松葉屋日記
甲州文庫を読み耽っていた三峯は、当時の甲府勤番の勤務記録に緑町の松葉屋からの申し立てで賊の討伐のために討伐隊を派遣した、とういう記録を見つけた。
「これは……。松葉屋と言えば幕御世話人衆の一人か」
その賊は御坂の小太郎と言う通り名で呼ばれていた。小太郎はこの頃の勤番の勤務記録にちょこちょこ名前が見られており、この時期に甲府周辺を荒らしまわっていたようだ。それにしても長期間名前が見られるので、勤番も小太郎を逮捕できずに地団太を踏んでいたことが見て取れた。
その他の書物にはめぼしい情報は無い。こうなると残された道は松葉屋の情報を調べるのみであった。打つ手が無くなった三峯は、当時広重に幕絵を依頼した緑町の家々を江戸時代の地図に照らし合わせながら丹念に調べて行く。
「あ、あった! 松葉屋の所在地はここに違いない」
最後の望みをかけて三峯と矢板は松葉屋が在った場所へ行ってみる。
「しかし凄いね、三峯君」
「ん、何がですか?」
「いや、毎日毎日何時間も古文書を読み続けることだよ」
「ああ、これが仕事なんで、慣れました。歴史学者は資料とにらめっこの毎日ですよ」
「なるほど、何時間も資料を読み続けられるのも才能なんだろうね。私には無理だ」
「まあ、向き不向きで言えば私には向いていますかね」
「お、松葉屋はこの辺か? 古い家が建ってるぞ」
緑町は若松町と名を変えており、この若松町を縦断する遊亀通りを進んでいくと松葉屋が在った区画がある。その区画には古びた木造の家があり、表札には佐野とあった。その家の玄関の呼び鈴を鳴らすと歳を取った女性が出てきた。
「はいはい、何でしょう?」
「あ、私、北埼玉大学の文学部で研究員をやっています田中と申しますが」
「あれまあ、大学の先生ですか。そんな偉い方がこの家にいらっしゃるなんて。ちょっと、あんた。大学の先生が見えられましたよ」
「……やっぱり大学の名前って凄いんだね」
「あはは、そうなんです。いつも助かっています」
奥から妻に呼ばれた主人が出てきた。
「おお、これはこれは。粗末な家にようこそおいでました。それで何の御用でしょうか?」
「はい、今大学で歌川広重の研究をしておりまして、資料を探しています。調べによると、昔、道祖神祭りの時の幕御世話人衆の一人が松葉屋と言って、この場所に店を構えていたようでしたので、伺いました。急な訪問となり申し訳ありません」
「ああ、松葉屋か。確か大正時代だったか、うちの爺さんの代で辞めてしまったが、昔は松葉屋として営業してたと聞いています。しかし、ここがよくわかりましたね、さすが大学の先生だ。それに道祖神祭りですか、こっちも爺さんから聞いたことがあります。盛大な祭りだったようですね」
「そうだったみたいですね。その頃何があったか記録が残っていないかと探していて、それで昔の資料など残っていないか探しているのです」
「資料ですか、うーん、うちにあったかどうかわかりませんが、昔から伝わっているやつが倉庫に転がっていたと思います。私も全く興味が無いのでそのままにしておりますが」
「それ是非お見せいただけないでしょうか?」
「ああ、いいですよ。好きなだけ見てください」
「ありがとうございます!」
三峯たちは主人に裏庭の倉へと案内された。蔵の中には箱があり、箱を開けると様々な骨とう品が入っており、それらに紛れて埃を被った書物も数冊入っていた。その書物を取り出してみる。
「あ、それ読むんだったらうちの書斎を使っても構いませんよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
二人は言葉に甘えて書斎へ通され、三峯は早速書物を読みだした。矢板は出された信玄餅を食べながら主人にこれまでの経緯を話していた。主人も興味を持ち、矢板の話にふんふんと聞き入っている。
しばらくすると、それまで黙って書物を読んでいた三峯が突然声を上げる。
「あああーーー!」
「ぶっ…、ど、どうし…っと、しまった。すみません」
驚いて信玄餅にかかっている黄な粉を吹き飛ばす矢板。黄な粉で畳を汚してしまいさらに慌てだす。
「矢板さん、この松葉屋の主人が書いた日記に広重が失踪した、と書かれていいます!」
「は? 失踪だと?」
「はい。しかし、広重が甲府で失踪したということは訊いたことありません」
「そうだよね。失踪したとなるともっと大騒ぎになって色んな記録に残っているだろう」
「この日記には伊勢屋に逗留していた広重が突然帰ってこなくなったので、勤番へ訴え出て、勤番の火付盗賊改方による捜索が行われた、と書かれています」
「そういえばこの時期には御坂の小太郎だっけ? 盗賊一味が甲府の街を荒らしまわっていたというじゃないか」
「はい、この日記にも小太郎一味により誘拐されたかも、と書かれています」
「広重が誘拐されただって……」
ここ甲府では天保十二年の秋に死んだとされる三吉を始め、山吹、矢板を中心に、広重、幸貫、幕御世話人衆、御坂の小太郎一味を巻き込んだ騒動が起こっていたのではないか、という視点に立ち、いつものように二人の再現が始まる。
◇
その時分は甲府の町に時々賊が出没していた。飢饉が続き親を亡くすなど世間からはみ出してしまった者が増えていたせいで、その賊はそんな時代の犠牲になった者たちの受け皿となって勢力を拡大していたが、神出鬼没で甲府勤番も仲間の一人も捕まえることが出来なかったのだ。盗賊の頭目は勝沼の近くの御坂出身の無宿人と言う噂が流れていた。その神出鬼没さと被害額の大きさから人々は俗説として語り継がれている伝説の忍者、風魔小太郎に重ねて御坂の小太郎一味と呼ぶようになっていた。
小太郎の手下の数は多く、皆市中に紛れ込んで様々な情報を集めていた。その大量の情報の中から小太郎が選んだ危険性が小さく収穫が大きい仕事を選んで実行していた。下調べも入念に行われているため、成功率が高く見つかりにくかった。最初は誰か分からなかったが、手際の良い盗みがあると小太郎の仕業と言われるようになっていった。しかし、小太郎の顔を見たものは誰もいないと言う。情報収集力と統率力が並外れており、半分伝説化していて甲府の街は恐怖に包まれていた。
矢板や広重のいる居酒屋でも盛んに小太郎の噂話が飛び交っていた。一方の矢板たちは小太郎の話をよそに他の藩士たちと会議中である。
「父上、これはまずいですぞ」
「ああ、甲府まで来たのに……。まさか歌川広重に見られるとは、この矢板一生の不覚、抜かったわ」
矢板の後ろの机には歌川広重が酒を呑みながら、なんと山吹の話をしていた。それを偶然同じ居酒屋に居合わせた矢板たちが聞いたのだ。
「お奉行、こうなれば仕方ない、口封じを」
「あ、ああ、しかし一人は天下の浮世絵師、歌川広重だぞ」
「ですが……、こうなっては仕方ありますまい」
「……分かった、やろう」
追い詰められた矢板は暫く黙りこんだが、覚悟を決めて口封じのため二人を斬ることにした。
何も知らない広重と幸貫は上機嫌で酒屋を出て帰路に就いた。月明りを頼りにその後をつける片桐藩士たち。
二人が人気のない場所に差し掛かると隙を見て襲い、近くの神社の境内へ運んで斬ろうとした。
「かかれ!」
「ぐわ、いきなり何だ?」
「おい、何しやがる、放せ」
矢板の号令で藩士たちが二人にとびかかり捕まえ、必死に抵抗する広重と幸貫を神社の境内に引き摺って行った。しかし、またもや矢板に誤算が生じてしまった。
「お、おい、あれ人攫いか?」
「ひ、ひえ~、番所へ行くぞ」
「ああ、逃げろ~」
と、前からやってきていた者たちがおり、その様子を見て悲鳴を上げながら来た道を急いで走って戻って行った。
「しまった、見られたか!」
矢板は見られたことに動転して手早く済まそうと刀を振りかぶると、言った。
「お主たちには何も恨みは無いが、すまぬ。このお役目が終わった後、拙者も切腹する故許せ」
と言い幸貫を斬ろうとする。幸貫は矢板の信州の方言と江戸城内で聞き覚えのある声にはっとしたが、すでに刀を振り下ろしていた。
「キイーーン」
まさに斬られそうになったその時である。金属が叩き合う低い音が響き、火花が散ると間髪を入れずに修理の声が聞こえた。
「お前たち、このお方がかの徳川幕府の老中、真田幸貫様と知ってのことか!」
松代藩藩士の修理が幸貫と広重の後ろを歩いていたのだ。修理は主君の異変に気付くと駆けつけて行った。
「え? 何だと!?」
その言葉を聞いて顔を見合わせる矢板たち。そして幸貫の顔をまじまじと見て幸貫だと分かり激しく動揺する。
「ま、松代藩藩主だと……? あ、まさか老中の幸貫様……!?」
「おお、修理か助かったぞ」
「この無礼者! 叩き斬ってくれる!」
刀を振り上げる修理。
「待て修理! 斬る前に聞きたいが、お主の信州訛り……。もしや信州の人間か?」
幸貫が修理を制した。しぶしぶ修理は刀を下す。
「どこの藩だ?」
「……」
矢板たちに質問しつつ、月の微かな明かりを頼りにまじまじと矢板を見る幸貫。
「その顔、見覚えがあるな……。片桐藩の家老、矢板か!?」
「!!!」
幸貫が言うと、身元を知られた矢板一同はさらに動揺し、ざわつきだした。
「矢板、一体どうなっておる。何故儂を斬ろうとしたのだ?」
「そ、それは……」
目を地面に落とし言葉を濁す矢板。
「言わぬなら斬るぞ」
だが矢板は黙っている。しばらく思案していた幸貫はピンときた。
「そういえば、お主たちの藩主、信堅殿の側室、山吹殿が死んだと聞いたが、そこの広重殿がここ甲府で見たと言う。もしや何か関係があるな」
「ああ、俺は見たぜ。あれは奥方だったよ。目黒不動尊ではついでに家老のあんたも見たっけな」
「うう……。くっ……」
言葉が出てこない矢板から、心の中での激しい葛藤が伝わってくる。その葛藤を見て幸貫は山吹が生きていることを確信する。
「やはり山吹殿は生きているのだな」
「幸貫様。何卒お見逃しを、お役目が終わった後にこの矢板腹を切ってお詫び申し上げます。ここは何卒お見逃しを……」
「ふざけるな! お前たち。お前らは俺たちを殺そうとしたんだぜ、甲府のお役所へ突き出してやる! それに幸っつあんよ、あんた殿様の上に老中だったって?よくも俺をだましたな!どいつもこいつも俺をコケにしやがって!」
突然の出来事に呆然としていた広重がハッと我に返り叫ぶが、それを留め幸貫は訊いた。
「山吹殿が生きているとなると死を偽装して江戸を出たか。幕府の許可なく江戸を出る出女は大罪だぞ。そこまでしてなぜ山吹を逃がす? まさか、山吹殿の噂は本当であったか!? そういう事か、矢板よ」
「……はい」
矢板は観念して幸貫の言う事を認めたのであった。
現実世界に戻り、二人は目を合わせる。その話に佐野夫婦も興味を持って聞き入っていた。
「では、幸貫の知っていた山吹の秘密とは一体なんだ?」
最後のパズルのピースが見つからないもどかしさに三峯と矢板は頭を抱える。
その時松葉屋日記を見る矢板の目にふと「広重殿の行ったはらいそとはどこぞ」、と日記の端に何気なく書かれていた言葉が目に入った。
「……はらいそ? ここにはらいそってかいてあるぞ、これそうだよな、三峯君」
「はらいそ? 本当だ、確かにはらいそと書いてありますね」
「はらいそって何だ? 地名か?」
「はらいそ……。確かパライソ……」
「はっ! パライソ!?」
「パライソはポルトガル語で天国の意味……。あ、そういえばあの泥面子……」
田中家に伝わる泥面子を取り出して二人で見つめる。表には人の顔の形状が施されているが、裏側を見てハッとする。
「そうか、そういう事か、三峯君」
「ああ、矢板さんもしかして」
「もしかして、山吹は……」
「切支丹だったんだ!」
二人は同時に言う。三吉に贈られた泥面子の裏側には刃物で十字が刻まれていたのだ。
「ああ、何という事だ。これが河原と矢板が隠そうとしていた真実なのか?」
「それなら納得が行きますね。山吹が死を偽装してまで江戸を出ようとしたことの辻褄が合う」
「山吹が切支丹……」
山吹は切支丹だったのだ。江戸時代のこの物語の全容を描写しだす三峯と矢板。真実を覆うように邪魔をしていた最後のベールが取り払われ、この物語の全体像が浮かび上がってくる。