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目が覚めたとき、天蓋つきのベッドの上にいた。
白いレースのカーテン越しに朝の光が差し込んでいて、どこかで小鳥が鳴いている。枕元には銀の燭台があり、サイドテーブルの上には見たこともない紋章が刻まれた陶器のティーカップが置かれていた。
あれ、と思った。
私はたしか、終電を逃してタクシーにも乗れなくて、会社から歩いて帰る途中で——
記憶はそこで途切れている。次に浮かんだのは、自分がベッドから身を起こして鏡を見たときの衝撃だった。鏡の中にいたのは、十歳くらいの少女。白磁のような肌に、波打つ蜂蜜色の髪。翡翠の瞳が不安そうに揺れている。
これは私の顔ではない。
けれど同時に、この顔を知っていた。前世で何百時間もプレイした乙女ゲーム「聖輝のエトワール」。その悪役令嬢——セラフィーナ・デュラン。
それが七年前のことだ。
今日は学園の卒業パーティーの日。つまり、あのイベントの日。
侍女のマルタが朝から忙しく立ち回っている。深い紫のドレスに金糸の刺繍。髪は編み込みのハーフアップにして、耳にはアメジストのイヤリング。鏡の中の十七歳のセラフィーナは、我ながら見事な悪役令嬢の出で立ちだった。
「お嬢様、お支度が整いましたわ」
マルタが満足そうに微笑む。帝国出身の彼女は、母が亡くなった後もずっとこの家に仕えてくれている。白髪の混じった黒髪を簡素にまとめた、実直な女性だ。
「ありがとう、マルタ。今日は長い一日になるわ」
「ええ。でもお嬢様なら、きっと大丈夫ですわ」
マルタの目には、ただの卒業パーティー以上の意味を理解した光がある。この七年間、私が何を準備してきたか、マルタは全て知っている。
ドレスの内ポケットに手を当てた。紙の感触がある。帝国への留学許可証。父に頼み込んで、三ヶ月前にようやく手に入れた。
窓の外を見た。王都ルミエールの街並みが朝日に照らされて、白い石造りの建物が輝いている。美しい街だ。この七年間、嫌いになったことは一度もない。
でも、今日でお別れだ。
馬車に揺られて学園に向かう間、私は改めて今日の段取りを頭の中で確認した。
乙女ゲーム「聖輝のエトワール」。舞台は剣と魔法の王国ルクレシア。プレイヤーは平民出身の聖女リュミエールとなり、王立学園で四人の攻略対象と恋愛する。メインルートの攻略対象は第三王子アルベール・ド・ルクレシア。金髪碧眼の典型的な王子様キャラで、正義感が強いが思い込みが激しい。
そして悪役令嬢セラフィーナは、アルベールの婚約者として登場する。ヒロインに嫉妬していじめを繰り返し、最終的に卒業パーティーで断罪される。その後は修道院に送られ、数年後に病死——というのが原作の筋書きだった。
冗談じゃない。
十歳で前世の記憶を取り戻した私がまずやったのは、原作のいじめイベントを全て洗い出すことだった。セラフィーナがリュミエールの教科書を隠す、セラフィーナがリュミエールのドレスに水をかける、セラフィーナがリュミエールを階段から突き落とす。全部で十二のいじめイベントがある。
一つ残らず回避した。
そもそも原作のセラフィーナがリュミエールに執着した理由はアルベールへの恋心だったが、転生者の私にとってアルベールは「見た目はいいけど中身は未熟な二次元キャラ」でしかない。嫉妬する理由がない。だからリュミエールに対しても普通に接した。むしろ困っていれば助けた。平民出身で学園生活に馴染めなかった彼女に、貴族のマナーをこっそり教えたこともある。
リュミエールは性格がいいから、素直に感謝してくれた。原作の敵対関係は完全に消滅している。
では、いじめの証拠がないのに断罪イベントは起きるのか。
答えはイエスだ。なぜなら、断罪イベントの本質はいじめへの制裁ではないからだ。あれはアルベールがリュミエールへの愛を公言し、セラフィーナとの婚約を破棄するための舞台装置にすぎない。証拠があろうがなかろうが、アルベールはあの場で婚約破棄を宣言する。原作のフラグ管理上、避けられないイベントだと私は判断した。
だから、断罪を止めようとはしなかった。
むしろ利用することにした。
学園に着くと、すでに会場の大広間は華やかに飾り付けられていた。シャンデリアの光が床の大理石に反射して、壁際にはバラとユリの花が飾られている。生徒たちはそれぞれ最上級のドレスやフォーマルを身に纏い、最後の学園生活を惜しむように談笑していた。
会場に入ると、何人かの令嬢が私に目を向けた。デュラン公爵家の令嬢。学園の成績は常に上位五番以内。社交の場では完璧な礼節。しかし婚約者の第三王子との仲は冷え切っている——というのが、周囲の認識だろう。
「セラフィーナ様、今日のドレス素敵ですわ」
伯爵令嬢の一人が声をかけてきた。社交辞令だろうが、悪意はない。
「ありがとう。あなたのドレスも素敵よ」
微笑みを返しながら、視線で会場を探る。
いた。
会場の中央、金色の髪を後ろに撫でつけた青年。第三王子アルベール。その隣には、銀髪を柔らかく垂らした小柄な少女——リュミエール。アルベールはリュミエールの手を自分の腕に置かせて、堂々と歩いている。婚約者である私がいる場で、別の女性をエスコートする。周囲の貴族たちがざわついているのが分かった。
原作通り。
胸の奥に、かすかな痛みが走った。恋愛感情ではない。七年間、仮にも婚約者として隣にいた人間から、公の場でこうして切り捨てられる。たとえ予定通りでも、人としての尊厳が軋む音がする。
でも、今は感情に浸っている場合じゃない。
グラスを一つ取り、壁際に立った。飲むふりだけして、唇は濡らさない。頭は冴えていなければいけない。
しばらくして、場の空気が変わった。
アルベールがリュミエールの手を引いて、会場の中央に進み出た。楽団の演奏が止まる。生徒たちが注目する。
来た。
「皆、聞いてくれ」
アルベールの声が広間に響いた。よく通る声だ。王族としての訓練の賜物だろう。
「俺は今日この場で、重大な発表をしなければならない」
会場が静まり返る。私はグラスをテーブルに置き、姿勢を正した。
さあ、始まる。
七年間待ったこの瞬間。悪役令嬢セラフィーナの物語が終わり——私の物語が始まる。
ドレスの内ポケットの書状に、そっと手を添えた。




