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婚約破棄は私の計画通りですので、どうぞお気になさらず  作者: 小林翼


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学院の書庫は、夜十時を過ぎるとほとんど人がいなくなる。


 私が夜遅くまで書庫に残るのは、もはや日課になっていた。昼間は講義と帝城への訪問で時間が取られるため、自分の研究は夜にやるしかない。エドヴァルドから次々と投げかけられる課題——帝国東部の鉱山権益の整理、北部辺境伯との税制交渉の資料作成——に対応するには、帝国の過去の文献を漁る必要があった。


 その夜も、書庫の奥まった一角で古い交易記録と格闘していた。


 蝋燭の灯りが羊皮紙の上で揺れている。周囲は本棚に囲まれた小さな空間で、窓からは月明かりが差し込んでいる。静かだ。ペンが紙の上を走る音と、たまに風が窓枠を鳴らす音だけ。


 この静けさが好きだった。前世の佐藤真奈美も、深夜のオフィスで一人で仕事をしている時間だけは嫌いじゃなかった。誰にも邪魔されず、自分のペースで集中できる。


 ただし、今夜は集中できなかった。


 三つ先の本棚の向こうから、かすかな足音が聞こえたのだ。


 こんな時間に書庫を訪れる生徒は珍しい。身構えて耳を澄ませた。足音は規則正しく、迷いがない。書庫の構造を熟知している人間の歩き方だ。


 本棚の角から、人影が現れた。


 蝋燭の灯りに照らされた銀髪。黒い上着。


 ——エドヴァルド。


 私は声を失った。何かの見間違いかと思って目をこすったが、間違いなくそこにいるのはヴァルトシュタイン帝国の皇帝だった。ただし、帝城で見るときとは印象が違う。マントもなく、軍服でもなく、ただの黒い上着に灰色のズボン。護衛もつけず一人。


 エドヴァルドも私に気づいたらしい。足が止まった。


 数秒の沈黙。


「……デュラン?」


「陛下」


「何をしている」


「調べ物を。陛下こそ——なぜここに」


 聞いてから、しまったと思った。皇帝の行動に疑問を呈するのは不敬かもしれない。


 だがエドヴァルドは気にした様子もなく、手元の本を持ち上げて見せた。


「読む本を取りに来た。この書庫は帝城の蔵書より歴史書の品揃えがいい」


「陛下がこの書庫を?」


「学院の出身だからな。学生の頃からここに通っていた。今でも公務の後にたまに来る。護衛を連れると騒ぎになるから、一人でな」


 護衛なし。それはクラウスが知ったら卒倒しそうな話だ。


 エドヴァルドは構わず本棚の前に立ち、背表紙を指でなぞりながら一冊を抜き取った。


「シュタインベルクの三巻目か。前に二巻まで読んだと言っていたな」


「はい。三巻目はまだ——」


「これだ」


 手渡された。


「読めばいい。俺はもう読んだ。三巻は建国後の内政改革について書かれている。お前の提言書にも参考になるだろう」


「ありがとうございます」


 本を受け取った。指先が触れた。一瞬だったが、エドヴァルドの指は予想に反して温かかった。氷の皇帝と呼ばれる人の手が温かいことに、不思議な安堵を感じた。



 帰るかと思ったエドヴァルドは、なぜか向かいの椅子に座った。


 手にした本を開き、読み始める。まるでここが自分の部屋であるかのように自然な動作だった。


 え、ここで読むの?


 困惑したが、追い出すわけにもいかない。というか追い出す権限がない。ここは帝国の学院で、あの人は帝国の皇帝だ。


 私も自分の作業に戻った。二人きりの書庫で、蝋燭の灯りの下、それぞれの本を読む。


 不思議な時間だった。


 沈黙が重くない。二人とも本に集中しているから、会話がなくても気まずくならない。ただ同じ空間にいて、同じ静けさを共有している。前世で感じたことのない種類の安らぎだった。


 どれくらい経ったか分からない。ふと顔を上げると、エドヴァルドが本から目を上げてこちらを見ていた。


「何を調べている」


「帝国東部の鉱山権益の歴史です。百五十年前の権益分配の記録を探しているのですが、なかなか——」


「それなら上の棚の奥にある。リヒテンシュタイン家の領地記録の中に含まれていたはずだ」


「えっ、本当ですか」


 立ち上がろうとしたら、エドヴァルドが先に立った。上の棚に手を伸ばし——彼は背が高い——古びた革表紙の本を引き出した。


「これだ」


「ありがとうございます。陛下は書庫の配置まで覚えていらっしゃるんですね」


「学生の頃、ここが唯一の居場所だった」


 何気ない一言だった。だがその中に、深い孤独の痕跡があった。


 エドヴァルドが十五歳で即位したという話は知っている。先帝の急死により、まだ学院に在学中だった彼が帝位を継いだ。即位直後から宮廷内の権力闘争に巻き込まれ、若年の皇帝を軽んじる貴族たちと戦わなければならなかった。


 その渦中にあって、夜の書庫だけが安らげる場所だった——そういうことだろう。


「陛下は孤独に慣れすぎておいでです」


 口をついて出た言葉に、自分で驚いた。こんなことを皇帝に向かって言うのは、明らかに越権だ。


 エドヴァルドの目が見開かれた。紫水晶の瞳に、驚きの色が浮かんでいる。


 慌てて謝ろうとした。


「すみません、出過ぎた——」


「いい」


 エドヴァルドが遮った。


「……お前は時々、核心を突くな」


 怒られるかと思ったが、そうではなかった。エドヴァルドは黙ったまま、椅子に座り直した。蝋燭の灯りが彼の横顔を照らしている。鋭い輪郭が、この瞬間だけ柔らかく見えた。


「慣れたつもりだった。一人でいることに。一人の方が判断を誤らない、邪魔されない、裏切られない。そう思ってきた」


 独り言のような声だった。私に向けて話しているのか、自分自身に語りかけているのか、判別がつかない。


「だが——最近、そうでもないかもしれんと思うことがある」


 エドヴァルドの視線が本の上を滑り、ふと止まった。


「お前が来てから、この書庫が少し広くなった気がする」


 意味が分かるまで数秒かかった。理解した瞬間、胸の奥が強く脈打った。


 この人は——不器用に、とてつもなく不器用に、「お前がいて嬉しい」と言っているのだ。


 返す言葉を探した。気の利いたことを言おうとした。でも何も浮かばなくて、結局、正直に言った。


「私も、ここが好きです。陛下がいらっしゃると——安心します」


 エドヴァルドが一瞬だけ、目を伏せた。


「……そうか」


 それだけ。でも声が、ほんの少しだけ柔らかかった。


 再び沈黙が降りた。今度は先ほどよりずっと温かい沈黙だった。二人ともまた本に目を落としたが、文字を追っているようで追えていなかった——少なくとも私は。


 心臓がうるさい。この静かな書庫の中で、自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。



 夜が更けて、さすがに帰らなければならない時間になった。


 立ち上がると、エドヴァルドも本を閉じた。


「また来る」


 唐突に言われた。


「え?」


「この書庫に。公務の後に時間があれば」


 それは——つまり——また二人でこうして本を読もう、ということだろうか。


「お待ちしています」


 口にしてから、顔が熱くなった。お待ちしています、って何だ。まるでデートの約束みたいじゃないか。


 エドヴァルドは特に反応を見せず「ああ」とだけ言って、先に書庫を出ていった。


 一人残された書庫の中で、蝋燭の灯りが揺れた。


 原作にはなかった展開だ。ゲームの隠しルートに「夜の書庫で二人きりで読書する」なんてイベントはなかった。好感度が上がる選択肢も表示されなかった。


 これは私だけの物語になっていく。


 ゲームのセラフィーナでも、前世の佐藤真奈美でもない。今ここにいる「私」が紡ぐ、オリジナルの物語。


 蝋燭を吹き消して、書庫を出た。


 月明かりの中庭を横切りながら、冷たい夜風に頬をさらした。火照った顔を冷やすために。


 寮に戻ると、ブリギッテはもう寝ていた。そっとベッドに入り、天井を見つめた。


 眠れない。


 あの人の声が耳から離れない。「お前が来てから、この書庫が少し広くなった気がする」。


 枕に顔を埋めて、小さく笑った。


 ああ、駄目だ。


 もう名前をつけないふりはできない。


 これは恋だ。

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