甲州日記
その日は矢板の家に泊り、翌朝、矢板家で朝ご飯をご馳走になった三峯であったが、その献立がサステイナブルではなくてちょっとホッとしていた。
食卓には様々な料理が並んでいた。信州の田舎味噌で作った味噌汁には出汁に使った煮干しの香りが残っており、具には各種のキノコが入っていた。そして、信州サーモンの塩焼きにそばがき、山菜を入れた松茸の炊き込みご飯が出された。矢板夫妻は蕎麦の製麺所と自家製麵で作る蕎麦屋の他にも飲食店を数店経営しており、ビジネスでささやかな成功を収めている。また、その家柄もありこの地方ではちょっとした名士でもあった。その矢板を支えているのが妻の千曲であり、矢板と結婚後には料理屋を切り盛りしていたので奥さんの料理の腕前はプロである。その味と共に一人暮らしの三峯にとっては久しぶりの一人ではない手作りの食卓であったこともあり、一つ一つの料理が心に刺さる。三峯は感動を覚え、煮干しとネギの香りを楽しみながら味噌汁を啜る。
「三峯さん、いつも主人の相手をしてくれてありがとうね」
漬物を渡しながら矢板の奥さんが三峯に言った。箸でサーモンを切り分けていた三峯はふと顔を上げる。
「いえいえ、私も研究結果の話し相手が居て助かってます」
「そうか、それは良かった。三峯君と話していると歴史の細部や最新研究の内容を知ることが出来るので面白いね。まるで大学の講義を聞いているようだ」
「ははは、実際大学の講義でもそんな内容を話してますよ」
「おお、道理で勉強になるわけだ!」
食卓を囲みながら他愛のない話をしつつ、炊き込みご飯を口に運ぶ。
朝食が済むと二人はそれぞれの車に乗り、中央自動車道を一路笛吹市を目指して進む。左手に八ヶ岳を見ながら諏訪湖を過ぎる。釜無川に沿って走るとやがて視界が開け、甲府盆地に至る。甲府盆地をしばらく走り御坂インターで降りると県立博物館は目と鼻の先にある。
駐車場に車を止めて早速館内へ入る。館内の展示室の奥には初代歌川広重が描いた「東都名所目黒不動之瀧」のレプリカが展示されており、不動尊の脇を流れる滝と目黒不動を行き交う人物が描かれていた。二人でそのレプリカの前に佇み、まじまじと見つめる。
「矢板さん、この幕絵で何か変わったところはありますか?」
「いや、特には見つからんか。三峯君はどうだ?」
「私にも特に変わったところは見つかりません…」
「うーん、無駄足だったかな…」
「ですがせっかく来たんですし、収蔵資料を調べてみますか」
「それもそうだね、端末から検索してみよう」
二人は何か新しい情報が得られないかと収蔵資料を調べ出した。すると、一つの資料がヒットした。それは「歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭」といい、歌川広重が幕絵を描きに甲府へやってきた際の道中を描写した甲州日記や甲府滞在の終盤に甲府周辺を見物した際の「旅中心おほへ」など広重が書き残した資料を集め、県立博物館で研究を行った際の報告書である。そこに書かれている甲州日記などを読み進めて行く。広重の江戸から甲府への道中と甲府での生活が少しだけ書かれていた。
読み終わると二人は博物館に隣接しているレストランへ行き、コーヒーを飲みながら先ほど読んだ広重の甲州日記の内容を話し出した。
「うん、やっぱり広重は甲府へ行っていて幕絵を始めとして色んな絵を描いていたんだな」
「はい、しかも滞在期間は旧暦の4月から11月。半年以上甲府に居たんですね」
「甲州日記も読んでみると当時の甲府の様子が分かってかなり面白いね。それに、何というか、歌川広重って結構偏屈だったんだな」
「ははは、気難しさが伝わってきましたね」
会話をしながら、やがて二人の頭の中で甲州日記のイメージ化が行われていく。
◇
天保12年旧暦の4月2日、歌川広重は上機嫌で鼻歌交じりに甲府へ向けて丸の内から甲州街道を西へ向かった。甲府で道祖神祭りの幕絵を描く依頼を受けたが、この報酬が非常に良かったからだ。
旅路は順調であった。快晴の元、翌3日には八王子の千人町を出発した。この付近は機織りを生業にしている家が多く、道を歩いているとカタコトと機織り機を動かす音がそこかしこから聞こえてきた。途中に織物を売る店があったのでちょっと立ち寄り、手に取って見ると品質は非常によく、筑前博多織に似ていた。
駒木野の関所の先の小仏峠を過ぎると武蔵国から相模国へと入る。ここから険しい山道が続く。急で曲がりくねった山道を歩いている広重の額から汗が流れてきて、頬を伝い首まで落ちて行った。息が上がっている広重であったが、その表情には笑みがこぼれていた。それは春もたけなわで強くなった陽の光を新緑が照り返している甲斐路の景色を見てこぼれた笑みである。その場所のその瞬間の景色を目に焼き付けるように移り行く景色を見ながら歩いていた。
小原宿を過ぎて与瀬宿に差し掛かった頃、広重は疲れと空腹で茶屋で一息ついた。そこは相模川と秋山川の合流地点の北側にあった。
「あー、疲れた」
汗を拭いながら広重は茶屋の長椅子に座り、足を前に伸ばして楽な姿勢となる。
「おーい、女将。茶と何か食べるものないか」
「いらっしゃい、お茶と食べものだとね、あ~いいのありますよ」
「ん?何だそれは」
「鮎のお鮨。ちょうど鮎が海から相模川を上がってきたので鮨にしてみました」
「おお、そうかそうか。それは旨そうだ。じゃあそれを頼む」
「はーい。ちょっと待っててね」
広重は井戸水で喉を潤した後、茶を飲んでくつろいでいた。しかし、肝心の鮎の鮨が出てこない。痺れを切らして厨房を除くと、男たちが三人がかりで必死に鮎の鮨を作っている。その様子にぎょっとしたが、何もなかったように椅子に戻り茶をすする。するとやがて鮎の鮨が出てきた。見た目は鮨っぽい。広重は一貫摘まむと期待して口に放り込んだ。
「おえ、不味い…。何だこりゃ」
鮎は生臭くて小骨が多い上、シャリには酢が利いていない。鮨を口に放り込むたび生臭さが鼻を衝き、そのたびに吐き気を催した。箸が全く進まなかったが、腹が減っていることとこの先の山道を考えて広重は何とか全部食べ終えた。
「こりゃうどんにでもしておけばよかったかな…。おう、女将、お勘定」
「はーい、300文になります」
「はっ?さ、300文だと!?」
「ああ、鮎の鮨はねえ、江戸なんかじゃ絶対に食べれないここ与瀬宿の郷土料理だよ。ふふふ、美味しかったろう」
その金額を聞いて広重はぎょっとする。たったこれだけで300文だと?300文だと江戸の鮨よりも高いし、蕎麦だと10杯以上食べられる。高い上に不味いと来た。そして、目の前には満面の笑みの女将。腹の底からこみ上げてきた怒りがその憎たらしい笑顔を見てさらに高まるが、その怒りを何とか抑え広重はしぶしぶ金を払い、ぶつぶつ小言を言いながら店を出た。
「けっ、守銭奴め全く。ありゃ確信犯だぜ。文句を言ったら裏の台所の連中が出てきていちゃもんつけてくるに違いねえ。何が郷土料理だ、嘘つきめ。不味い上にぼったくりとはせっかくの昼飯が台無しだぞ…」
仏頂面で歩き続ける広重の脇を流れる大きな相模川は山間を縫ってゆっくりと流れていて、水中からところどころ突き出ている岩にぶつかりできるさざ波が西に傾きつつある太陽の光を反射してきらきらと揺らめいていた。与瀬から少し歩いた広重であったが、どうにも先ほどの鮨には納得がいっていなかった。関野宿の手前にある茶屋に差し掛かると、蒸した饅頭の香りが辺りに漂っていた。これは美味そうだと茶屋に入ると、塩餡の大きな饅頭を一つ注文しかぶりついて食べた。
関野宿の茶屋を出ると再び歩き出し、相模国の津久井郡と甲斐国の国境の境川に至る。そこで少し腹が減ってきたので休憩がてら何か食べようと思った。境川には山の斜面の上から下へと茶屋が三軒あったが、真ん中の茶屋が最も眺めが良さそうなので真ん中の茶屋へと入った。その茶屋の下には桂川が流れており、遠くには丹沢山地が見える。
茶屋で出された食事は鮎の煮付け、味の付いた飯、うどんであった。それと酒を一合頼んで飯を食べながら酒を飲んだ。その茶屋の飯は割と美味しく、先ほどの鮎の鮨の事は次第に頭から離れて行った。茶屋の近くの松林には春ゼミがおり、盛んに鳴いていた。その鳴き声に耳を傾けつつも鳥の鳴き声など他の音にも注意深く意識を向ける。目を閉じて視覚を無くすと、風に含まれている様々な春の香りも敏感に感じ取れるようになる。すると、自分が周りの自然の一部となり時間の流れが遅くなったような妙に落ち着いた気分になりながら、酔いの回りに身を任せて身体の疲れが取れるまで時間を過ごした。暫くして体と共に心も休まると、正午を過ぎていることに気が付いた広重は立ち上がり、勘定を済ませて茶屋を出て山道を再び歩き出した。
境川を過ぎると甲斐国へ入る。甲斐国へ入ると相模川は桂川へと名を変える。甲斐国の東部地方、桂川の上流にある富士山周辺から北東の丹波山村までの地域は律令国において都留郡に分けられていた。いつしかこの都留郡は郡内地方と呼ばれるようになっていた。郡内地方の南部では織物が盛んであり、どの家でも機織りをしている。織物は郡内縞や紬が有名で、木綿や絹を用いて織られていて、甲州街道沿いにはこれら郡内縞や紬を売る店が多く見られた。
都留郡の北部からは鶴川が流れており、桂川と合流している。この鶴川に架かっている橋を渡ると鶴川宿に至る。広重の今日の目的地は鶴川の次の宿場である野田尻宿であった。この鶴川を越えてからの景色がまた素晴らしく、陽もまだ高かったこともあり時々立ち止まりながら景色を楽しんでゆっくりと歩いて行った。
野田尻宿に着くと広重は小松屋という旅籠に泊ったが、これがもう廃墟のような宿であった。建物は広かったが老朽化しており、至る所に埃が積もっていて掃除していないので前の宿泊客の付けた汚れがそのままにされてあった。その様子に広重は顔をしかめ、小言をぶつぶつ言いながら出された飯を食べた。
隣の部屋には家族連れの宿泊客がおり、挨拶をした時に少し話しをした。その宿泊客はどうやら桑名藩士で桑名に帰る途中であるとのこと。この時期は雨が多く河川が増水するために橋が架けられない大きな川が沢山ある東海道を選ばずに、降雨の影響を受けにくい甲州街道を選択したのだ。
桑名藩士は居合の達人であるらしく、妻子を寝かしつけると広重たち宿泊客に居合抜きを披露してくれた。その桑名藩士は武芸に関しては非常に詳しく、刀を抜き、型を見せながら居合抜きの流派から砲術、果ては忍術まで解説して見せた。この余興に宿泊客たちは大いに盛り上がった。
翌日4月4日も晴れであった。広重は早朝に小松屋を出るが、その粗末な朝食に不機嫌であった。野田尻宿を出て犬目峠を越え、鳥沢に差し掛かかると、不機嫌であったことが嘘であるかのように広重の顔には爽やかな笑顔が浮かび上がっていた。曲がりくねった峠道で遠方には時々雪を被った富士山が見え隠れしている。広重は立ち止まり、被っていた角笠を右手で摘まみ少し持ち上げて眼前の景色を見た。
「ははは。いや~、こりゃ言葉には表せないねえ。果たしてこの俺の腕でもこの景色を描けるかどうか…」
眼前に広がる景色を見ながら広重は遥か向こうに見える富士山に向かって両手を広げて言った。桂川の両脇には甲斐の山々が連なっており遠くまで見え、桂川の流れは澄んでおり、川底まで透けて見えていた。ここからしばらく山道を歩くと猿橋に至った。
この辺りは渓谷となっており、桂川の両脇は切り立った崖になっていた。猿橋はそんな崖の幅が狭くなっているところに橋脚を使わずに架けられており、旅人のみではなくこの辺りに住む人々にとって重要な橋となっていた。言い伝えでは猿橋は何でも猿が繋がり橋となり、対岸へ渡る様子をヒントにして作られた、とのことであった。
猿橋の先にある大月宿には分かれ道がある。左に行けば富士山へと向かうため、富士講の富士参詣で吉田の御師の元へ行く人が多くいで立ちも白装束で白の羽織には信仰を表した文字が書かれていた。
追分の右手方向は甲州街道である。広重は近くなった富士山を見ながら名残惜しそうに甲州街道を進む。この先には甲州街道最後の難所である笹子峠が待っている。今日中に笹子峠を越えるのは無理であったため、黒野田宿で宿をとろうとした。黒野田に着くとまず宿場で一番大きい扇屋へ行ってみたがすでに客で一杯だったため仕方なくその隣の若松屋に泊まる。しかし、この宿が昨日泊った野田尻宿の小松屋に輪をかけたように粗末な宿であった。部屋の隅や破けた行灯にある蜘蛛の巣は取り払われておらず、壁の漆喰は崩れ落ち、腐ってところどころ抜けている床からは地虫が這い出てきている。畳には埃が積もっており、火鉢も一部欠けていた。ただ、茶を出された時の湯飲みだけは立派であり、この店にはもったいない。ともかく、この甲州街道でも一番ではないかと思う粗末さで広重は頭がくらくらしていた。
晩御飯の献立は煮干しのような小さな鰯の目刺しが四匹、平皿にはわさび、牛蒡、豆腐、芋が盛られており、それに飯と汁物であった。広重はもう早く寝ようと思い、晩飯を食べるとすぐに寝てしまった。
翌4月5日も快晴であった。広重は宿を出て歩き出す。この黒野田宿のすぐ先に笹子峠の入り口がある。途中の矢立の杉などを見物しながら勾配の大きな笹子峠を休みながら登って行った。
笹子峠を過ぎると後は下り坂である。日川に沿って坂道をしばらく下っていくと次第に視界が開けてきた。途中に武田勝頼が自害した場所に徳川家康の命で建てられた景徳院があり、この景徳院を過ぎると次第に葡萄の木が増えてくる。
鶴瀬宿を越えて勝沼宿へ至ると眼前には甲府盆地が開け、遠くには八ヶ岳、白根ヶ岳、地蔵ヶ岳が目に飛び込んできた。その景色を見て全身に疲労を感じながら広重はつぶやいた。
「へへ、やっと甲府に着いたか。」
この時の広重の顔にも笑みがあったが、その笑みは犬目峠で見せた絶景を見て感動した素直な混じり気の無い笑顔ではなく欲望を含んでいることが見て取れ、右の口角を上げつつ眉を上げて呟いた。
「ふっふっふっ。これから忙しくなるぜ。さてと、それでは稼ぐとしますか…。」
山道を下りると石和を経て甲府に至り、緑町の伊勢屋へと行きその門を叩いた。主人の歓待の声と笑い声が辺りに響き渡る。甲府へ滞在中にはこの伊勢屋栄八宅が広重の住み家となる。その日広重は久しぶりに風呂に入り髭と月代を剃った。
4月6日、この日も晴れであった。朝食を食べ終わると伊勢屋に連れられて緑町の隣の西一条街にある亀屋座へ行き芝居を見た。演目は伊達の大木戸などであった。広重の見る限り甲府の街には余り活気はなかった。
夕方には幕御世話人衆と顔見せを行ったが、伊勢屋の主人の歓待とは裏腹に皆浮かない顔であった。それもそのはずで天保の飢饉に甲府騒動など立て続けに起こり、1万4千人ほどいた人口はこの10年で9千人にまで減っていたのだ。このため、道祖神祭りを派手に行うことで神仏への祈りを捧げ、再び活気を取り戻そうと言う願いを籠め、奮発して当代随一と名高い絵師である歌川広重に幕絵を発注したのであった。
甲斐という国は四方を山で囲まれているため平地が少なく、山の斜面を削って僅かな平地を作りそこで作物を栽培していた。甲府盆地ではなだらかな斜面が続いており、稲作をするには絶望的な地形であった。このため、日当たりと水はけがよいと言う斜面の特性を利用し様々な果物が栽培されていた。春先になると無数にある桃の木に桃色の花がびっしりと咲き、高台から甲府盆地を見渡すと盆地一面が桃色に覆われている。
甲府盆地の周囲には標高の高い山が連なっているので、山間を流れる川は急流となり山肌を削っている。標高の低い山地を流れる川のように蛇行をしつつ周囲に平地を作るような人の生活に対する優しさは持ち合わせておらず、過酷な環境である。切り立った崖のような両岸を切り開き、僅かな平地に田畑を作り家を建てる。このような土地では非常に生産性が低いため、大人数で生活するのは無理であり、一つの集落が養える人数に限りがあった。
川はよく氾濫し、水害を引き起こすため甲府盆地の中央付近に僅かにある平地と言えども安定した作物生産ができるわけではない。
甲州人の気質はこの甲斐国の風土により養われており、過酷な環境であるため助け合う必要があり、この環境に鍛えられて肉体的にも精神的にも強い。良い面が出た場合は何事にも諦めない強さを持ち、周りを守ろうとするが、悪い面が出た場合、非常に尊大で自分中心の人間となる。そんな気難しい男たちに毎日接しているせいもあってか、女たちは笑顔が多く気立てがいい者も多い。
甲州では他の国と同様に長男が家を継ぐが、作物の生産量が少ないため、次男以降は行商人となり日本各地を行商する者が多く見られ、この甲斐国出身の商人は甲州商人と呼ばれていた。
めちゃかもんとも呼ばれ、世間では強引で食らいついたら放さないすっぽんの様な甲州商人と揶揄されてはいるが、義理人情に厚く信頼関係を築くことを大切にしていた。多少強引でも根気強く商売をまとめるのであるが、一度約束した金銭はきっちり支払い、この金払いの良さで相手から信頼されることが多い。非常にめんどくさい相手ではあるが、一たび深い親交を得ると非常に頼りになることも甲州人の特徴の一つであった。
こうして甲州商人の中でも才覚のある者は商売で成功を収め、甲府の大通りに面した場所に店を構えるようになっていた。伊勢屋や松葉屋など緑町の幕御世話人衆の中でもそのような経緯で緑町に店舗を構えている商人も少なくない。広重は甲斐国の中心地、甲府でそんな甲州商人たちに囲まれて半年にわたって生活した。広重の甲州日記には広重が甲府に到着後に依頼を受けて絵を描いた話や芝居を見た話、絵の謝礼に鰻や鮨を貰ったことなどが書かれており、日記は4月23日で終わっていた。
甲府の食生活は豊かであり、各種の肉や魚に加えて夏から秋にかけては八珍果と呼ばれる多彩な果物が食べられる。文化的にも発展しており、今回の道祖神祭りは周辺国に轟く一大祭典であった。歌舞伎などの催し物も見られ、江戸から有名な歌舞伎役者がやってくると、亀屋座には人だかりができていた。
周囲は険峻な山々で覆われているが、一旦山に入ると風光明媚な場所が多く、歩きながら目に入る光景はダイナミックに変化するので観光には事欠かない。甲府の北西部の山中にある巨摩峡は特に有名で切り立った巨大な岩肌が連なっている。巨摩峡の奥には金櫻神社が鎮座しており、その背後の金峰山を御神体としている。依頼された絵を描きながら時間があれば巨摩峡を始めとした甲斐国内の景勝地を巡る。そんな生活を広重は半年間送っていた。
◇
三峯と矢板は現実世界に戻ってくる。
「これが甲州日記か……。この内容を見てみても1841年に歌川広重が甲府にいた事くらいしかわからんね」
「この後、広重は絵を描いたり様々な場所を観光したりしてその年の11月20日に江戸に戻っています」
「なるほど、やっぱり歌川広重も三吉さんやうちの先祖の善昌、そして真田の殿様と同時期に甲府に居たわけだね」
「そうですね。残念ですが、これ以上は調べようがないみたいですね」
「……そうか」
「あ、あのう……」
「ん?」
突然かけられた声にはっとする二人。
「何かお困りでしょうか?」
残念がっている二人を見かねてたまたまレストランに居た県立博物館の学芸員が声をかけてきた。それを見て三峯が応じる。
「あ、ああ。私は北埼玉大学の文学部の田中と申します。今、歌川広重について調査をしておりまして……」
「広重についてですか。この博物館には山梨中の資料が保管されていますので、お役に立つかもしれません。甲州文庫から色んな家に眠っていた古文書まで沢山あります。必要ならば探すのお手伝いしますよ」
「え? 本当ですか!?」
「はい、それも仕事ですから」
「ありがとうございます。それでは広重が甲府に滞在していた時の資料を探して頂けませんか?」
「分かりました。探してみます」
学芸員は親切にも三峯たちの参考になりそうな資料を時間を掛けて探してくれた。しかし、それもつかの間の喜びで矢板家や三吉に繋がりそうな資料は無いという。
「ああ、お役に立てず残念です……」
「いえいえ、こちらこそ親身になって頂きありがとうございました」
二人は協力してくれた学芸員に向かって礼をし、踵を返して肩を落としながら博物館の出入り口へ向かい歩きだした。しかし、その時であった。
「あ!そういえば……。あれはどうかな?」
学芸員が腕組みをしながらボソッと呟いた。その言葉に二人は同時に学芸員へ振り向いく。
「ん? 何ですか?何かあるのですか!?」
二人の勢いに驚く学芸員は、少し焦りながら説明を始める。
「えっと…、そう言えばですが、広重が書いたと言われている書き付けがあるんですよ。筆跡は広重っぽいのですが確証はありません。広重が滞在した伊勢屋に残されている古文書の中に紛れ込んでいたんです。これは実際のところ私もよくわからないのですが、このメモを一度見て広重が書いたっぽいとは思ったのですが、書いている内容が意味不明でそのまま放置されています。確か倉庫の中に保管されていたかな?」
「何ですと! 是非お見せいただけないでしょうか、お願いします!」
頭を下げて頼み込む二人。
「あはは、もちろんいいですよ。今日は平日でお客さんも少なくて暇ですし、その矢板日記や河原日記に書かれている内容も気になりますしね。ちょっと待っててください。今準備しますので。あ、お手数ですが閲覧申請もお願いしますね。ではでは」
と言いながら、学芸員は倉庫へと歩いて行った。矢板と顔を合わせる三峯。何か話したいが言葉を発しない。願望とかを言葉にするとぬか喜びで終わってしまいそうであったからだ。そわそわしながら無言で待つ二人。しばらくして学芸員が戻ってくる。
「あ、お待たせしました、ありました。閲覧の準備ができましたのでどうぞこちらへ」
その広重の書いたとされるメモは机の上に置かれていた。一度くしゃくしゃにされたようでたくさんの皺が入っていた。どうやら本からむしり取られて丸めて捨てられたものである。二人はそのメモを覗き込む。
「なんだって!」
メモを一目見るや否や三峯と矢板は大声を上げる。
その紙にはなんとここ甲府で目黒不動尊で会った片桐藩の藩主の奥方を見たことが書かれていたのだ。
目黒不動尊で会った片桐藩の奥方とは、つまり山吹である。
「三峯君、これはいったいどういう事だ? 広重が甲府でなぜ山吹を見るのだ?」
「矢板さん、これは……。もしかして山吹は生きていたとのでしょうか?」
「なんという事か。葬式をしたと書いてあったのに実は生きていたと?」
「もちろん見間違いかもしれませんが」
「そうだな。しかし、絵の天才の広重が一度話した人を見間違うかね?それも興味を持った人をだよ」
「う~~~ん、そう言われるとそういう気もしますが……」
「しかし、仮に生きていたとしてなぜ死を偽装する必要があるんだ?そもそも出女は死罪にも相当する重罪ではなかったかね?」
「山吹と信堅は江戸で上手くやってたいたようですし、山吹は江戸出身ですし、わざわざ危険を冒してまで江戸を出る必要があったのか。いや、でも、そう考えないと辻褄が合わない。」
他にもその紙には信州の隠居と仲良くなり夜な夜な酒を呑んだ、とも書かれていた。
「これはもしかして真田幸貫の事でしょうか? 信州出身の隠居ということで河原日記と一致しています」
「なんと、1841年の甲府で一体何が起こっていたんだ? ああ、この私の頭ではさっぱりわからんぞ」
頭をかきむしる矢板を横目に三峯は冷静に分析する。
江戸で山吹は死んだのではなかったのか? しかし、そもそもなぜ秩父の樵である三吉が信州片桐藩の家老であった矢板と共に甲府にいて、甲府で埋葬されたのか。また、なぜそれを松代藩の家老の河原が知っているのか?
「矢板さん、これまで得られた情報に今回の情報を当てはめてみましょう」
「あ、ああ。三峯君。私じゃあまり頼りになりそうもないが、何とかやってみよう」
そうして甲州日記と共に新たに得られた広重メモを基にした三峯と矢板の江戸時代の記憶の再現が再び始まる。そこにちょうど仕事が休憩中の学芸員もやってきて話を聞きだした。
◇
秋が来て11人いる幕御世話人衆ごとに依頼された11枚の幕絵も完成に近づいていた。ある日、広重は仕事が終わり酒屋で一人酒を吞んでいると、隣の机にも男が一人で座って酒を呑んでいた。二本差しで決していい身なりではなかったが、どことなく気品があった。
その男が広重を見て声をかける。
「もし、突然すまぬが、その青はもしかしてベロ藍ではないか?」
「ん? 何だ? あ、この色かい?」
と広重は袖を手繰り寄せて男が指さしている袖にこびり付いた青い顔料を指して言った。
「うむむ、この透き通るような鮮やかな青は江戸で見たことがあるのだ」
「ほほ~、旦那はこの青をご存じか、はっはっは、お目が高いな。そうだよ、これは最近南蛮から入ってくるようになったベロ藍だよ。海とか空とか富士山なんかにこの色を使うと映えるぜ」
「おお、やっぱりそうか。一度浮世絵で見て以来、この色にすっかり興味を持ってね」
「だろ、俺も自分の絵にこのベロ藍をよく使っているぜ」
「ん? やはりお主も絵を描くのか?」
「ああ、俺は江戸の浮世絵師さ。今は依頼でここ甲府で絵を描いているがね」
「おお、何と。甲府で江戸の浮世絵師に会えるとは幸運な」
「ふっ。いやいや、もっと幸運だぜ。何せ当代一の浮世絵師だからな」
「当代一の浮世絵師とな。当代一と言えば…。もしや、あの有名な…」
「おう、そうよ。この俺がその有名な浮世絵師の…」
「葛飾北斎か!」
ずっこける広重。江戸で有名な浮世絵師と言えば二人いたので幸貫も一瞬迷ったが、どうやら不正解であった。
「北斎のじじいじゃねぇよ。まったく。ほれ、他にもっと凄い浮世絵師がいるだろ、東海道五十三次とか」
「東海道五十三次? すまんすまん。すると、お主はあの有名な歌川広重殿か、これは失礼仕った」
「おお、そうよ。俺がその歌川広重よ。全く、有名人はつらいねえ。それとよ、北斎は80越えの爺さんだ、もう北斎の時代じゃないぜ。ふっふっふっ、今はそう、この俺の時代よ」
と広重は親指で自分を指しながら得意気に言った。
「申し遅れた。拙者は信州松代藩の幸左衛門と申す。家督を長男坊に譲って隠居しており、今は諸国を回って見聞を広めておる」
「おう、幸左衛門さんか。まあなんだ、何か言いにくいな。幸っつあんでいいか?こっちの方が言いやすいぜ」
「ん?ああ、構わんよ。では儂も広重殿ではなく、歌さんと呼んでもよろしいか?」
「歌さん?何か変だがまあいいさね。おう、幸っつあんよ、ところでこのベロ藍なんだがな…」
「ふむふむ」
「……でよ、……なんだよ。びっくりだろ?」
「おお、何とそういう事か!はっはっは……」
と、二人はすぐさま意気投合して話は尽きることなく夜が更けるまで続いていた。広重に話しかけてきたその男の言葉は信濃の方言であったが、礼儀正しく大和絵に対する造詣が深く、学問もよく積まれていることがすぐにわかった。その日以降、お互いを気に入った二人は夜な夜な酒を酌み交わす仲となった。この人物が、何と気まぐれで甲府へ来ていた信州松代藩の藩主真田幸貫であったのだ。
それからしばらくして、二人はいつものように一緒に酒を呑もうと酒屋に入り酒を酌み交わした。
「所で幸っつあんよ、今度幕絵の題材にしようと思っている片桐藩の奥方だけどさ、今日の昼頃善光寺の近くで見たぜ」
「ああ?前に言ってた目黒不動尊で会った片桐藩の奥方か?あー、確か山吹殿か。しかし、山吹殿は少し前に病死していると聞いたぞ」
「ん? 何だって? いいや、あれは奥方で間違いねえ。そんなもん、この俺が一度見た人物を間違える訳がねえよ」
「うむむ、確かに歌さんなら間違わんかもしれんが。そういいえば、山吹殿と言えば江戸でこんな話があったな。まあ、ここだけの話だが、その山吹殿は実はな…」
幸貫は家臣からの報告で江戸での出来事はある程度把握していたので、隣藩の側室である山吹が死んだことについても報告を受けて知っていたのだ。それに加えて山吹について江戸で噂になっていたことを何か知っていたようで、広重に山吹の噂を話した。
◇
二人は広重と幸貫の出会いを想像した後、現実世界に戻ってくる。
「う~ん、こんな感じか。肝心なことが分からんね」
「ですね、しかし幸貫が山吹のことを何か知っていた可能性は高いと思っています。何かがあるはずだ……」
「そうだな。それはそうと山吹が死を偽装した件、矢板日記に合わせて再現してみようじゃないか」
「はい、矢板さん、そうしましょう」
続けて矢板日記の真相の再現が始まる。