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夜の書庫での邂逅は、それから何度か繰り返された。
毎回ではない。エドヴァルドは皇帝だ。公務の合間を縫って来るのだから、間隔はまちまちだった。三日連続で来ることもあれば、二週間空くこともある。
来るときは前触れがない。私が書庫で調べ物をしていると、いつの間にか向かいの椅子に座っている。最初の何回かは心臓が止まりそうになったが、次第に慣れた。
二人の間に交わされる言葉は、多くない。
歴史書の感想。政策の断片的な議論。時おり、どちらからともなく始まる些細な話。エドヴァルドが学生時代に書庫の棚を全制覇しようとして挫折した話。私が帝国料理のシチューに入っている謎の根菜の名前を覚えられない話。
笑うことはなかった。エドヴァルドはそもそも笑わない人だ。だが、口元の力が抜ける瞬間がある。表情筋の緊張がわずかに緩む。それが彼にとっての笑顔なのだと、私は学んだ。
学院生活も軌道に乗ってきた。
経済学の講義ではすでに正規の生徒を上回る成績を出し、ヴォルフ教授からは「卒業論文を書く気はないか」と打診された。聴講生に卒業論文の資格はないはずだが、教授が特例を認めてくれるらしい。
外交史の討論では常連の発言者になっていた。最初こそ「王国人のくせに」という視線があったが、内容の正確さと公平さが評価され、今では帝国の生徒たちからも質問が来る。
その中で、自然と仲間と呼べる人間が増えていった。
最初はブリギッテだ。同室者から始まった関係は、いつの間にか親友と呼べるものになっていた。
次に加わったのが、フリッツ・フォン・グラーフ男爵令息。帝国軍の士官を目指す二年生で、赤銅色の短髪に日焼けした肌、人懐こい笑顔が特徴の青年だ。
きっかけは学院の食堂でのことだった。
「あなたがセラフィーナ・デュランか? 俺、フリッツ。前の討論の授業、聞いてた。すげえなって思って」
「ありがとう。フリッツ——軍学科の?」
「ああ。軍学科の三バカの一人って呼ばれてる。悪い意味じゃなくて——いや、半分悪い意味かもしれんけど」
裏表のない性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。帝国人には珍しい陽気さだった。
「ブリギッテの知り合いだったんだ。あいつ、すっげー怖い顔してるけど、本当はめちゃくちゃ面倒見いいんだよな」
「それ、本人の前で言ったら怒られるわよ」
「言ったことある。殴られた」
もう一人は、レーナ・マイヤー。平民出身の奨学生で、魔法研究を専門にしている。大きな丸眼鏡に三つ編みの黒髪。物静かだが、魔法理論の話になると目が輝く少女だった。
「セラフィーナさんの提言書、写しが学院の掲示板に貼り出されていたんです。交易管理局の仕組みが、魔法による物流管理と組み合わせられないかと思って——」
「面白い発想ね。物流の追跡に魔法を使うの?」
「はい。刻印魔法で荷物に追跡印をつければ、どこにあるかリアルタイムで把握できます。帝国の既存の魔法技術で実現可能です」
レーナのアイデアは実用的で、私はすぐにメモを取った。こういう技術的な知見は前世にも今世にもない。この世界ならではの解決策だ。
四人で食堂のテーブルを囲むことが増えた。ブリギッテの辛辣な突っ込み、フリッツの豪快な笑い声、レーナの控えめだが鋭い意見。バランスのいい仲間だった。
ある夜、寮の部屋でブリギッテと二人きりになったとき、彼女が珍しく真剣な顔で話を切り出した。
「セラフィーナ。私のこと——どう思ってる?」
「急にどうしたの」
「いいから答えて」
「大切な友人だと思ってるわ」
ブリギッテは少し黙って、それからベッドの上に座り直した。
「私ね、入学してからずっと、友達がいなかったの」
「え」
「ホーエンシュタイン伯爵家は軍閥の家系よ。宮廷派の貴族からは疎まれるし、軍学科の男子からは『女のくせに』って言われる。文官志望の令嬢たちとは話が合わない。ずっと一人だった」
ブリギッテの声は淡々としていたが、指先がシーツを握りしめていた。
「あなたが同室になったとき、正直うんざりした。王国人でしょう。どうせ甘やかされて育ったお嬢様が来たんだろうって」
「……そう思われても仕方ないわね」
「でも違った。あなたは毎晩遅くまで勉強して、帝国語を一生懸命話して、講義で堂々と発言した。王国人だからって卑屈にならないし、帝国人に媚びもしない。ただ、自分の力で認められようとしていた」
ブリギッテの目が潤んでいた。
「それが——すごく眩しかった。私は帝国にいるのに、帝国の中で居場所を見つけられなかった。なのにあなたは外国人なのに、自分の居場所を作っていく。それを見て思ったの。私も変わらなきゃって」
「ブリギッテ……」
「だから——ありがとう。あなたが来てくれて、嬉しかった」
涙が一粒、頬を伝った。ブリギッテはすぐにそれを手の甲で拭って「泣いてないわよ」と言った。
私も泣きそうだった。堪えた。でも堪えきれなくて、ベッドから立ち上がって彼女の隣に座り、そっと手を握った。
「こちらこそ。ブリギッテがいなかったら、私はもっと心細かったわ。あなたが最初にお茶を淹れてくれた夜のこと、覚えてる?」
「あれは——同室者が倒れたら面倒だからよ」
「うん。知ってる。でも、あのお茶がすごく嬉しかった」
ブリギッテが鼻をすすった。
「……次からは、もっと美味しいの淹れるわ」
「楽しみにしてる」
二人で笑った。
この夜を境に、ブリギッテの態度が変わった。変わった、というより、本来の彼女が出てきたのだと思う。世話焼きで、情に厚くて、仲間思い。最初の頃の棘は、自分を守るための鎧だったのだ。
鎧を脱いだブリギッテは、驚くほど頼もしい味方になった。
同じ頃、帝城では。
クラウスがエドヴァルドの執務室に報告に訪れていた。
「セラフィーナ殿の学院での状況です。成績は全科目で上位。特に外交史と経済学は首席に近い評価。教授陣からの信頼も厚く、学生間の人間関係も良好。ホーエンシュタイン伯爵令嬢、グラーフ男爵令息、奨学生のマイヤーと親しくしているようです」
「そうか」
「また、夜間に学院の書庫を頻繁に利用しているとのこと。かなりの量の文献を読み込んでいるようです」
エドヴァルドはペンを止めなかった。書類に目を落としたまま、淡々と聞いている。だがクラウスは気づいていた。ペンの動きが、ほんのわずかに遅くなっていることに。
「陛下」
「何だ」
「最近、公務の後にお出かけになることが増えましたね。どちらに行かれているのですか?」
ペンが完全に止まった。
「関係ない」
「そうですか。では、近衛隊長にお伝えしておきましょうか。陛下が護衛なしで外出されている件——」
「クラウス」
「はい」
「黙れ」
「承知いたしました」
クラウスは笑顔のまま退室した。扉が閉まった後、エドヴァルドは一人になった執務室で、しばらく書類を見つめていた。
あの女は何者だ。
聴講生としての優秀さは認めている。政策提言書の質は宮廷の官僚を凌ぐ。知識は深く、視野は広い。帝国のためになる人間だと、理性では判断している。
だが、それだけでは説明がつかない感覚がある。
あの女と書庫にいるとき——俺の心が、凪いでいる。
十五歳で帝位に就いてから、一日も休まず走り続けてきた。休む暇がなかった。休めば隙を突かれる。弱さを見せれば付け込まれる。だから氷のように冷たく、感情を殺して生きてきた。
それが、あの女の前では——少しだけ、力を抜ける。
なぜだ。
分からない。分からないことが、不快だった。不快なはずなのに、不快ではなかった。それがまた分からない。
ペンを置いて、窓の外を見た。夜の帝都に、学院の灯りが小さく見える。
「……あいつ、今日もまた遅くまで書庫にいるんだろうな」
誰もいない部屋で呟いた声は、自分でも気づかないほど柔らかかった。




