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甲斐国物語  作者: 芒果
7/8

天国

「山吹様は…、実は切支丹なのです…」


絞り出すように矢板は言った。


「やはりか…、江戸で流れていた噂は本当であったか…。山吹殿が生きているとなるとこれは一大事だぞ。江戸を出たのは藩主の信堅殿の命か?」


「…はい」


「なんと…。これは一大事な。矢板よ、詳しく話せ。いや、ここではいずれ人に見つかるか…。確かこの近くに人気のない空き地がある。一旦そこへ移動するぞ。すまないが歌さんも一緒に来てくれないか?」


「けっ、何言ってやがる、俺は関係ない、帰るぜ」


幸貫は帰ろうとする広重を留める。


「いや、待て。追いつめられたこいつらは何をするかわからんぞ。矢板よ、話が済むまで歌さんに危害を加えるな。分かったな」


「…分かりました」


「ふん、全くいい迷惑だぜ」


そう言うと矢板たちは刀を鞘に納めて、幸貫について歩き出した。お堂の前にある空き地に着くと、矢板は気持ちを落ち着かせた後、事の真相を語りだした。


「山吹様は切支丹です。そのことを幕府の隠密が嗅ぎつけたようで、片桐藩の江戸藩邸に内偵が入っていました。事が明るみに出ると山吹殿は死罪となるでしょう。それならばと一計を案じたのです。」


「うむむ。それで危険を冒してまで山吹殿の死を偽装して江戸を離れて」


「そうです。そして今日甲府に辿り着き、偶然幸貫様たちと同じ酒屋で酒を吞んでいたところ、そこの広重殿が山吹様を見たと言い、その上幸貫様が山吹様を切支丹と言うもので事が大きくなる前に口封じをと…」


「そうだとしても、我が主君を殺そうとしたことは万死に値する。俺がお前たちを斬るぞ」


「それは構いませんが、お役目を全うするまで何卒お待ちください」


「ふざけるな!幸貫様を殺そうとした挙句、山吹殿の死を偽装し、さらには出女で切支丹だと!?お主たちの命だけでは済まず、信堅様の切腹の上、片桐藩のお取り潰しもあり得るぞ」


息巻く修理。


「幸貫様、この矢板、死んでお詫びいたします。何卒ご慈悲をお願いいたします」


地面に頭をこすりつけて懇願する矢板と片桐藩士たち。事が重大過ぎて幸貫はどうすべきか思案に暮れている。


そんな中に松代藩の家老、河原綱徳の慌てふためいた声が聞こえてきた。


「あ、いた!殿~、やっと見つけましたぞ。やっぱりここでしたか。大変でございます!緑町では広重殿が賊に誘拐されたと大騒ぎですぞ!甲府勤番の火付盗賊改方も出てきてもうすぐ大捜索が始まります」


この空き地は何かの際に幸貫たちが落ち合うと決めていた場所でもあったので、河原は幸貫と修理の戻りが遅いことを案じてこの場所へとやってきたのだ。


「なんじゃと、歌さんが誘拐されただと?見よ、ここにおるぞ。して誘拐犯とは誰だ?」


「そ…それが…」


「それが…?」


「その…」


「それでどうした?早く言わぬか?誰なのじゃ!」


「誘拐犯はどうやら殿のようです…」


「…は?儂?」


一同は顔を見合わせる。


矢板が広重と幸貫に襲い掛かった場面を目撃していた二人の目撃者は来た道を戻り、一目散に番所へと駆け込んでいった。


「大変だ~!お役人様」


「どうした、何事だ?」


「人攫いです!そこの八幡神社の境内に二人が連れ込まれるの見ました!」


「何だと!?連れ去られた人物はどんな服装をしていたんだい」


「え?あんた誰だ?」


「そんなことはどうでもいい、その人物の身なりを教えてくれ!」


 目撃者と役人に話しに割って入ったのは、広重の帰りが遅いと不安になって番所までやってきていた松葉屋と伊勢屋であった。


「おい、松葉屋、伊勢屋よ、ちょっと落ち着くがよい」


「お役人様、もしかして連れ去られたのは広重殿かもしれません。最近は小太郎一味の動きも活発になっていますし。ああ、伊勢屋さん、広重殿が誘拐されたらどうしましょう」


「松葉屋さん、広重殿とまだ決まったわけではない…」


「でで、連れ去られた人物の着ていた服はどんなだい?」


 松葉屋と伊勢屋の剣幕に押されて焦る目撃者たち。


「あ、ああ、確か一人は羽織に角笠を被っていたっけな?」


「うん、暗かったが月明りで角笠を被っていたのは俺も分かったぞ」


「羽織に角笠?ああ、やっぱり広重殿だ!」


「お役人様、誘拐されたのは江戸の高名な浮世絵師、歌川広重殿です!」


「何だと?うむむ、この甲府でそのような大それた事件が起こったとなると…。おい、人を集めろ。広重殿の捜索を行うぞ。与力の浅間様にも報告じゃ」


「松葉屋さん、もしかして…犯人はあの男では?」


「あの男とは?」


「ほら、最近広重殿としょっちゅう酒を呑んでいる…」


「ああ、あの信州の隠居とか言っていた奴か!確かに怪しいぞ」


「そうに違いない。きっと奴は小太郎一味だ!」


「お役人様、最近広重殿と酒を呑んでいた者がきっと小太郎一味で誘拐する時期を見計らっていたんでしょう」


「なるほど、まずはその者を探すぞ。宿は何処だ!」


 番所はにわかに慌ただしくなり、人手と松明が集まってくる。番所の役人も江戸で名の知れた浮世絵師が甲府で山賊にさらわれたとあっては面目が立たない、とその日の当番であった与力が陣頭指揮に当たっており、普段では考えられないような気合の入りようである。

 一方の松代藩家老の河原も帰りが遅い主君を心配して外をうろついていたが、慌ただしさに気が付いて通りがかった役人に何事かと聞いてみると自分の主君が小太郎一味として創作されている上に広重誘拐の首謀者とされていることに驚き、急いで幸貫を探しに出たのであった。


「河原よ、お、お主は何を言っておる?儂が犯人じゃと?儂を誰と心得る、幕府の老中ぞ!」


動揺しながら激怒する幸貫。


「殿、仰る通りなのですが、しかしその幕府の老中がどこぞの田舎武士に扮して広重殿の誘拐犯の嫌疑がかけられたまま出て行くと非常に具合が悪いかと存じます…。それに勤番では殿があの御坂の小太郎一味で誘拐犯と言うことになっております」


「ああ、何だと?儂が賊一味だと!?そ、そんな…。全く何でだ、ああ、何でこんなことになってしまったのだ!」


「それは殿が勝手気ままに甲府散策など始めたからに決まっておるではないですか!」


かなりキレ気味に河原が言う。図星の幸貫は何も言い返せない。


「こ、ここには出女で切支丹の奥方を守る矢板たちもいるのだぞ、困った困った」


「え?切支丹?ところで、修理よ、何故刀を抜いておる?」


急に来たので事情が飲み込めない河原に修理が事態を説明する。


「…何だと?おい、矢板、貴様!殿を斬ろうとは。拙者が叩き斬ってくれる!」


「いやいや、河原様、暫くお待ちください!」


河原が刀を抜くと、さっきまで同じように矢板たちを斬ろうとしていた修理が今度は河原を止める。


「隠居に扮した老中が天下の歌川広重の誘拐犯と間違われた挙句、死んだはずの片桐藩の奥方が生きており出女の挙句、切支丹でさらに片桐藩の家老に斬られそうになったと。どんな状況じゃ一体?」


名君と言われた幸貫でもさすがにこの状況は飲み込めない。八方塞がりになり修理に意見を求める。


「修理よ、何かいい案は無いか?」


「はっ、まずは本物の誘拐犯であるこの矢板を成敗し、広重殿を解放して我々はこのまま松代へと秘かに戻るのがよろしいかと」


「うむむ…、それはそうかもしれんが…。しかし、この件が明るみに出ると事が大きくなりすぎる。旅籠に居る山吹殿は捕まり死罪となり、片桐藩はお取り潰しの上、藩主の信堅様は切腹になるかもしれん」


「しかし、殿。他に手立ては…」


「修理よ。儂は誰も死なせたくない…」


幸貫のこの言葉にはっとする修理。


「殿、広重殿を解放するとこのことを話すでしょう。その前に、矢板たちをここで斬らなければ最後の賭けで広重殿を殺すかもしれません」


「ふん、知るかよ!幸っつあん、俺は真実を話すぜ。それが嫌なら殺せ!」


喚く広重を横目に見て修理が続ける。


「では一旦頭を冷やして山吹殿を交えて話し合いをしては如何でしょうか?」


「…うむ、そうじゃな。では矢板よ、山吹殿を連れてまいれ。修理、お主も同行しろ」


「はっ」


「歌さん、不便をかけるが暫く付き合ってくれ」


「付き合いたくねえがよ、付き合うしかないってか。だがな幸っつあん、何を言おうが俺の気は変わんねえぜ」


幸貫は言うと、矢板は善村に命じて山吹と三吉が宿泊している旅籠へ迎えに行かせると、広重にも同行するように頼んだ。すぐ近くには松明の光が前後に揺らめきながら幸貫たちのいる空き地に向かって迫っている。恐らくは甲府勤番の火付盗賊改方であろう。一同は二手に分かれて急いでその場を離れる。

矢板たちが泊まる旅籠では、いつまでも戻らない矢板たちに不安を募らせていた山吹と三吉がいた。そこに善村が現れて事情を説明すると、すぐに山吹と三吉が準備を整えて旅籠を出立する。

幸貫が修理を派遣したのは一度巨摩峡へ行ったことがあるので土地勘があることに加えて甲府勤番の捜索を躱すためであった。実際、役人に呼び止められても老中を排出している松代藩の名前を出すとすんなり解放してくれた。幸貫の読みはここまでは当たっていたが、外れてもいた。それは小太郎一味の情報収集力の高さであった。


「お頭、外が騒がしくなってきたようですぜ」


 外の喧騒を感じながら小太郎一味の一人が言う。


「どうした」


「どうやらあの歌川広重が誘拐されたようです」


「何だと?誰にだ?」


「我ら小太郎一味のようです」


「は?俺たちにか?ふん、とんだ言いがかりだぜ。…いや待てよ。ふふっ、お前たち仲間を集めろ。俺達でその歌川広重を奪い取っちまおうぜ」


「はは、こりゃ身代金ががっぽりだ」


「ここ甲府での最後の大仕事としようや」


「おう!」


 小太郎の仲間は甲府の街に上手く溶け込んでおり、蕎麦屋や行商人をやりながら様々な情報を集めていた。彼らの仕事の大半は情報収集であった。小太郎は子分から報告を受けると、有益な情報を選別しつつ緻密な計画を練る。小太郎の凄さの源泉は計画力のみならずその記憶力にあった。名前や地名などは一度聞くと忘れない。このため、甲府での出来事や人物には番所や町年寄などよりも詳しくなっていた。

 大胆な行動を嫌う小太郎であったが、甲府での仕事も潮時だと感じており最後に一山を当てて隣国の駿州にでも拠点を移そうと考えていた。

小太郎は仲間を集めると、仲間の一人が幸貫や広重と一緒に居たことがあった修理が通りを歩いているのを見つけており、一味は修理の後をつけだした。


金峰山へ至る道は幾つかあり、御嶽道と総称されている。夜明け頃、幸貫と矢板、広重たちは御嶽道の中の外道を歩いており、巨摩峡の奥へと進んでいた。途中に開けた外道ノ原があり、一行はそこで山吹たちを待つことにした。修理も幸貫たちを追って山吹たちを連れて外道を巨摩峡の奥へ向かって進む。

夜明けを迎えている薄明りの中、歩きながら山吹は火事の時の信堅のことを思い出していた。あの火事の日、信堅は全身に水を被ると危険を顧みず勇敢にも火に飛び込んでいった。

火の海の中から持ち出された葛籠は所々焼けて穴が開いており、その穴から何かが落ちた。幸貫が拾うと、それは十字架であったのだ。山吹はその十字架にはっとして奪い取ると、急いで懐に隠した。そして、葛籠を持って逃げるように去っていった。信堅はただ呆然と立ち尽くしている。その後しばらく現れなかった信堅が唐突に山吹の元へと現れた。


「其方の秘密を見てしまったことは済まなかった。決してわざとではない」


「…分かってる。で、私をお上に突き出すの?」


「な、何を馬鹿なことを。突き出す訳ないではないか」


「じゃあ、どうするの?」


「どうもせぬ」


「じゃあ、何で来たの?」


「う、そ、それは…」


「来る必要ないでしょ」


「来たらダメなのか?」


「ダメに決まっているでしょ」


「ダメではない、其方が好きだから来たのだ」


「好き?…何?あんたこんな時に言っているの?そんな問題じゃないでしょ?私は切支丹だよ。私と一緒に居ればあんたもただじゃすまないんだ」


「いや、そんなことはどうでもいい。拙者がどうなろうとそんなことはどうでもいいのだ」


「何?一体何を言いだすの?」


「其方が居ればそれで十分。もう何もいらない。其方を守るためなら拙者の命も要らない。其方の全てを受け入れて一生をかけて守り抜く。一緒に居たい、ただそれだけだ。だから、だから一緒にいてくれ。頼む」


と、信堅は山吹の予想外のことを口にしたのであった。そこには殿様の地位などみじんも考えていない、一人の人間の包み隠さない思いが吐露されていた。これまで頑なに秘密を守ってきた山吹にとって初めて秘密を知られた相手であった。それまでは警戒して受け入れなかったが、今ではその秘密が明るみになった挙句に自分を受け入れてくれると言う。勝ち気が過ぎる山吹にとって初めて心が無防備になった瞬間であった。


「は?あなた…。何で私なんかのため命を捨てるなんて言うの?ただこの前会っただけの人じゃない」


目の前にいる信堅はもう何も言わずに真っすぐに山吹を見つめている。その眼には迷いは見られない。そんな信堅を山吹も見つめる。


「私のために?地位も命も捨てるって?馬鹿な人…。何て馬鹿な人なの…」


呆れた山吹は呟き、空を仰ぐと空の青さを感じた。綺麗だと思った時、それまで張りつめていた緊張がほどけたのか急に笑いがこみ上げてきた。それを見て喜ぶ信堅。


「あ、ははは、ついに笑ってくれたか、山吹殿」


信堅を思い出しながら山吹の目には涙が浮かんでいる。


「そんな人だから、私はあなたを好きになったの」


「江戸を出ろと言った時もそう。私はもう覚悟はできている。江戸を離れずに堂々としていたい。切支丹だとしてもそれがどうしたの?私は悪いとも思わないし、それが悪くて死罪と言うなら受け入れる。逃げるなんて嫌。でも、あなたは一緒に居たいって言う。矢板殿にも一緒に居たいって頼んだんだって?いつもあなたはそうね」


と目尻の涙を拭いながら呟いていた。


「私もそうよ、あなたとずっと一緒に居たい」


そんな中、修理が追跡者に気づいた。


「付けられている?」


「え?何ですと?」


それを聞いて急に不安になり怯えだす善村。頭を働かせる修理。もし、自分たちが目的ならすでに襲ってきてもいいはず、しかし襲わないのは自分たちの行く先に獲物がいるからに違いない。その獲物とは…、恐らく広重だろう。自分たちの行く先に広重がいることを知っていると辻褄が合う。追跡者は付かつ離れつ一定の距離で付いてくる。


「くそ、数が多いな」


急ぎ足になる一行だったが、どうしようもなく幸貫の許に辿り着いた。


「おお、山吹殿、生きておったか。久しいのう」


「幸貫様、この度は我らが多大な迷惑をおかけして申し訳ありません」


「殿、それはそうと賊につけられました」


「ん?何だと?」


再会の挨拶もそこそこに幸貫に賊の追跡を報告する修理。


「幸貫様。せめてもの罪滅ぼし、我ら片桐藩士たちが時間を稼ぐ故、山吹様と広重殿を逃がしてくださいませ」


「お待ちください、戦力を分散するのは愚行にございます。相手は15名ほどですし、遠目では武器も粗末。全員で戦えば勝機があるかもしれません」


「修理殿、いずれにせよ我々片桐藩士は戦いますぞ」


言いながら刀を抜く矢板。それを見て藩士たちも刀を抜く。賊は徐々に近づいてくる。


「こちらは山吹殿がいるか…。仕方ない、我らもやるか、河原」


「はは、御意にございます」


幸貫たちは賊と戦う決心をして刀を抜く。近づいてきた賊の中から頭目が進み出てきた。


「へへへ、お侍さん方、そこの広重さんと別嬪さんを渡してくれたら他は見逃すぜ」


「失せろ」


「ん?俺達を御坂の小太郎一味と知ってのことか?」


「賊の名前など知らん。斬られんうちに去るがよい」


「ふう、仕方ねえか、お前たち、やるぞ」


言うと賊も武器を手に取り構えた。賊の頭目、小太郎はかなり場慣れしているようで、武士相手にも涼しい顔をしている。一味も表情に余裕がある。一方、松代藩士も片桐藩士も訓練は積んでいるが真剣で斬り合いをしたことがない。特に矢板の息子、善村は怯えている様子が見て取れた。


「善村よ、気を確かに持て。他の者も恐れるな」


矢板が若い藩士たちを鼓舞する。


「お前たち、行け!」


「おお!」


小太郎の指示で賊が一斉にかかってくる。賊は空振りしても気にも留めずに距離を取り攻撃してくる。


「殿、やつらは我々を分断するつもりです」


賊の意図を悟る修理。小太郎は距離を取りつつ安全な間合いから攻撃を仕掛け、幸貫や矢板と広重たちとの分断を図っていたのだ。

幸貫はじめ矢板たちは攻撃を恐れて一歩が踏み込めず遠くから刀を振り合うだけである。賊の戦法は徐々に効果が表れ、頭目の思惑通り徐々に山吹と広重が孤立してきた。好機とばかりに賊の一人が近くにいた山吹を捕えようと迫る。距離が離れており、助けに行けない。


「お、奥方様!」


捕まえようとしたその瞬間、三吉が賊に体当たりをする。


「三吉さん、大丈夫ですか!?」


よろめく賊。しかし、すぐに態勢を整えて刀を抜いた。


「おい、奥方様に手を出してみろ、おらが許さんからな!」


怒りを露わにして叫ぶ三吉。山吹を守ろうと三吉が大の字になり賊の前に立ちふさがるが、賊は三吉を袈裟斬りにしてしまった。山吹の悲鳴が辺りにこだまする。


「三吉さん――――!!!」


「くそ、三吉!」


それまで怯えて防戦一方であった善村は三吉が斬られる瞬間を見て意を決する。窮地に陥った若者たちは急激に成長する。善村の怯えは武者震いとなり、目つきが座ってきた。


「武士道とは死ぬことと見つけたり!」


大声で叫ぶと善村はこれまで防御しやすい中段に構えていた剣を、上段に変える。否や、対峙している賊の懐へ踏み込み振り下ろした。死線を越えて打ち込まれた善村の渾身の一撃を賊は何とか躱して致命傷を避けたが、左腕が斬られてしまい悲鳴を上げて怯んだ。ここぞとばかりに善村は連続で斬りつけ、賊を斬り殺す。


「見事だ、善村」


「お見事、修理」


修理も同様に賊を一人斬り殺していた。その太刀筋を見て見事だ、と称賛する矢板と幸貫。


善村と修理の活躍を見た藩士たちも奮い立ち、死線を越えるもう一歩を踏み込んで果敢に攻撃を繰り出した。その変化で賊は怯み、怯えだし戦意を喪失するものが現れ出した。


「くそ、こりゃ分が悪いぞ。潮時だ、お前ら行くぜ」


賊は数に勝るも劣勢となり、分が悪いと悟った小太郎は手下を連れて逃げて行った。この引き際こそ小太郎たる所以であろう。


地面には斬られた三吉が虫の息であった。


「奥方様…、ご、ごぶ…じで。はあはあ」


「三吉さん…私のために、私なんかのために…」


「いや、奥方…さま、だから…です」


「ごめんなさい、三吉さん」


「おら、一緒に…た、たびができて、はあはあ。しあわ…せ…だった」


「三吉さん…」


山吹は溢れそうになる涙を抑えて、息を引き取りつつあった三吉を抱きかかて不安を取り除くように微笑みながら言った。


「三吉さん、あなたは今からはらいそへ旅立ちます。はらいそではでうす様が永遠に祝福してくださります」


「はあはあ、は、はら…いそ」


「はい、私もいずれ行きます。それまで待っていてください」


「おく、おくさま…また、会える…のか?はは、なら、はら、いそも…悪くない」


三吉が最後の力を振り絞って話す。


「修理、はらいそとは何だ?」


「はらいそには聖母マリアがいて、切支丹にとって極楽浄土のような場所でございます」


「そうか、はらいそに聖母マリアか」


幸貫達も三吉の最後を静かに見守る。


「はら…いそ…の、せ、せいぼ…。おら、に…と…って、はあはあ、…せい、ぼは…おく…、おくさま…です。むす、め…と、まごを、…あ、あり、あり…が…とう…」


三吉の顔に山吹の涙が落ちる。修理の言葉を微かに聞いて、三吉は山吹に聖母と言った。娘を看病し神に祈る山吹の姿に三吉は聖母を見ていたのだ。言い終わると三吉は息を引き取った。


「三吉!」


矢板たちは叫ぶ。


「三吉さん。はらいそで会いましょう。」


三吉の遺体の前で呟きながら祈りをささげている山吹の背後では澄んだ水が蛇行して流れ、色とりどりの木々の葉が山の斜面を山頂からなでるように流れてきた風を受けて少しずつ散っていた。昼過ぎの太陽が三吉を抱きかかえている山吹の影を地面に落としている。そんな山吹を見て広重がつぶやく。


「聖母か…」


そこに、力を失った三吉の手から握っていた泥面子が滑り落ちた。それは石和宿で山吹が三吉に贈った泥面子であった。矢板はその泥面子を拾い上げてちょっと見ると何か納得したような面持ちで懐へとしまった。

三吉に祈りを捧げる山吹の横に座り三吉の亡骸に手を合わせる片桐藩士たち。少し離れて幸貫達も三吉に手を合わせる。


「山吹様。私は罪を沢山犯してしまいました。最も許せない罪は三吉殿を死なせてしまったことです」


「矢板殿、その罪は私にもあります。人は生きている限り罪深い。皆罪を背負い償いながら生きて行くのです。三吉さんを死なせた罪は三吉さんに貰ったこの命で、生きて償いましょう」


「生きてですか…。いや、拙者は死をもって償います」


三吉の死やここにいる全員を危険に追いやったのは自分が原因と言う矢板だが、その顔にはもう迷いが無い。山吹を連れて帰ったら矢板は全ての責任を取り切腹をするつもりであろう。そんな矢板を見ながら幸貫はそばにいた修理に聞いた。


「修理、矢板の処分はどうすればよい?」


 幸貫の問いに修理は暫く答えなかった。この時の修理の頭の中にはこれまでの矢板の行動や言葉が駆け巡っていた。幸貫と広重を殺害しようとはしたが、矢板は決して私利私欲のためではなかった。それに、ここで切腹を申し付けても矢板は寧ろ肩の荷が下りたと喜んで切腹するだろう。矢板のような人間に死罪を申し付けることは無意味である。

 さらに、修理の頭には幸貫の言葉が木霊する。


(修理よ。儂は誰も死なせたくない…)


 人が人を裁くとは何とも愚かではないか。この自分には矢板を裁くべきではないし、裁けない。修理は伏せていた眼を上げると幸貫に向かって言った。


「…生きて、生きて罪を償うのがよいかと」


この返答に幸貫の心は動かされた。少し前の修理なら切腹だと即答したであろう。しかし、今の修理は矢板に生きろと言う。幸貫はこの才気あふれる若者が人の心を持ちながら大きな視点で物事を考えられるようになったことを感じ取った。


「ふふっ、修理も成長したようだな、綱徳よ」


「はは、御意にございます」


「矢板よ、其方の罪を裁くがよいな」


「幸貫様。何なりとお申し付けください」


「矢板よ、お前はこれまで罪を犯した。その罪を背負って生きよ。その命が尽きるまで生きて罪を償え。死ぬことは許さん」


「何ですと、幸貫様、拙者に死ぬなと申されるか!この罪は命を持って償います!」


「いいや、許さん。お主は山吹殿の言うように生きて罪を償え」


はっとして矢板は死んだ賊にも祈りをささげている山吹を見た。その姿を見て矢板の心が動かされる。


「聖母か…。ああ…分かりました、幸貫様。この命が尽きるまで生きて罪を償いましょう」


 三吉と同様に矢板も山吹に聖母を見ていた。だから困難な任務に就き、山吹を命がけで主君の許へと送り届けようとしたのだ。


「儂もそうじゃ、誰も死なせたくないと言っておきながら三吉を死なせてしまった。儂もこの罪を背負って生きよう。そして、その方から襲われたことや山吹殿のことは忘れよう」


「有難きお言葉。三吉殿への償いは矢板家の末代まで行いましょう」


「信堅殿も忠義の家臣を持っておるな」


「はらいそに聖母マリアか…。幸っつあん、俺はどうやらちっぽけな人間だったようだ…。切支丹だか何だか知れねえが、この山吹殿は死なせちゃいけねえ人だよ、きっと。おう、矢板のご家老さんよ、今回の件は俺は黙っとくぜ。殺されそうになった恨みは忘れねえが、はらいそとやらへやってきたことで今回は無しにしてやるよ」


「おお?何と、広重殿!感謝いたす」


深々と頭を下げる矢板たち片桐藩士たち。


「聖母か…。山吹殿は人の魂を高潔にする…。信堅殿や矢板が命を懸けて山吹殿を守ろうとした理由が分かったぞ」


「幸貫様、そこの勇士を手厚く葬りましょう」


「そうだな、河原」


三吉の遺体を手厚く埋葬し、冥福を祈ると広重が帰途についた。


「歌さん、儂からも感謝いたす。それに歌さん、騙して悪かった」


「幸っつあん、あんたは面白い人だったよ。だけど俺はもうあんたには会わねえぜ。ふん、俺は昔からお上が嫌いなんでね。改革だ何だで俺達庶民をいじめやがる。どうにも仲良くやっていける気がしねえさ」


へそ曲がりの広重はそう言うと踵を返して歩き出し、後姿で幸貫に手を振りながら共に甲府へ向かって来た道を戻っていった。その後ろからは広重を護衛しながら矢板たちが着いていった。

幸貫は広重の言葉に寂しさと政の意図を伝えられないもどかしさを感じつつ、広重たちの後姿を見送った。見送った後、幸貫は隣に立っていた修理に言った。


「修理、お主にはこれから働いてもらうぞ」


「ははっ!」


残された幸貫たちはそこの土地の人間を雇い、険しい巨摩峡の山を越えて八ヶ岳の東へ抜け信州へと入り、千曲川に沿って松代藩へと帰っていった。山吹と矢板一行は広重が無事役人に保護されたことを遠巻きに見届けた後、広重へ向かい深々と頭を下げて甲州街道を諏訪へ向かって歩き出した。そして、甲州街道を北西に進み諏訪湖まで行き片桐藩へ無事到着した。


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