15
晩餐会の翌日、使節団との実務交渉が始まった。
私は直接交渉の場には出ないが、エドヴァルドとクラウスから事前に意見を求められていた。交渉の内容は通商条約の改定——表向きはそうだ。だが本当の目的は別にある。
それが分かったのは、クラウスが持ってきた王国側の提出資料を見たときだった。
「これは……」
帝城の小会議室で資料を広げた私は、思わず声を漏らした。
王国の財政報告書。数字が赤い。
歳入が前年比で二割減少。国庫の準備金は三年前の半分以下。南部の農産物輸出は停滞し、北部の鉱山からの税収も落ちている。
「率直に言って、王国の経済は崩壊寸前です」
クラウスが眼鏡を押し上げながら言った。
「通商条約の改定というのは建前で、実際にはアルベール殿下は帝国に経済支援を求めに来たのです」
「支援の内容は」
「低利での融資、穀物の優先輸出枠の確保、帝国商人の王国への投資促進。要するに——金を貸してくれ、です」
資料を読み込むほど、状況の深刻さが見えてきた。
原因は複合的だが、根底にあるのは人材の流出だ。セラフィーナが去った後——つまり私がいなくなった後——デュラン公爵家の影響力が宮廷で低下した。父は政治的には健在だが、王子との関係が悪化したことで発言力が削がれた。
デュラン家が主導していた南部交易路の管理が別の貴族に移り、非効率な運営に変わった。関税の設定も場当たり的になり、帝国側の商人が王国との取引を敬遠し始めた。
さらに聖女リュミエールの問題がある。
原作ではリュミエールは聖女の力で民の支持を集める存在だが、政治には素人だ。アルベールが彼女を宮廷に入れたことで、政策決定の場に聖女の「善意」が介入するようになった。善意そのものは悪くない。だが、財政や外交の判断を善意だけで行えば、歪みが生じる。
貧しい人にもっと施しを。税金を下げてあげて。外国との争いはやめて。
リュミエールの提案はどれも「正しい」が、財源の裏付けがない。結果、歳出が膨らみ、歳入が減り、国庫が枯渇した。
リュミエール自身に悪気はないだろう。ただ、政治を知らないのだ。そしてアルベールは、彼女の言葉を否定できない。恋は盲目とはよく言ったものだ。
「皮肉な話ですね」
私は資料を閉じた。
「セラフィーナ様を追い出した結果がこれ、というわけです」
クラウスが淡々と言った。だが目の奥に、鋭い観察者の光がある。
「もちろん、あなた一人がいなくなったことが全ての原因ではありません。ただ、デュラン家の影響力低下が引き金になったのは間違いない。あなたが去ったことで、公爵家と王家の関係が悪化し、宮廷の力学が崩れた」
「……因果応報、というには、関係のない民まで巻き込まれていますね」
「ええ。だからこそ——陛下は、あなたの意見を求めています」
午後、エドヴァルドの執務室に呼ばれた。
机の上には王国の財政資料と、帝国側の対応案が広げられている。エドヴァルドは椅子の背にもたれ、腕を組んでいた。
「読んだか」
「はい」
「どう思う」
「王国は助けを求めています。ですが、その求め方が間違っています」
「具体的に」
「王国が求めているのは無条件の支援——実質的な施しです。しかし施しは国家間の関係を歪めます。一方的な援助は、受ける側を依存させ、与える側に不満を蓄積させる」
エドヴァルドが頷いた。
「俺も同意見だ。だが王国を放置すれば崩壊する。帝国の南に不安定な国があることは、帝国にとっても不利だ」
「ですから、助けるなら対等な条件で。施しではなく、取引として」
「例えば」
「帝国が融資する代わりに、王国の通商制度改革を条件にする。具体的には、南部交易路の管理権を帝国と王国の共同管理にする。帝国側の効率的な運営ノウハウを入れることで、交易量を回復させる。融資の返済は交易収益から行う」
「厳しい条件だな。王国が飲むか」
「飲まざるを得ません。他に選択肢がないのですから。そして——条件が厳しいからこそ、施しではなくなります。互いの利益のための取引になる」
エドヴァルドが黙って考えている。
「もう一つ」
「何だ」
「この条件を提示するのは、アルベール殿下にではなく、王国の宰相に直接が良いと思います。殿下は感情で判断しますが、宰相は政治家です。合理的な提案には合理的に応じるでしょう」
「アルベールの頭越しに交渉しろと」
「使節団の団長を軽視するのではなく、実務レベルでの協議を並行して進めるという形です。外交的には問題ありません」
エドヴァルドの口の端がわずかに上がった。
「お前の提案はいつも容赦がないな」
「容赦のない提案でなければ、陛下の時間をいただく意味がありません」
「ふん」
いつもの鼻息。だが、不快の色はない。
「いいだろう。クラウスにお前の案を伝えろ。交渉の叩き台として使う」
「はい」
「それと——この件はお前にも関わってもらう。交渉の裏方として」
「私が?」
「王国の事情を知り、帝国の利益も理解している人間は、お前しかいない」
その通りだ。帝国の官僚には王国の内情が分からない。王国の使節には帝国の思惑が見えない。両方の橋渡しができるのは、私だけだ。
「承知いたしました」
立ち上がって礼をした。部屋を出ようとしたとき、エドヴァルドが言った。
「デュラン」
「はい」
「故国の窮状を前にして、冷静でいられるのか」
足が止まった。
振り返ると、エドヴァルドの紫の瞳が静かにこちらを見ていた。皇帝の鋭さではなく、もっと個人的な——気遣いの視線。
「正直に言えば、胸が痛みます。あの国には父がいて、お世話になった人たちがいます」
「だろうな」
「でも——感情で政策を歪めるのは、リュミエールと同じ過ちです。私にできるのは、冷静な判断で最善の結果を導くこと。それが結果的に、両国の民を救うことになる」
エドヴァルドは数秒間、私を見つめた。
「お前がこの帝国にいてくれて——助かっている」
不意打ちだった。
エドヴァルドの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。「悪くない」すら稀なのに、「助かっている」は明確な肯定だ。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。気づかれただろうか。
「行け。クラウスが待っている」
「はい」
扉を閉めた後、廊下で深呼吸した。
あの人の言葉が、まだ胸の中で響いている。
助かっている。
前世でも今世でも、誰かにそう言われたことはなかった。ブラック企業では替えの利く歯車だった。王国では捨てられる婚約者だった。
でもここでは——この人の隣では——私には価値がある。
拳を握りしめた。
この交渉、必ず成功させる。帝国のために。王国の民のために。そして——あの人の信頼に応えるために。




