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甲斐国物語  作者: 芒果
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江戸脱出

 1841年、天保12年の秋。夕暮れ時の江戸の片桐藩の大名屋敷の薄暗い部屋では家老の矢板善昌が布団に寝かされた若い女の遺体の前に座っている。矢板の後ろには数人の藩士が並んで座っている。

 夕方であるが部屋は暗く、ろうそくの光も非常に弱い。否、故意に弱くしているかのようであった。その部屋にいる者は大目付が来るためか、皆そわそわしているように見えた。やがて幕府の大目付が若い女の検死にやってきた。


「ご家老、大目付の坂田様がお見えになられました」


「うむ、お通ししろ」


「承知いたしました」


 すぐに大目付の坂田が女の遺体のある部屋へとやってきた。


「坂田様、お忙しい中わざわざお越しいただきありがとうございます」


「矢板か。今回は山吹殿が急死して残念だったな」


「藩士一同悲しみに暮れております」


「では今から、山吹殿の検死を行う」


「はは」


 大目付は言うと山吹の遺体の前に座り、顔に被せられていた白い布を取り払い、山吹の顔を見た。しかし、顔を確認しようとするが暗すぎてはっきり見えない。


「これ矢板、この部屋は暗くて顔がよく見えんぞ」


「失礼いたしました。先ほどまで明るかったのですが、陽が落ちて暗くなったようで……。これ、もっと蠟燭を持って参れ」


「只今お持ちいたします」


 家臣は蝋燭を取りに障子を開けて部屋を出た。その時である、矢板は坂田に気づかれぬよう廊下に居た藩士に手で合図を送った。


「きゃ!」


「何するの、もう。あはは」


「……え? 何ですって?」


「ふふふ…」


 同時に、廊下から女たちの声が聞こえてきた。それが気になって仕方がない様子の大目付。


「なんだ矢板、もしかしてこのような折に芸者を呼んだのか?」


「拙者たちは信州の田舎侍ゆえ、江戸の作法は存じ上げませぬ。ですが大目付様がわざわざご足労いただいたのに何もせぬわけにはまいりませぬ。我々なりに知恵を絞って考えました。他にも酒と料理を支度しております」


 廊下からは途切れることなく女たちの声が聞こえてくる。その声を聴きながら神妙な面持ちの目付が唸るように言った。


「これ、矢板よ…」


「はっ……」


 その低くゆっくりとした声に内心焦る矢板。


「お主と言うやつは。このようなことを……」


「……」


「中々気が利いておるではないか。ふっふっふ」


 内心ほっとした矢板と藩士たちは顔を上げると、一同満面の笑みとなっていた。


「おお、お目付け様。今宵は粒ぞろいを集めております。おい、お前たち、お目付け様を宴席へご案内いたせ。信州の酒も用意しておりますぞ。ささ、どうぞ。女達がお待ちしております」


「うむ、信州のもてなしか、楽しみではないか。はっはっは」


「ははっ! お前たち、音楽を始めよ。あ、ほれ、それ!」


「おお、矢板。なかなか楽しいやつではないか! ん? ん~、この酒も上等だ。はっはっは、愉快愉快」


 宴席となっている部屋へ入るなり矢板の合図で三味線が始まり手拍子が鳴る、矢板は羽織袴を脱いで三味線に合わせて率先して踊り出した。女と酒に目がない目付は、検死はもう終わりと女を横に座らせて上機嫌で酒を呑みだした。その晩、片桐藩の屋敷からは夜遅くまで笑い声が響いた。すっかり泥酔した目付けは駕籠に乗せられて屋敷へと帰っていった。


「ふう、最初の関門を突破したか。これからが本番だ」


 目付が屋敷を出るのを見送りながら矢板は肩をなでおろすが、この先に待ち受ける困難を想像して気を抜けない。


「明日は早朝に遺体を寺に運び、荼毘にふすぞ」


「はは」


 藩士たちに指示をだし、矢板は屋敷の奥の部屋へ入っていった。そこに居たのは死んだはずの山吹であった。山吹の顔は冴えない。


「山吹様。大目付様の検死が終わりました」


「そうですか……」


「遺体は明日荼毘にふし、葬式を上げた後に寺に埋葬します。そして、我々は葬式が終わった後に江戸を出て警備が最も手薄な秩父往還を通り信州へ向かいます」


「分かりました」


 実は遺体は山吹ではなく、ちょうど病で亡くなった山吹と同じくらいの歳の町人の娘であった。藩士たちは山吹の死を偽装して信州へと秘かに連れて行く計画をたてていたのだ。葬式は滞りなく終わり、一息つくと行商人の姿に扮した矢板と山吹が大きな背負籠を背負い、角笠を被ってまだ暗く人気のない早朝に屋敷を出た。その後ろから矢板の息子である善村を含む4人の片桐藩士が護衛のために付かつ離れず歩いていた。腕に覚えがあり、口の堅い者ばかりを矢板が集めたのだ。

 一行は無事に江戸を出て青梅街道を進み途中で吾野通りへ道を変えて進む。吾野通りの難所は正丸峠であり、険しい山道であった。矢板は山道を無言で歩く山吹を見ながら主君との約束を思い出していた。

 信州の片桐藩に江戸からの早馬の知らせが届いた後、信堅は泣きながら矢板にすがり山吹を助けてくれと懇願していた。矢板も気が動転している。


「と、殿。これはまずいことになりましたぞ」


「矢板。このままでは山吹が死んでしまう。何とかならぬか」


「何とかと言われましても…」


「頼む、山吹を江戸から連れ出してくれ。頼めるのはお主しかおらんのじゃ。頼む」


「しかし、出女は死罪ですぞ」


「そこを何とか頼む、矢板。一緒に居たいのだ!」


「……分かりました。何とか山吹様を江戸から連れ出してみましょう」


 必死に懇願する信堅を見て、ついに折れた矢板は、信堅の屋敷を出るとすぐに息子の善村を呼び、山吹の江戸脱出計画を話した。そして腕の立ち信頼ができる藩士を3名選んで中山道を通り急いで江戸の片桐藩への屋敷へと向かったのであった。


 山吹を江戸から連れ出すことになった発端を思い出している内に、矢板と山吹は正丸峠を越えた。山吹は江戸を出てからずっと黙っており、2人の後ろからは4人の片桐藩士たちが距離をとって付いてくる。険しい山道であったが行きかう人は多く、米や炭などの物資を運ぶ馬方が多かった。このため、吾野通りから秩父へと抜けると、峠越えで疲れた馬を休ませる立場が多くあり、そこで馬に餌を食べさせると共に馬方も立場で食事をとった。立場の使用人たちは一斗樽にふすまと呼ばれている小麦のぬかを三升ほど入れ熱湯を注ぎかき混ぜ、そこに切り藁など飼葉を入れて馬に食べさせていた。馬方は立場で出される飯と魚や芋、大根、人参、牛蒡など根野菜の煮しめ、うどんに奴豆腐などを食べながら枡酒や焼酎を飲み、馬方仲間と談笑して休憩していた。

 秩父の中心部は大宮郷と呼ばれており、周囲を低い山々に囲まれた盆地であるため、外部から秩父へ入るには険しい山道を通る必要がある。しかし、秩父は江戸のみではなく上野、さらには甲斐や信濃とも繋がっているために交通の要衝となっており、古くから栄えていた。江戸時代になると、春先には秩父周辺の34か所の霊場を巡るお遍路さんで賑わい、奥秩父にある三峯神社への参拝者も多く、秩父周辺の宿場町は何処も賑わいを見せていた。

 江戸時代には日本各地から移住者が多く、様々な国から秩父へとやってきていた。秩父には七ツ井戸と呼ばれる名水の湧く井戸があり、酒造りに適した良質な水が得られたため新天地を求めて越後の杜氏もここ秩父に移住していた。このため秩父の造り酒屋には越後出身者が多かった。

 また、天秤棒一本あれば千両を稼ぎ出す、「近江の千両天秤」と言われる近江商人も多い。近江商人は行商を基本としており、その足で蝦夷から薩摩まで日本各地を巡り商売を行っていた。売り手より、買い手よし、世間よしといういわゆる「三方よし」を始めとして、家ごとに商売に対する哲学を持っているとも言われていた。この近江商人の中には行商の途中に立ち寄ったここ秩父が行商の要衝にあり、様々な品物の集積地となっていたため、そのまま秩父で商売を始めるものもいた。他にも武田家の滅亡後に秩父往還を通り甲斐から秩父へと落ち延びて来た武田の残党や鉢形北条氏の残党の子孫もおり、秩父へやって来る者たちのルーツは様々である。

 このような商人や杜氏など資金力や技術、商売の知識を持った移住者たちは成功を収めることが多く、実際秩父で成功している者たちの多くは外から来た者たちであり、多くは秩父往還沿いに立派な店舗を構えていた。逆に古くからある家は農業や養蚕をしていることが多い。


 正丸峠を越え、坂氷を下り横瀬を過ぎると吾野通りは本町で秩父往還に繋がる。東面から秩父へ至るルートはこの吾野通りの他にも江戸の板橋から川越を経由して粥新田峠を越えて秩父へと至る川越通り、中山道が熊谷で分かれ、そこから南西へ進み秩父へ入る熊谷通りがあり、秩父街道とはこの熊谷通りを指している。川越通りと熊谷通りは秩父の北東部で合流し、吾野通りが本町で合流している。三つの通りが合流して以降、秩父往還は荒川の流れに沿って奥秩父まで敷かれている。

 この本町の十字路を右に行けばすぐそこに地蔵川に架かる犬橋がある。この犬橋は犬戻橋とも呼ばれ、犬は何処へ行っても必ず戻ってくることに因み縁起を担いで花嫁行列はこの橋は決して通らなかった。また、この橋を南側から北側へくぐるとはしかの症状が軽くなるという言い伝えもあり、親に連れられたはしかの子供たちが橋をくぐる風景が見られた。

 本町の十字路を左に行くと奥秩父へと通じる。秩父の街中は非常に活気があり、街道の両脇に呉服屋や造り酒屋、立場、米問屋などが立ち並んでおり、全国各地からやってきた様々な商品が行き交っていた。特に奥秩父では木材の生産と共に炭焼きが盛んであり、俵に入った炭が運ばれていた。秩父盆地には比較的大きな河川である荒川が流れていたため、この荒川の水運により木材を江戸まで運ぶことが出来たので、秩父から大量の木材が江戸へ供給されていた。また、山間の村々では蚕を育て絹糸を紡いでおり、絹織物も有名である。これらの品物を周辺諸国へと出荷すると共に、乏しい田畑の収穫を補うために米など食料品が秩父へと運びこまれていた。

 秩父の街の喧騒を感じながら、矢板は無事江戸を出て秩父まで来られたことにホッと胸をなでおろしていた。秩父までくれば後は栃本の関所を越えて最大の難関である雁坂峠を越えて甲斐の国に入ると、目的地の信州は目と鼻の先である。

 まだ陽は高かったが正丸峠を越えて疲れた体を休めるため、一行はここ秩父で宿を取ることにした。人通りの多い場所を避け、目立たないようになるべく粗末な宿屋を選んで入る。宿屋では風呂に入り、峠越えの汗を流すと共に疲れを癒した。風呂から上がると食事が準備された。膳の上にはずりあげと呼ばれるうどんと芋田楽、サトイモやハスイモなどの茎であるずいきの入った泥鰌煮に酒が入った徳利などが並ぶ。ずりあげは茹で湯と共にうどんを椀に入れ、醤油や柚子、葱、胡麻などで作ったつけ汁に付けて食べる。秩父では麦の栽培が盛んであり、うどんは広く食べられている料理であった。うどんを啜りながら善村が口を開く。


「父上、秩父までやってきましたね」


「うむ、ここ数日は一日一日を長く感じたぞ」


「はい、後は栃本の関所と峠越えですか」


「その後には甲州を抜けねばならん。先はまだまだ長いぞ。今日はしっかりと休むがよい」


「はい」


「山吹様、まだ道のりは遠いですが辛抱してください」


「……」


 矢板の問いかけに山吹は食事をしながら黙ったままであった。江戸を出てから終始この感じであったので、一同には重い空気が流れている。


「山吹様。納得はされていないかもしれませんが、殿のご命令です」


 矢板は言うと以降は話さずに食事に集中していた。山吹にとっては江戸を出ることは本意ではなかったことと、様々なことが起こっていたために心中には複雑な感情が渦巻いており話す気分とはならないのであろう。そんな山吹の心中を察して矢板は無理に話そうとはしなかった。

 翌朝、朝食には米に様々な野菜を混ぜて作るかてめしに汁物、川魚の焼き物、漬物が出された。一行は手早く食べ終えると支度をして早々に宿屋を出発した。矢板と山吹はここまでくれば町人の格好をする必要もないだろうと、武士の格好をしていた。荒川は秩父山地を切り裂くように流れており、両岸には山々が連なり、上流に行くほど高くなっていた。秩父往還は荒川の南岸を沿って通っている。

 秩父を出ると影森村へと至る。この辺りは水事情が悪く、雨が降らないとすぐに渇水が起こる。村の貴重な水源として金仙寺にある井戸が大切に使われていた。この井戸は文政9年(1826年)に掘ったと言われており、深さは地下30メートルに達する秩父で最も深く掘られた井戸である。

 影森を過ぎて荒川に沿ってしばらく歩くと八幡の渡しがあり、そこから船で荒川を渡り八幡坂を上ると贄川宿に至る。贄川宿の入り口には三峯神社の一之鳥居があり、この鳥居をくぐると街道の両脇に様々な店が立ち並ぶ贄川宿である。三峯神社はかつて大和武尊が開いたとされる霊験あらたかな由緒正しき神社であり、贄川宿はその門前町として発展してきた。このため、宿屋では講中の客が来ると草鞋のまま上がって休めるように畳を上げてもてなしていた。また、鳥居の脇は広場になっており、三峯神社まで運んでくれる駕籠かきたちが客を待っていた。街道を歩いていくと、立ち並ぶ店の中に茶屋があったのでここ少し休もうということになり、茶屋の軒先の長椅子に腰かけて団子を注文した。

 贄川宿は高台にあったので、茶屋からは東の荒川の流れにより削られて見通しが良くなっていて、青い空の元で山々が八重に連なり遠くになるほどかすんでいく様が見て取れた。その景色を見て、考え込んで沈んでいた山吹の気分も晴れたのか、表情にも笑顔が浮かぶ。


「ああ、綺麗……」


「あ、奥方様、やっと笑顔が見えましたね」


 その笑顔を見て善村が言う。


「おお、山吹様に笑顔が戻られたか、これは良かった」


 矢板も嬉しそうに言った。少し気持ちがほぐれた山吹であったが、ふと横を向いてみると一人の男が頭を抱えて座りこんでいる様子を目にした。ぶつぶつ言いながらかなり悩んでいる様子であった。気になった山吹がその男に近づき、声をかける。それを見て止めようとする矢板。


「や、山吹様、どこへ行かれる?」


「あのう、どうしました?」


 男には山吹の声が聞こえていないのか、頭を抱え込んだままぶつぶつ言っていた。よくよく聞いてみると、それは仏への祈りであった。


「ああ、仏さん、おらの娘と孫を助けてくれ。助けてくれ。どうか……」


 その様子を見て真顔になり、男の横に座り肩を揺すって話しかける。男ははっとして涙で濡れた顔を上げて山吹を見る。


「どうかしました?」


 山吹は聞いたが気が動転しているその男には何が起こっているかいまいちはっきりしていない様子であった。根気強く尋ねる山吹と、それを怪訝な表情で見ている矢板たち。


「あ、……ああ。おらの娘が……、死にそうなんだ」


「え、それは大変。何があったのですか?」


「ああ、出産で……、赤子が出てこねえ」


「まずいですね。その娘さんは何処にいるのです?」


 そのやり取りを聞いて矢板が駆け寄ってくる。


「いけません、山吹様。我々は先がありますぞ」


「矢板殿、私にはこの方を見捨てることが出来ません」


「山吹様、そのようなことをおっしゃられては困ります!」


「娘さんは何処です?案内してください」


「あ、あんたはもしかして医者か?」


「はい、蘭方医です」


「な、何だって!? ああ、仏さんに願いが通じたんだ…」


「行きましょう」


「や、山吹様! ああー、もう!」


 男は茶屋の上にある自宅へと山吹を案内した。その様子を見ながら矢板が自分に課せられたお役目との板挟みで両手で頭を抱えて叫ぶ。

 山吹が男の家に入ると、そこには苦しんでいる娘と、娘の旦那と思しき男、さらに産婆が居た。


「おい、梓、権六。医者が来たぞ!」


 山吹と言う希望を得た男は家に入るなり娘と隣の男に嬉しそうに言った。


「え? 医者だと? ……だけどよ、三吉のおとっつあん、おらたちには払う金がねえぞ」


「あ、ああ……」


 それを聞いて現実を悟り一気に意気消沈する三吉。


「お金など要りません。心配しないで。それよりも娘さんを診させて」


「え、本当ですか!? 何とお礼を言っていいやら……」


 その言葉に三吉はさらに泣き出した。


「どうやら逆子の様で、経験が無くて私では手の打ちようがないのです」


 苦しそうなうめき声をあげている梓の横に居た険しい表情の産婆が言う。矢板たちは一度言ったら聞かない山吹の性格を知っていたので諦めたように玄関に立って中の様子を見ている。目立った行動は取りたくなかったのであるが、目立ってしまっている。平常心を装っているが、矢板の心は焦り穏やかではなかった。


「父上、いかがいたしましょう」


「うむ、山吹様は一度言ったら聞かないからな。待つしかないか……」


「ここに突っ立ていても何なので、どうせなら手伝いましょうか?」


 息子の提案に少し考える矢板。


「急いでおるが、人の命がかかっているとなると……。だが、待つよりも手伝った方が早く済むか。…ああ、もうしょうがない、お前たち山吹様を手伝いなさい」


「ははっ!」


 と、開き直った矢板は藩士たちに山吹を手伝うように言った。藩士たちも梓の近くへ行き、山吹の指示を待つ。山吹は手際よく腹の中の赤子の位置を直す。赤子の位置が直って一安心していたが、どうやら様子がおかしい。産道の途中までは出てきているのだが、そこから出てこないのである。山吹の表情がだんだん険しくなる。


「赤子の肩が骨に引っ掛かって出てこれない…」


「どうしますか?」


「産道を広げないと……。善村殿、今から言う物を集めてきて。焼酎、縫い針、絹糸、新しく清潔な布、火箸、頼みます!」


「集めて参ります!」


 肩甲難産だと思った山吹は、危険を承知で産道を広げるための会陰切開を行うことを決意する。切開は父親が何度か行っていて、それを補助していたのでやり方は分かっているが、実際にやるのは初めてである。

 善村たちは村へ行き手分けして山吹が必要としている物を集めに行った。そして、三吉たちにはお湯を沸かさせて、産道を広げる準備に入った。赤子はもう何時間も出てきていない。母子ともに命が危ない。玉のような汗を流しながら梓はうめき声をあげている。そうこうしながら山吹が手術に必要としている物品が三吉の家に届く。


「山吹様、集めて参りました」


「ありがとう、善村殿。さあ、さっそく始めます」


 そういうと、山吹は善村たちが集めてきた道具を熱湯の中に放り込み、焼酎を自分の手にかけた後に梓の陰部へとかけて切開の準備を始めた。

 山吹は苦痛に顔が歪んでいる梓に丸めた布を噛ませると、善村たち片桐藩士に梓が暴れた時に抑えるように指示をして梓の顔を見た。梓の表情には覚悟が見て取れており、山吹の目を見て静かに頷いた。それを見て山吹も頷き返すと、熱湯から取り出した匕首で切開を始めた。そして家には梓の悲鳴が響いた。


「しっかり押さえて!」


 痛みと苦痛に耐えかねて梓が暴れそうになり、出血の量も増えて行く。その梓を必死に抑える若い藩士たち。


「頑張って、もう少しよ」


 梓は相変わらず悲鳴を上げていた。この修羅場に若い藩士たちは悲鳴に似た声を上げ、表情は恐怖で歪む。


「あなたたち、しっかりしなさい!」


「お前たち、これしきの事で情けない。しっかりせぬか!」


 その様子を見て思わず山吹と矢板の叱責が飛ぶ。


「出てきた、頭が見えたわ。そのままもう少しよ、頑張って」


 山吹の言葉に梓が頷くと、梓は残った力を振り絞り赤子を外に出そうとした。しかし、梓の出血がひどくなり意識がもうろうとしだす。山吹は出血を減らすために切開した場所を圧迫しつつ、梓の様子を伺う。


「頭が半分出てきた。あと少し」


「梓、頑張れ。もう少しだ!」


 山吹と共に三吉と権六も梓を励ます。その激励に善村たちも加わり、家の中には梓を励ます声が響き渡った。その時である。


「出てきた!」


 山吹が出てきた赤子を取り上げた。一同は歓声を上げる。


「男の子よ」


 山吹は赤子を産婆に渡しながら梓に言うと、その直後に家の中に元気の良い泣き声が響いた。梓は息を切らせながら微笑むと意識を失ってしまった。梓の様子を見て三吉と権六の表情は一気に険しくなり叫ぶ。


「梓、しっかりしろ!」


 山吹は赤子を取り上げても山吹は気を抜かずに梓の脈を測ると、すぐに切開部の縫合を始めた。必死に治療を行う山吹の顔にも不安が見て取れた。


「奥方様、娘は、梓は大丈夫でしょうか?」


 三吉は不安な表情で山吹に尋ねる。


「分からない。出血がひどくて……」


「ああ、梓」


「ごめんなさい、三吉さん。私が未熟なばかりに」


「何を言っています! 奥方様は赤子を救ってくれたではねえですか! 謝ることなんてねえだ」


「三吉さん、出来る限り手を尽くします」


「ああ、奥方様。何とお礼を言っていいやら……」


「おい、梓、しっかりしろ、赤子は元気だぞ」


 三吉は必死に娘に話しかける。山吹の止血により何とか出血は止まったが、血液を失ったことに加えて出産の疲労で梓は意識を失い、眠りについている。


「起きたらとにかく消化に良い食べ物を食べさせてください」


「分かりました。準備します」


 床にも染みついていた血液を拭きながら山吹は言う。それから、山吹はずっと梓に付き添い、容態を診ていた。その後数日間、梓は生死の境をさ迷っていたが、その間に山吹は看病と共に必死に祈りを捧げていた。矢板たちは贄川の角屋と言う旅籠に滞在したが、山吹はそのまま三吉の家で梓に付きっきりで、矢板たちが旅籠へ移るように言っても聞く耳を持たない。かといって一人にさせる訳にはいかないので、夜間には藩士が交代で山吹の側にいたのであった。

 赤子は三太と名付けられ、みんなにかわいがられた。片桐藩士たちも自分たちが取り上げた赤子である、赤子に対する愛情が芽生えておりやることもなかったのでみんなでかわるがわる赤子の面倒を見ていた。


 山吹たちの祈りが通じたのか四日後には梓は何とか持ち直し回復に向かっていた。傷も塞がりつつあり、寝たきりではあったが赤子を横に寝せてあやしていた。その様子を見て安堵する三吉と権六。一行は傷を縫った糸を抜糸するまでの間、贄川宿に留まった。

 梓の傷が塞がり、抜糸は無事済んだ。梓も次第に体力を回復しており、元気そうである。その様子を見て矢板は山吹に出発を促す。山吹も同意し、旅立とうとすると三吉が言った。


「奥方様、娘と孫を助けてくれてありがとうございます。お礼に何も出来ませんが、せめて雁坂峠を越える時の荷物持ちをいたします」


「ありがとう、三吉さん。しかし、お仕事は大丈夫ですか?」


「へへ、おらはもう年で樵は引退して今は権六がしっかりやってます。畑の収穫も終わったし、この時期おらみたいな爺さんは暇なんですよ。それに、奥方様のお連れ様の様子から何か訳ありみたいですし……」


 その言葉に矢板の右手がゆっくりと刀に伸びる。


「いやいや、詮索するつもりはないですが。娘と孫を助けてくれた御恩に関所越えをお手伝いしようと思って……。なに、この辺の人間はみんな知っているし、番人もおらが行くとすんなり通してくれるさ」


 この申し出に矢板は少し考え、危険が増えると思い断ろうとしたとき山吹が聞いた。


「矢板殿良いですか?」


「いや、しかし……」


「旦那様、おらからもお願いします。峠越えは危険ですし、せめて甲府まで奥方様たちを無事に送り届けたいのです」


「……分かった」


「ああ、良かった。では三吉さん、お願いします」


 数日間山吹の仕草や矢板たちの緊張や焦りようを見ていた三吉は、この一行には何か訳があると感じていた。しかし、人の命を救う人たちに悪人はいないと思い、あまり深く考えずに甲府まで無事に送り届けようと思っていた。ついでに甲府に行って新しく生まれた赤子のために何か土産を買ってこよう、という気もあったのだ。

 関所越えに少々不安があった矢板は三吉がいた方が心強いと思い、三吉を同行させることにした。矢板も地元の人間が道案内をしてくれる上に荷物を持ってくれるとなるとありがたい。もちろん危険もあるが、娘と孫の命を救った恩義があるので色々と助かるかもしれない、という打算もあった。一行は翌日の早朝に三吉を連れて贄川宿を発った。見送りの時には梓も立ち上がって手を振っていた。


 気のいい三吉と一同は打ち解けて道中には笑い声が響いた。これまで張りつめていた緊張を三吉がほぐしてくれたのだ。猪鼻を通る時には数年前に始まったここ猪鼻の熊野神社で行われる甘酒をかけあう奇祭、甘酒祭りの話や友人が山で雄の熊に会ったので着ていた熊の皮にくるまってじっとしていると、その皮が雌の皮だったようで興奮した雄熊に襲われそうになった話など面白おかしく話して聞かせた。その話に若い藩士たちは大いに盛り上がっていた。

 やがて急流の白滝沢を渡ると大滝村へ入り、強石へと至る。大滝村は天領であり、この強石には大滝村の罪人の処刑場があった。この付近は一面が桑の木であり、村の家々では蚕を育てていた。やがて大滝の由来である支流の中津川が本流の荒川にぶつかる滝があった。この合流付近が大滝村の中心地である。この辺りでは栃の実をよく食べており、栃の実をあく抜きした後に餅に混ぜて作る栃餅が有名であった。一行は休憩がてら栃餅を食べた。

 大滝を過ぎると、大きな桂の木の下から湧き出ている弘法ノ一杯水と呼ばれている湧水があり、そこで皆喉を潤した。この先には麻生の加番所がある。関所を通る準備を始めた矢板たちの表情には緊張が見て取れた。


 秩父往還の関所である栃本関は慶長19年(1614年)に任命された大村家が代々役人をしており、地元の百姓たちが交代で徴用されていた。しかし、役人が一人だけだと手薄であるということで、秩父側は大滝村の麻生、甲州側は三富村の川浦にそれぞれ加番所が設置されていた。麻生の加番所は鉢形北条氏の家臣の末裔の千島家が代々番主を務めていた。関所を通る者はまずはここ麻生の加番所で通行許可の印鑑を貰い、栃本の関所で提出することになっている。

 麻生に入ると直ぐに加番所があった。矢板たちに緊張が走る。ここから先は山吹と矢板と三吉のみが先に入り、その後に藩士たちが別々に通過する手はずである。しかし、矢板の緊張をよそに、三吉は臆せず関所へと入っていった。すると、関所の番人が声をかける。


「おお、三吉、久しぶりではないか!」


「何だ、今日の当番は五平、お前か。おっかあは元気か?」


「うん、あんまり具合は良くなさそうだけど、おかげさんでまだ生きてるよ。ところで甲府へ行くのか?」


「ああ、そうだ。こちらの方々の荷物持ちだ。それに初孫が生まれたんでな、ついでに孫になんか買ってやろうと思って」


「そうか!それはめでたいな」


「だが、大変だったんだよ。お産で娘も孫も死にかけたが、そこの医者先生が偶然通りかかって命を救ってくれたんだ」


「え、梓がか!?おうおう、それは大変だったな。しかし、医者の先生が偶然通りかかるとは運がよかった」


「本当に、そうだ。こちらの方々はおらたちにとって仏さんだ」


「ああ、違いない。…それはそうと印鑑だな。千島様から貰ってきてやるよ。待ってな」


「おお、すまんな、五平」


「いいってことよ」


 五平は上機嫌で手形を受け取り、加番所の役人である千島の元へと手形を持って行った。その後、山吹は矢板と共に千島から取り調べを受けるも、地元民で顔見知りの三吉の娘を助けたということで千島も機嫌がよく、好意的であった。


「おお、そうか、それは良かった、良かった。…うん、行ってよろしい」


「千島様、ありがとうごぜえやす。甲府から帰りにまた話そうや、五平」


「おう、またな、三吉」


 と手形を一瞥するだけですんなり印鑑を貰い、加番所を通過した。ホッと胸をなでおろす矢板。他の藩士たちも無事通過したようで、後を追いかけてくる。印鑑が押された手形を持って一行は次の栃本の関所へと向かう。栃本の関所も麻生の加番所と同様に番人は三吉の顔見知りであったのですんなりと通れた。緊張していた矢板たちはほとんど詮索されずにあっさりと通れてしまったので拍子抜けしていた。陽が傾きだし、渓谷に山の影を落とすようになると山吹はふと足を止めた。

 夏が終わると山の頂から、木々の葉が黄色から赤へと色づいていく。変化は次第に山頂から下がっていき、山裾が色づくころには山頂の葉はすでに落ちている。遠くに見える雁坂峠の峠付近の木々はもうすでに葉を落とし始めていた。

 栃本は白泰山の南の斜面に作られた集落であるため標高が高く遠くまで見渡せた。日当たりがよく、この地域では珍しく作物がよく育った。しかし、急斜面であったため棚田が作れず、斜面に芋などの作物を直接植えていた。このため、農民たちは斜面に立ち畑を耕す際には斜面の上から下へと鍬を打ち、土を上げながら耕す栃本のさかさっぽりと呼ばれる耕作を行っていた。


「矢板殿、私のためにすみません」


 立ち止まった山吹は、南へ向かって飛んでいく雁の群れを見ながら口を開いた。


「何を申される、殿のご命令です」


「私は江戸に残ろうと思っていました。江戸から連れ出したあなたを恨んでいました、でも、私なんかのために…」


「山吹様、もう何も申されるな。それに、明日は峠越えですぞ、しっかりと休みましょう」


 山吹の心境の変化を感じ取って、矢板は笑顔を作って優しく山吹に言った。眼下には東西に深い渓谷が伸びており、対岸の山の頂上は水平に見えて、その遠近感が見るものを圧倒し腰を引かせる威圧感を持った景色である。その景色の中、坂を下っていき、三吉の案内で宿へと向かって行った。

 翌朝、一行は宿を後にし、雁坂峠へと向かって歩く。雁坂峠は2000m級の山々が連なる武蔵国と甲斐国の境にある。早朝に出て峠に着くのは昼頃の予定だ。旅に慣れている矢板はともかく、江戸育ちで江戸を出たことがない山吹にとってはかなりの難関であったが、息を切らせ、三吉に助けられながら無事に峠に辿り着いた。峠を越える人は多く、峠にも休憩を取りながら景色を眺めている旅人が何人もいた。そして、多くの旅人が願掛けのために峠の地面に穴を掘り、銅銭を埋めて旅の無事を祈願していた。

 雁坂峠を越えて笛吹川に沿って下っていくと甲府はもう目と鼻の先である。その日は三富で宿をとり、翌朝信州を目指して再び進む。石和宿に着くと、山吹は街道の脇にあった店に立ち寄り、泥面子を一つ手に取った。その泥面子をまじまじと見つめる山吹にかすかな笑顔浮かんでいるのを三吉は目にした。その泥面子を買うと裏に匕首で何かしらの疵をつけて三吉にお守りだと言って贈った。


「ありがとうごぜえます!」


 奥方からの初めての贈り物に喜ぶ三吉なのだった。


 石和を過ぎると甲府である。矢板たちはさすがにここまでくると大丈夫だろう、と思いホッとして胸をなでおろす。山吹も江戸以来山道を歩いてきたので疲れがたまっており、甲斐善光寺の近くで小川を見つけると、ついつい顔を隠していた手ぬぐいを脱いで小川の水で顔を洗った。その様子を歩きながら角笠を右手で摘まみ上げながら男が見ていた。そして、その顔にハッとした。


「あれは……確か。まさかこんなとこで見るとはねえ……。へへ、全く、世間は狭いぜ」


 ぼそぼそと呟いて歩き去っていった。


 二人はすれ違い通り過ぎる。しかし、運命は再び二人を繋げるのであった。


                 ◇


「と、こんな感じでしょうか。」


 現実世界に帰ってきた二人。


「うん、恐らく遠からずこんな感じだろうね。三峯君の家に伝わる泥面子もこの時に贈られたんだろう。危険を冒してまで江戸を出た理由はまだわからんが……。しかし、この後一体何があったのだろう?話としてはみんなで巨摩峡、今でいう昇仙峡へ行くんだろ?」


「はい、そうですね。恐らく広重が山吹を見たことが幸貫たち、広重、そして山吹たちを結ぶ接点なのでしょう」


「ああ、もう少しだ、あと少しで真実が明らかになるぞ」


「矢板さん、私は数日ここ笛吹に滞在して博物館に保管されている甲州文庫を読みあさってみます」


「おお、そうか。私も手伝いたいが、こればっかりは私じゃ役不足だ。しかし、仕事が終わった後なら付き合えるよ、どうだね、ん? 馬刺しと煮貝を食べながら一杯」


 と矢板はお猪口を持ち口に運ぶしぐさを見せた。三峯は無言であった。


「もちろん、私の奢りだよ」


「おお、本当ですか! 私も滞在費がかさむし、貧乏学者なもんで…」


「はっはっは、未来の大学者様と酒が吞めるんだ、金なんか惜しくはないよ」


「ああ、矢板さん。ありがとうございます!」


 三峯は夜には山梨の名物と酒を堪能しつつ、数日間笛吹市に滞在して県立博物館の甲州文庫を読みあさった。甲州文庫は山梨の各地から集められた古文書などの資料群である。昔の山梨を研究する際には最初に読むべき貴重な資料である。

 三峯は1841年前後に書かれた資料を探し出していつものように時が止まったように読みふけっていた。一方、やることがなく暇な矢板は長野の家に帰ることもなく、昇仙峡を始め身延、富士五湖などへ行き、一日中観光をして山梨を満喫していた。

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