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異変に気づいたのはブリギッテだった。
「セラフィーナ。最近、あなたの周りに変な人がうろついていない?」
昼食の時間、食堂の片隅で二人きりになったとき、ブリギッテが声を落として言った。
「変な人?」
「学院の生徒じゃない男。三十代くらいの、灰色の外套を着た。昨日も今日も、あなたが講義棟から出てくるのを遠くから見ていたわ」
胸の奥がざわついた。
「見間違いじゃなくて?」
「私は帝国の軍人の家系よ。尾行者を見抜くくらいの目はある。あの男、動き方が素人じゃない。訓練を受けた人間よ」
ブリギッテの目は真剣だった。彼女の父ホーエンシュタイン伯爵は帝国軍の将官だと聞いている。軍事的な感覚が鋭いのは家庭環境のおかげだろう。
「ありがとう、ブリギッテ。気をつけるわ」
「気をつけるだけじゃ駄目よ。誰かに報告した方がいい」
誰かに。
思い浮かぶ人物は一人だった。
その日の夕方、クラウス宛てに手紙を出した。学院周辺で不審な人物がいること、ブリギッテの証言、そして心当たりとして王国からの密使の可能性を記した。
返事は翌朝に来た。直接ではなく、ギルベルトを通じて。
「お嬢様。帝城から指示がございました。本日より、護衛が増員されます」
「増員?」
「帝国の近衛兵が二名、学院の警備として配置されるとのことです。表向きは学院全体の警備強化ですが、実際にはお嬢様の護衛です」
ギルベルトの声は落ち着いていたが、老騎士の目には緊張の色があった。
「陛下直々のご指示だそうです。それと、クラウス殿からの伝言です。『ご心配なく。すでに調査を開始しております』と」
エドヴァルドが動いた。しかも迅速に。
不審者の正体が判明したのは、三日後のことだった。
帝城の執務室に呼ばれた。
いつもなら机の向こうに座っているエドヴァルドが、今日は窓際に立っていた。背中をこちらに向けて、アイスジルバーの街並みを見下ろしている。
その横にクラウスがいて、手元の書類に目を落としていた。
「セラフィーナ殿。お座りください」
クラウスに促されて座った。エドヴァルドはまだ振り返らない。
「単刀直入に申します。学院周辺にいた不審者の身元が判明しました。王国の宮廷密偵です」
「やはり……」
「王国から帝国に、非公式の密使団が送り込まれていました。目的は二つ。一つ目は、帝国の軍事情報の収集。二つ目は——」
クラウスが一拍置いた。
「セラフィーナ殿、あなたの帝国での活動を監視し、必要に応じて王国への帰還を強制すること」
空気が冷えた。それはエドヴァルドの魔力のせいだったかもしれない。窓際に立つ彼の周囲の温度が、明確に下がっていた。
「帰還の強制、というのは」
「もう少し具体的に言えば、あなたが帝国で影響力を持つことを王国が警戒しているのです。デュラン公爵家の令嬢が帝国の皇帝に近づいている——という情報が王国に伝わったようで」
アルベールの顔が浮かんだ。あの婚約破棄の後、私が帝国で成功することは、彼にとって屈辱だろう。自分が捨てた女が、自国より格上の帝国で重用されている。それは王子の判断が間違っていたことの証明になる。
「密偵は拘束しました。帝国の法に則り、スパイとして処罰されます。ただし、王国との外交問題に発展する可能性がありますので、今後の対応は慎重に——」
「クラウス」
エドヴァルドが初めて口を開いた。振り返らないまま。
「ここからは俺が話す」
「はい、陛下」
クラウスが一歩退いた。
エドヴァルドが振り返った。紫水晶の瞳が、まっすぐに私を見た。
怒りの色があった。だが、その怒りは私に向けられたものではなかった。
「王国は帝国を舐めている」
低い声だった。
「帝国の地で、帝国にいる人間を監視し、連れ戻そうとする。それは帝国の主権を侵す行為だ。密使だろうが密偵だろうが、俺の国で勝手なことは許さん」
窓際から歩いてきて、私の前に立った。見上げる形になる。この距離は近い。
「デュラン。お前は帝国にいる。帝国にいる者は、余が守る」
余。公式の場で使う一人称。その言葉の重さは、帝国の全てを背負う者の誓いに等しい。
「陛下……」
「護衛は継続する。学院だけでなく、外出時にも近衛を付ける。不便をかけるが、当面は受け入れろ」
「はい」
「それと——」
エドヴァルドの視線がわずかに逸れた。
「怖い思いをさせた」
え。
「帝国に来て間もないのに、こんな目に遭わせた。それについては——俺の管理が甘かった」
謝罪、だろうか。皇帝が聴講生に対して。
「陛下、謝っていただくようなことでは——」
「事実を述べただけだ。謝罪ではない」
素っ気なく言い切ったが、目は逸らしたままだった。クラウスが後ろで必死に笑いを堪えているのが見えた。
「今後は問題ない。手は打ってある。安心しろ」
「……ありがとうございます」
胸が温かかった。
守られる、という感覚。生まれて初めて——いや、二つの人生を合わせて初めて、こんな気持ちになった。
前世では自分で自分を守るしかなかった。誰にも頼れず、誰にも守ってもらえず、一人で戦い続けて倒れた。この世界でも、七年間自分の力で生き延びてきた。それが当たり前だと思っていた。
でも今、この人が「守る」と言ってくれた。
帝国の皇帝として、臣民を守る義務から出た言葉なのかもしれない。私だけに向けた特別な感情ではないのかもしれない。
それでも。
こんなに安心したのは、どちらの人生でも初めてだった。
帝城を出た後、帰り道で近衛兵が二人、さりげなく後ろについているのが分かった。エドヴァルドの言った通りだ。
学院に戻ると、ブリギッテが血相を変えて寮の部屋で待っていた。
「大丈夫だったの? 帝城に呼ばれたって聞いて心配していたのよ」
「大丈夫。ちゃんと対処してもらえたわ」
ブリギッテに事情をかいつまんで話した。王国から監視の人間が来ていたこと、帝城が対応してくれたこと。
「王国ってそんなことするの……。信じられない」
「政治の世界ではよくあることよ。でも、帝国は守ってくれた」
「それは——陛下が守ったんでしょう」
ブリギッテの目が鋭い。
「聴講生一人のために近衛を動かすなんて、普通はありえないわ。セラフィーナ、あなた一体——陛下とどういう関係なの」
「関係、というほどのものじゃないわ。政策の相談に乗っているだけ」
「政策の相談って——それ、もう聴講生の範疇じゃないでしょう」
反論できなかった。
ブリギッテはため息をついて、温かいお茶を淹れてくれた。もう習慣になっている。
「まあいいわ。あなたのことだから、変なことにはならないでしょう。でも気をつけてね。帝国の宮廷は、王国とは別の意味で危険な場所よ」
「分かっている。ありがとう、ブリギッテ」
お茶を飲みながら、窓の外を見た。
夜の帝都に、帝城の明かりが灯っている。あの窓の向こうで、あの人はまだ仕事をしているのだろうか。一人で、誰にも弱さを見せず、帝国の全てを背負いながら。
いつか——あの重荷を、少しでも分かち合える存在になれたら。
それはまだ遠い夢だ。でも今日、確かに一歩近づいた。
「帝国にいる者は、余が守る」。
あの言葉を、大切にしまっておこう。
帝国の冷たい風の中で、胸の奥だけがずっと温かかった。




