をしていた。


 ヴェルナー侯爵に関する情報を集めていた。宮廷の公式記録、貴族院の議事録、商会の取引記録。クラウスが「使えるかもしれない」と渡してくれた非公式の資料もある。


 時計が深夜零時を回った頃、執務室のドアがノックされた。


「まだいるのか」


 エドヴァルドだった。


 隣の執務室からの移動だろう。つまり彼もまだ仕事をしていたということだ。


「陛下こそ」


「俺の執務時間に口を出すな」


 そう言いながら、手にマグカップを二つ持っていた。一つを私の机に置く。温かい蜂蜜入りのハーブティー。


「……ありがとうございます」


「寒いだろう。暖炉の薪を足しておけ」


 言われて気づいた。暖炉の火が小さくなっている。資料に集中して、部屋が冷えていることに気づかなかった。


 エドヴァルドが暖炉の前にしゃがみ、薪をくべた。皇帝が自分の手で薪をくべる姿は、さすがに見たことがない。


「陛下、私がやります——」


「座ってろ。もうやった」


 火が勢いを取り戻し、部屋が明るくなった。エドヴァルドは立ち上がり、机の上に散らばった資料にちらりと目をやった。


「ヴェルナーか」


 隠すつもりはなかった。


「はい。妨害の頻度が上がっています。このままでは業務に支障が出ます」


「分かっている。ヴェルナーは以前から目をつけていた。だが、帝国の貴族は証拠なく処分できない」


「証拠はこれから集めます」


「一人でやるつもりか」


「いいえ。仲間がいます」


 エドヴァルドが眉を上げた。


「学院の友人たちです。ブリギッテは軍閥の家系で、ヴェルナー派とは別系統の情報網を持っています。フリッツは軍学科の人脈がある。レーナの魔法研究室には、宮廷とは独立した記録保管庫がある」


「聴講生の仲間を宮廷の暗闘に巻き込むのか」


「巻き込みはしません。お願いするだけです。受けるかどうかは彼らが決めます」


 エドヴァルドは少し考えて、頷いた。


「好きにしろ。だが——無理はするな」


「はい」


「それと」


 ドアに向かいかけたエドヴァルドが、立ち止まった。こちらを振り返らないまま。


「お前を宮廷に入れたのは俺の判断だ。お前が攻撃されるなら、それは俺の責任でもある。だから——一人で抱え込むな」


 声が低かった。怒りでも命令でもない。もっと穏やかで、もっと切実な響き。


「……陛下」


「何だ」


「薪をくべてくださって、ありがとうございます。お茶も」


 エドヴァルドの背中が一瞬だけ強張った。


「……当然のことだ」


 扉が閉まった。


 一人になった執務室で、マグカップを両手で包んだ。蜂蜜の甘い香りが鼻をくすぐる。


 一人で抱え込むな。


 この人は、不器用な言葉でいつも核心をつく。私が一人で戦おうとしていることを見抜いて、そうするなと言ってくれる。


 ハーブティーを一口飲んだ。体の芯まで温まった。


 大丈夫。一人じゃない。


 明日、ブリギッテたちに相談しよう。ヴェルナー侯爵の正体を暴くために。


 そしていつか——この人の隣に立つに相応しい自分になるために。


 暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら、私は資料に向き直った。

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