14
晩餐会の夜。
帝城ヴァイスブルクの大広間は、氷細工のシャンデリアと銀の燭台で飾られていた。帝国の威信を示すように、壁には歴代皇帝の紋章旗が掲げられ、長いテーブルには白磁の食器と銀のカトラリーが並んでいる。
帝国の高位貴族たちが正装で集い、低い声で言葉を交わしている。帝国の社交は王国と比べて静かだ。華やかさではなく、重厚さと威厳で場を作る。
私は蒼色のドレスに銀の刺繍のショールを羽織り、大広間に入った。マルタに整えてもらった髪は帝国風の低い夜会巻き。アクセサリーは母のアメジストのイヤリングと、新しく誂えた銀のブレスレット一本。
入口でクラウスが待っていた。
「セラフィーナ殿。お席にご案内します」
「よろしくお願いします」
「お綺麗ですよ。帝国の令嬢顔負けです」
「お世辞がお上手ですね」
「事実を述べただけです。では——こちらへ」
案内された席は、長テーブルの上座。皇帝の右隣。
すでに何人かの帝国貴族が着席していた。私の席を見て、明らかに驚いた表情をしている者がいる。聴講生の外国人令嬢が皇帝の隣。異例中の異例だろう。
座って待つこと数分。
大広間の正面扉が開き、エドヴァルドが入場した。
白銀のマントに黒の軍服。額には細い銀の冠。正装のエドヴァルドは、普段の執務室で見るときとは別人のような威圧感を纏っていた。大広間の全員が立ち上がり、頭を下げる。私も立った。
エドヴァルドが上座に着く。その動作は一切の無駄がなく、まるで玉座に座る動作を千回繰り返して完成させたかのように洗練されている。
席に着いた彼が、一度だけ横目でこちらを見た。ほんの一瞬。だが、その目に「大丈夫か」という問いが込められているのを感じた。
小さく頷いた。大丈夫。
そして——王国の使節団が入場した。
先頭に立っていたのは、金髪碧眼の青年。
アルベール・ド・ルクレシア。第三王子。
あの卒業パーティーから半年以上が経っている。だが彼の外見はほとんど変わっていなかった。金の髪を後ろに撫でつけ、王国の正装である白い軍服に金の肩章。王族らしい端正な顔立ち。
ただ、目の下に薄い隈があった。以前はなかったものだ。
アルベールの後ろに、随行の貴族が数人続く。ロベールやジャン=ポールの姿はない。代わりに、年配の外交官らしき男が二人。使節団の実務を担う人間だろう。
使節団が上座の前まで進み、帝国式の礼を取った。よく練習してきたらしく、形は整っている。
「ルクレシア王国第三王子、アルベール・ド・ルクレシアです。帝国皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
アルベールの声は、かつての自信に満ちたものとは微妙に違っていた。緊張が混じっている。帝国の宮廷は、王国の社交界とは格が違う。それを肌で感じているのだろう。
「歓迎する。席につけ」
エドヴァルドの応答は簡潔だった。感情を一切排した、皇帝としての定型句。
アルベールがテーブルの向かい側に着席する。使節団の団長として、エドヴァルドの正面。
そこで初めて、アルベールの視線が私を捉えた。
目が合った。
アルベールの碧い瞳が大きく見開かれた。唇が微かに動く。声にはならなかったが、口の形で読み取れた。
——セラフィーナ。
驚愕。困惑。そして——動揺。
私が帝国にいることは知っていたはずだ。だが、皇帝の隣に座っている姿を実際に見るのとでは、衝撃が違うのだろう。
私は表情を動かさなかった。微笑みも、敵意も見せない。ただ静かに、帝国の令嬢がそうするように、軽く会釈だけした。
晩餐会が始まった。
料理は帝国の宮廷料理だった。前菜の薫製鮭、メインの鹿肉の蒸し焼き、デザートの蜂蜜と木の実のタルト。質実だが素材の良さが光る品々。
食事中、外交的な話題が交わされた。通商条約の改定について、国境付近の治安について、文化交流の可能性について。エドヴァルドは必要最小限の言葉で応じ、実務的な交渉はクラウスと王国の外交官に任せていた。
アルベールは食事中、何度もこちらに目をやっていた。私と目が合うたびに、すぐに視線を逸らす。落ち着かない様子だ。
食後、社交の時間になった。
出席者が席を立ち、広間の各所で歓談が始まる。私もエドヴァルドの傍を離れ——離れたくなかったが、外交の場で皇帝に張りつくのは不自然だ——帝国の貴族たちと軽い会話を交わしていた。
そのとき。
「セラフィーナ」
背後から声がかかった。
振り返ると、アルベールが立っていた。近くで見ると、隈がより目立つ。頬もわずかにこけている。王国で何かあったのだろう。
「殿下。お久しぶりです」
「ああ……。まさか帝国の晩餐会で会うとはな」
「私は帝国の聴講生ですから。帝国の行事に出席するのは自然なことです」
アルベールの目が泳いだ。何を言うべきか迷っているのが見て取れた。
「セラフィーナ。帝国での暮らしはどうだ」
「充実しています。学院で学ぶことが多くて、毎日があっという間です」
「そうか。……お前が帝国で評価されていると聞いた。学院の成績も優秀だと」
「恐縮です」
「それに——皇帝陛下の隣席だったな。どういう——」
「私が座らせた」
割って入ったのはエドヴァルドだった。
いつの間に来たのか。私のすぐ横に立っている。正装のマントが風もないのに揺れているように見えたのは、漏れ出す魔力のせいだろう。周囲の空気が冷たい。
「デュランは帝国の政策に貢献している。それに見合う席を用意した。それが何か」
声は穏やかだが、目は笑っていない。氷の皇帝。その異名の意味を、アルベールは今まさに体感しているはずだ。
「い、いえ。失礼しました。帝国のことに口を出すつもりは——」
「なら結構だ」
アルベールの顔が強張った。王子として人前で圧倒される経験は少なかったのだろう。だが、ここは帝国だ。帝国の皇帝の前では、王国の第三王子など一介の外交官に過ぎない。
エドヴァルドが半歩、前に出た。私とアルベールの間に入る形になる。
「余の客人に無礼を働くな。これは忠告だ」
「……承知しました」
アルベールが一歩退いた。屈辱の色が顔に浮かんでいる。だがここで抗弁する度胸はないらしい。
「失礼する」
一礼して、アルベールは使節団の席に戻っていった。その背中が、記憶の中のものより小さく見えた。
かつて私を断罪した王子。あの日、広間の中央で堂々と罪状を読み上げた男。あの傲慢さは鳴りを潜め、今の彼には疲労と焦りしか見えない。
胸の奥に、予想外の感情が浮かんだ。
怒りではない。恨みでもない。
哀れみ——というと傲慢だろうか。でも、あの人は自分が何を失ったのかまだ理解していない。私を失ったことではなく、正しい判断をする力を失ったのだ。
晩餐会が終わり、帝城の回廊を歩いていると、エドヴァルドが隣に並んだ。
護衛もクラウスもいない、短い二人きりの時間。
「大丈夫だったか」
「はい。陛下のおかげで」
「俺は何もしていない。ただ——あの男が気に食わなかっただけだ」
素っ気ない言い方だったが、声が優しかった。いつもの執務室での声ではなく、夜の書庫での声に近い。
「陛下」
「何だ」
「ありがとうございました。守っていただいて」
エドヴァルドは黙ったまま、数歩歩いた。
「お前は帝国の人間だ。守るのは当然だ」
帝国の人間。その言葉が、今日ほど嬉しかったことはなかった。
「では、これで失礼します。帝城の外に馬車が——」
「待て」
足が止まった。
エドヴァルドが振り返った。回廊の窓から差し込む月明かりが、銀髪を白く照らしている。
「明日の夜、書庫に来い」
「え?」
「読みかけの本があっただろう。続きが気になる」
それだけ言って、エドヴァルドは背を向けて歩いていった。マントの裾が石の床の上を滑る音が遠ざかっていく。
一人残された回廊で、私は立ち尽くした。
読みかけの本の続きが気になる。
あの人なりの「また会いたい」だ。断罪の夜に会った元婚約者のことなど、もう頭から消え去っていた。
帝城を出ると、秋の夜風が頬を撫でた。冷たいはずなのに、顔が熱い。
馬車に乗り込み、窓から帝城を見上げた。白銀の尖塔が月に照らされて、宝石のように輝いている。
あの城の中に、あの人がいる。
明日の夜、また会える。
それだけで世界が輝いて見える自分が、少しだけ可笑しかった。




