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その知らせは、帝城からではなく、学院の事務局を通じて届いた。
ルクレシア王国が正式な外交使節団を帝国に派遣する。目的は友好関係の再確認と通商条約の見直し。使節団の団長は——第三王子アルベール・ド・ルクレシア。
事務局から回された書状を読みながら、手が震えた。
怒りでも恐怖でもない。もっと複雑な感情だった。封じたはずの過去が、向こうから歩いてくる感覚。
書状にはもう一つ記載があった。使節団の滞在中、帝国側は歓迎晩餐会を開く。帝国在住のルクレシア王国出身者にも出席の招待が出される。つまり、私にも。
「出席するかどうかは任意です、と書いてありますわ」
マルタが書状を読み上げてくれた。
「任意、か……」
「出席されなくても、誰も責めませんよ。あの方に会いたくないというのは当然のことです」
マルタの声は穏やかだが、その奥に怒りが滲んでいる。彼女はあの断罪の夜のことを忘れていない。
考えた。
出席しなければ、アルベールから逃げたと取られる。出席すれば、否応なく過去と向き合うことになる。
でも——逃げるつもりはない。あの男から逃げるために帝国に来たのではない。自分の人生を生きるために来たのだ。
「出席するわ」
「お嬢様……」
「大丈夫よ、マルタ。もう十歳の子供じゃないんだから」
その日の午後、帝城に呼ばれた。今度はクラウスではなく、エドヴァルド自身からの召喚状だった。
執務室に入ると、エドヴァルドはいつものように机に向かっていた。だが空気がいつもと違う。張り詰めている。
「王国の使節団の件は聞いたか」
「はい。先ほど学院を通じて」
「使節団の団長が第三王子だということも」
「はい」
エドヴァルドが書類から目を上げた。紫水晶の瞳に、冷たい光がある。
「お前を断罪した男だな」
「はい」
「晩餐会に出席するつもりか」
「はい」
短いやり取りの後、沈黙が落ちた。エドヴァルドが何かを言いかけて、止めた。それからもう一度口を開いた。
「……会いたくなければ、会わなくてよい。帝国の行事だが、お前に出席を強制するつもりはない」
その言葉の端に、感情が滲んでいた。怒りなのか、気遣いなのか、それとも——別の何か。
「ありがとうございます、陛下。でも、出席します」
「なぜだ」
「逃げたくないからです。あの人から——過去から。帝国で新しい人生を始めたのに、過去に怯えて身を隠すのは、私らしくありません」
エドヴァルドは黙って私を見つめた。長い沈黙の後、小さく頷いた。
「分かった。だが一つ条件がある」
「何でしょう」
「晩餐会では俺の近くにいろ。帝国の関係者として、俺の隣席を用意する」
耳を疑った。
皇帝の隣席。それは通常、皇妃や最高位の貴族に与えられる位置だ。聴講生の私がそこに座れば、帝国の宮廷に波紋を呼ぶ。
「陛下、それは——さすがに目立ちすぎます」
「目立つのが目的だ。王国の使節団に明確なメッセージを送る。お前は帝国の人間であり、帝国が守っている。手出しは許さない、とな」
政治的な判断だ。それは分かる。分かるのだが、エドヴァルドの声にはそれだけではない響きがあった。
「お前を一人であの男の前に立たせるつもりはない」
最後の一言は、政治ではなかった。
胸が詰まった。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。本当はもっと伝えたいことがあった。嬉しいとか、心強いとか、あなたの隣にいられることがどれほど——
でも今は、言葉にできなかった。
使節団の到着まで一週間。
帝都は急に慌ただしくなった。外交行事は帝国の威信をかけた催しだ。帝城の清掃、街路の整備、晩餐会の準備。宮廷の役人たちが忙しく動き回っている。
私も準備を進めた。
まずは晩餐会のドレス。マルタが帝都の仕立て屋に注文してくれた。今度は母の形見ではなく、新しいドレスだ。帝国風の深い蒼色に、控えめな銀の刺繍。首元はすっきりとして、背筋の美しさが映えるデザイン。
「帝国の社交界で王国人が目立ちすぎるのは逆効果ですわ。品格はありつつ、控えめに。でも存在感は消さない」
マルタの仕立てへの指示は的確だった。元は帝国の貴族令嬢。社交のセンスは一流だ。
次にブリギッテに相談した。帝国の宮廷礼法について、細かい点を確認する。
「皇帝陛下の隣席? あなた、本当に何者なの」
「だから、政策の相談に——」
「もうその言い訳は通用しないわよ」
ブリギッテが腕を組んだ。だが、すぐに表情を和らげた。
「まあいいわ。帝国の晩餐会の作法について教えてあげる。王国とは乾杯のタイミングが違うから気をつけて。帝国では主催者が杯を上げるまで、客は杯に手を触れない」
「ありがとう」
「それと——」
ブリギッテが声を落とした。
「その王国の王子と会うのが辛かったら、いつでも私を頼って。途中で席を外す口実くらい作ってあげるわ」
「ブリギッテ……」
「友達でしょう。当然のことよ」
当然のこと。その言葉が、どれほど心強いか。
使節団到着の前日。
夜の書庫に、エドヴァルドが来た。
いつものように無言で向かいの椅子に座り、本を開く。だが今夜は、ページを繰る手が遅い。読んでいるようで読んでいない。
「陛下」
「何だ」
「明日の晩餐会、緊張されていますか」
「馬鹿を言うな。なぜ俺が緊張する」
即答だった。だが、ページを繰る手はまだ遅い。
「……一つ聞く」
「はい」
「お前はあの男に——王国の王子に、未練はあるのか」
不意を突かれた。
エドヴァルドの目が、蝋燭の灯りの中でこちらを見ている。いつもの冷たさとは違う。何かを確かめたいような、それでいて答えを恐れているような——そんな色。
「ありません」
即答した。
「未練は一欠片もありません。あの人のことは、もうずっと前に終わっています」
嘘ではない。アルベールに恋愛感情を持ったことは一度もない。転生者として、あの人はゲームのキャラクターでしかなかった。婚約もゲームの設定に過ぎなかった。
エドヴァルドは私の目をじっと見た。嘘がないか確かめるように。
数秒後、わずかに肩の力が抜けたのが分かった。
「そうか」
それだけ言って、エドヴァルドは本に視線を戻した。今度はページを繰る手が普通の速さに戻っていた。
私は胸の奥で小さく笑った。
今の質問——あれは皇帝としての確認ではなかったと思う。もっと個人的な、もっと切実な問いだった。
嬉しかった。嬉しくて、少し切なかった。
この人は不器用すぎる。自分の感情に名前をつけることすら、まだできていないのだろう。
でもいい。急がなくていい。
明日、あの男と向き合う。その隣に、この人がいてくれる。
それだけで十分だった。




