河原日記
閲覧予定日の早朝、冷え込みが厳しくなっている中、白い息を吐きながら三峯は車に乗り込み一路教育委員会のある長野市へと向かった。三峯の住んでいる秩父市から長野市までは上信越自動車道を使えば二時間ちょっとである。車を運転しながら移り行く景色を眺めつつ三峯は自分の先祖のことをぼんやりと考えていた。
三峯の家に代々残されている言い伝えでは、三吉は三峯の8代前の先祖である。三吉は1841年、天保12年の秋にたまたま通りかかった矢板に孫を取り上げてもらった恩義のため、矢板に同行して甲府へと行ったと言う。恐らく荷物持ちと道案内のためであろう。また、ついでに甲府で行商をして小銭を稼いで孫の着物など買って帰るつもりであったのであろうか。
秋のこの季節は木の葉が落ちて見通しが良くなり切り倒しやすくなる上、スズメバチなどの危険な昆虫も寒さで死んでしまうため、林業が盛んになる。樵にとっては稼ぎ時であった。つまり、この季節に甲府へ行くと言うことは恐らく樵を引退して娘婿たちに仕事を譲っていたのであろう。三吉が矢板に付き従って家を出た後はそのまま帰らず、翌年に矢板善昌は息子の善村と共にやってきて三吉の死を伝えた、と言う事であった。三吉がなぜ死んだのか理由はすでに忘れ去られている。死因は何だったのであろうか?その翌年から矢板家から毎年贈り物が届くようになったのだ。
子供の頃あまり考えず変な習慣程度に思っていたが、やっぱりどう考えても何かがおかしい。そもそも通りすがりの家老がなぜ樵の孫を取り上げなければならないのか、そもそも当時の男に赤子を取り上げられるのだろうか?三吉と言うただの樵が一人死んだだけである、当時の上級武士が末代までの大恩を示すとは極端すぎる。矢板善光の祖先、矢板善昌とはそのような過剰な思い入れをする人間だったのであろうか?
矢板家の人も代々先祖の言いつけを頑なに守り、贈り物を続けているが、それほど代々強く言いつけられてきたのであろう。しかし、今のご時世である。矢板家の子孫も贈り物なんて止めることもできるのだろうし、何で続けているのかも不思議である。何故?頭の中に色々な何故、が浮かんでは消えて行く。
ただ、田中家も矢板家も今となっては江戸時代から続く伝統行事となっており、楽しみともなっていた。現当主の矢板善光もこういう伝統行儀はきっと好きなのだろう。三峯は好奇心旺盛な矢板の性格を想像しながら思わず笑みがこぼれる。
三峯はドライブを楽しみながら車を走らせていた。高崎を過ぎ、高崎から北西へと進路が変わるとすぐに長野県に入る。そして、軽井沢を横切り小諸、上田、千曲を過ぎて長野市に到着した。
「渋滞も無く予定通りに着いたな。アポの時間まであと小一時間ほどあるか……」
駐車場に車を止め、車内の時計を見ながら三峯は呟く、数分後に矢板も到着した。
「あ、矢板さん、ご無沙汰してますね」
「三峯君も元気そうだな。はっはっは」
「おや?矢板さん嬉しそうですね」
「そりゃそうさ、天下の大学者殿の研究のお手伝いができるんだ、楽しみで仕方ないよ」
「また矢板さん、変なこと言わないで下さいよ。私は非常勤のしがない研究員ですよ」
「ふふ、まあ人生万事塞翁が馬っていうじゃないか。三峯君ならその内きっと有名な研究者になっているさ」
「そうなるといいのですが。まあ、前向きに地道に頑張ります」
「うんうん、そうだ。それが良い」
久しぶりの再会で色々と話している内にアポの時間となり、建物内へと入り受付を通る。すぐに担当者がやってきて一通りの挨拶を交わした後、資料が保管されている部屋に案内された。
「…こちらがその資料になります」
と言って白い手袋をはめた担当者が一冊の古文書を取り出し、丁寧に取り扱いながらテーブルの上に置いた。
「これが河原家から新たに発見された古文書で、天保12年頃の河原綱徳の日記が書かれています」
「なるほど」
三峯と矢板の目が合った。矢板は早く内容を知りたい気持ちが全面に出ており、かなり前のめりとなっている。両手は後ろに固く組んでいたが、恐らくうっかりと手を出さないようにするためであろう。
「…では、お時間までご覧ください」
担当は一通りの説明を終えると部屋を出て行った。三峯と矢板は椅子に座ると早速書物を開いてパラパラと概要の確認を行った。
「これは、河原綱徳の主君、真田幸貫が老中になる前から、翌年の春頃までの出来事が書かれてるようです」
「なるほど、幸貫が老中に任命された日は確か1841年の6月13日だったな」
「はい、そうです。この日記にも就任日は6月13日とありますので間違いないでしょう。あ、でもこの場合の日付は旧暦です。なので、旧暦に1カ月を足すと大体今の暦になりますよ」
「ああ、そうか。では今の暦では7月中旬頃か」
「そうですね。…その他も読んでみましょうか」
三峯は集中し、無言になって河原日記の解読に没頭した。矢板は古い毛筆の書体はあまりわからないようだ、三峯は普通の本を読むようにすらすらと読み進めて行く。まるで時間が止まったかのように動かない三峯の様子を矢板は隣で辛抱強く見ていたが、突然、三峯が一声を発した。
「……なるほど」
河原日記を一通り読み終えた三峯が書かれていた内容を矢板に説明する。
河原日記には甲府で起こったことが断片的に書かれていた。断片的に書かれていたためさすがの三峯でも内容はさっぱりわからなかったが、どうやら河原は1841年の秋ごろに藩主や家臣の修理と共に秘かに甲府にいて何か事件に巻き込まれたことだけは分かった。その中に三峯の祖先である三吉の名前も実際に出ていた。さらに翌年の旧正月に甲府で行われたとされる道祖神祭りをお忍びで見物した、ともあった。
「つまり、日記に書かれている内容はこうでした……」
日記の情報と共に三峯が持っている知識を総動員して過去の出来事が再現される。
◇
時は江戸時代後期、梅雨も終わりかけの頃、大量の湿気を含んだ熱い風が吹く中、松代藩主の真田幸貫が江戸城内で12第将軍、徳川家慶の前で頭を下げている。将軍の隣には老中首座の水野忠邦が座っている。
「謹んでお受けいたします」
頭を下げながら幸貫が言う。
「うむ、今は幕府は困窮している。享保や寛政の政を再び行い幕府の立て直しを行うため、名君として名高い幸貫殿のお力をお貸しくだされ」
「恐れ多きこと」
「幸貫、老中としての其方の働き、余も期待しておるぞ」
「はは、上様。この幸貫命に代えてもお役目を果たして見せます」
言い終えても幸貫は決して頭を上げず、額を畳にこすりつけていた。空はどんよりとしていたが蒸し暑く、額に沢山の汗の玉が出来ていた。
「ここ10年程、飢饉が起こり日本各地で一揆も起こった。そのため、大勢の民百姓が命を落としておる。何とかして政を正さねばならぬのだ。頼んだぞ、幸貫」
将軍の家慶が言うと幸貫は深々と下げた頭を上げ、静かに大広間を後にした。大広間の外で待機していた河原も大広間を去る主君の後に付き従い歩いて行った。
1833年、天保4年から始まった大凶作により、日本中で大きな飢饉が発生していた。この飢饉は1839年、天保10年ごろまで続き、その間には大阪の与力であった大塩平八郎の乱を始めとして様々な一揆や打ち壊しが起こっていた。特に大きかった一揆は天保騒動と呼ばれており、天保7年に起こり甲斐国全土に波及した。
このように日本全国で殺伐とした長い冬の時代となっていたが、ここ数年は作物の生産も安定しだし、活気を取り戻しつつあった。天保の飢饉で疲弊した日本を天保以前の世まで回復させるために白羽の矢が立ったのが、名君として名を馳せていた松代藩藩主、真田幸貫であったのだ。
この改革を指揮していた人物が老中首座の水野忠邦であり、この改革は後の世で天保の改革と呼ばれることとなる。幸貫は忠邦の大きな期待を背負って老中に抜擢されたのであった。
老中に就任して以降、幸貫は多忙を極めた。天保の飢饉により起こった様々な事件や騒動が尾を引いており、諸藩や市中のいざこざが絶えずにその仲裁などてんやわんやであった。ひっきりなしに仕事が舞い込み毎日その仕事をこなしてから江戸城から松代藩の江戸藩邸へ帰り、翌朝早朝登城するという生活が続いていた。そんな生活がしばらく続き、猛暑が過ぎて少し涼しくなってきた初秋のある日、仕事に追われていた幸貫が河原に聞いた。
「綱徳よ、全く近頃は忙しくて敵わんぞ。この仕事を手伝える人物は誰かおらんか」
「この仕事を手伝える人物ですか……、うーん、さてさて。ん?一人居るかもしれませんが……しかしあの者は……」
「なんだ、綱徳。もったいぶって」
「いや、一人居ることはいるのですが…。その人物は能力的には問題ないのですが人間的にちょっと…」
「うむむ、それは誰だ。早く言わぬか」
「その者は江戸で象山書院と言う塾を開いている修理です」
「ん? 修理? ああ、あの問題児か……。あの者は今江戸に居るのか。修理は確かに才気はある若者だが、気難しい人物。果たしてこのお役目の手助けとなるやら…」
「殿、才能において修理は松代藩の家臣の中では飛びぬけておりますぞ。それに江戸に来て少しは成長しているかもしれません」
「なるほど……。綱徳、分かった。修理と一度会って話してみよう。松代藩の藩邸に参るように修理に伝えよ」
「はは。仰せ仕りました」
河原は頭を下げると早速修理こと佐久間象山の元へと出向いていった。
暫くすると修理が松代藩邸へやってきて、幸貫の前で平伏する。
「おお、修理。久しぶりだな」
「はい。殿もお変わりないようで何よりです」
と、一通りの挨拶を終え、修理の近況を聞くと本題に入った。
「して。修理。お主は江戸で塾をやり続けるのか?そろそろ戻ってきて幕府のためにその才を振るってみないか?」
「は、某はまだ江戸で学問をしようと思っています」
「ほう、して何の学問じゃ」
「蘭学です」
「蘭学じゃと? ほほう、それはなぜだ」
「はい、近年の外国船の動向を見ていると、日本も近い内に外国から接触があるでしょう。そうなればこの国には動乱が訪れるに違いありません。これに備えて、西洋の文化や文明を学んでおく必要があると存じます」
「なんと、お主はそこまで見越しておるのか!うむむ、修理。やはり非凡な男よ。やはり、お主をこのままにしておくわけにはいかん。近い内に役職を与えるので藩に戻ってまいれ。蘭学も学ぶがよい」
「殿!何という勿体ないお言葉」
流石の修理も自分を高く評価してくれた主君のこの言葉に感激していた。しばらく問答を続けると、修理は藩に戻ることを了承した。
修理が藩に復帰して間もなく、幸貫は江戸と松代の両拠点の体制を整えるために松代へ一時帰国する決心をした。有能な人材を登用すると共に教育を推進する必要性を感じたからだ。江戸に秋が訪れて木の葉が色づいてきたころ、幸貫は河原や修理、そして供の者を連れて甲州街道を松代へ向かって出発した。
松代までは中山道を使用するのが普通であるが、幸貫が甲州街道を選んだことに河原は少々不安を覚えていた。そしてこの河原の嫌な予感は的中し、甲府に着くや否や供の者たちを松代へと戻らせ、自分は隠居姿になり甲府の街を散策しようと言い出したのだ。これを聞いて河原が呆れる。
「ああ、また殿のいつもの気まぐれが始まったか……」
溜息をつき、隣にいた修理に愚痴る河原。
「はは、面白そうなのでお付き合い致そうではありませんか」
「なんだ、お主も乗り気なのか、好き者だな全く」
と、修理は乗り気であり、着ていた服を脱ぎ浪人姿となっていた。仕方なく河原も服を着替え、旅の町人姿となった。
着替えた三人は甲府の街に出て行った。しかし、甲府はどんよりとした空気であり、人々の顔にはあまり笑顔がない。実際、天保の大飢饉によりそれまで1万4千人いた人口が9千人程度にまで減っていたのだ。その間に人々は多くの知人や友人、家族の葬式を執り行っていた。そんな中で人々の怒りが爆発した結果が天保騒動であった。飢えと哀しみの積み重ねでとても笑顔になる気分になれなかったのだ。しかし、ここ数年は豊作である上に人口が減ったことも重なり食料が街に溢れており、多くの店が営業を行っていた。幸貫たちはそんな甲府の街を観察しながら歩いていると、何と鮨屋を見つけた。
「お、河原。あそこを見てみろ、鮨屋があるぞ」
「殿、ここ甲斐の国ですぞ。鮨屋などあるわけが……? え? す・し、本当に鮨と書いてありますな」
「そのようだぞ、これは予想しなかった」
「ここは海から遠く離れた甲府ですぞ、どうせネタの鮮度も悪く大したものではないでしょう。そうだろ、修理」
「そうだと思いますが、しかし、拙者が江戸にいた時、甲府の鮨は旨いと言う甲州の商人が居ましたが、流石に嘘であろうと思っていましたが、果たしてその甲州の商人は本当のことを言っていたのでしょうか、気になりますな」
「ふふっ、そうかそうか。ではその甲州商人の話が嘘か誠か確かめてみるとするか」
そう言うと幸貫は嬉しそうに鮨屋に入っていった。鮨屋の中には酢の香りが充満しており、板前が大きな声で迎え入れてくれた。鮨屋は繁盛しているようで、多くの客で賑わっており大きな口を開けて鮨を食べていた。その鮨はネタとシャリが大きく、ネタの上には醬油を甘く煮詰めたツメが塗られていた。江戸のように醬油に付けて食べるのではなくそのまま食べることが出来る。
注文して暫くすると各種の握り鮨が出てきたが、その鮨のネタの豊富さに一同は驚いた。鮪を始めとして鯛や鰤などが握られていたのだ。一口食べてみると、一同はさらに驚いた。
「おお、これはネタが新鮮ではないか。それに酢が強いので醤油を付けなくてもツメだけで十分に食べられるぞ」
「うむむむ、仕事がきっちりとなされておりこれは旨い」
「なるほど。確かに旨い。うん、あの甲州人の話も嘘ではなかったようですな」
と各々感動していた。
江戸初期に富士川の水運が開通すると共に各街道も整備されており、周囲を山々で囲まれていた甲府盆地も日本各地と水運と街道で繋がり、交易が盛んになっていた。特に駿河と甲斐を繋ぐ幾つかの街道が整備されて以降、朝に沼津周辺で捕れた魚は翌朝には中道往還を通り甲府の市場に並んでいたのだ。特に中道往還は富士五湖の一つ、精進湖湖畔を通るため標高が高く気温が低いので、生ものの運搬には適した道であった。この中道往還を通って甲府へと運ばれる魚は多種多様であった。
富士川の水運も主要な輸送路であった。甲府盆地には山間から大小さまざまな川が流れ込んでおり、やがて大きに二つの川に収斂する。東の塩山方面から流れてくる笛吹川と南アルプスと八ヶ岳に挟まれて流れてくる釜無川である。この二つの河川が合流する場所には鰍沢、黒沢、青柳と言う三つ河岸があり三河岸と呼ばれていた。この三河岸付近より富士川となり駿河湾に注ぐ。富士川の水運はこれらの河岸から始まっていた。
富士川水運は富士川を船で下る分には楽でいいが、戻ってくる際には踵の部分が無い丸い草鞋を履いた船頭たちが数日かけて縄で船を上流に引っ張っていたため、非常に難儀な仕事であった。しかも、帰りの船にも荷物が満載である。そのため、肩など縄があたるところには分厚いタコが出来ている上、その鍛え抜かれた筋肉があるので歴の長い者はその見た目で富士川の船頭であるとすぐに分かった。水流に逆行して上っていく船たちの終着地は三河岸であり、ここには貴重な塩を始めとして様々な商品が集まっており、その活気は甲府を凌ぐとも言われていた。時に鮪や海豚など大型の海の生き物が丸ごと運ばれることもあり、鰍沢の船着き場付近で解体されていた。このため、鮨に出来るような新鮮な鮪が甲府へと供給されていたのだ。この三河岸の中で特に大きく勢力が強かったのが鰍沢であった。
甲斐国では古くから馬の飼育が盛んであり、馬肉を食べる文化が深く根付いている。そこに海で捕れる鮪や海豚、鯨なども食べるようになったために江戸時代になると多様な食文化が花開いていた。このような環境の変化の中で、江戸から寿司の技術がもたらされると、この技術を取り入れつつ甲府の寿司は独自に発展していた。富士川の水運と街道の整備により甲府盆地には古今東西の品物で溢れていると共に様々な独自の文化が育っており、交易の発展に伴い甲府には裕福な商人が多数生まれていた。
三人は鮨を食べ終えると店を後にして暫くぶらぶらと歩いていた。甲府は今では幕府の直轄地となっており、その支配のための甲府勤番が甲府城に置かれていた。その甲府城の南側を甲州街道が東西に走っており、城の東には甲斐善光寺、北には武田信玄を始めとした武田氏の居館の躑躅ヶ崎館跡地があった。三人はぶらぶらと甲府の街を見物した後、宿に戻った。その後腹が減った幸貫は近所の蕎麦屋で蕎麦でも食べようと店に入った。日が暮れてきたので酒を呑みながら蕎麦を食べていると、幸貫は自分の横の席に座り一人で蕎麦を食べていた人物の袖口に目を留めた。
「ん? あれは……」
その人物の袖口には青い顔料であるベロ藍らしきものが付いていたのだ。ベロ藍は南蛮渡来の最新の青の顔料で、透き通るような鮮やかな青が表現できるとして江戸の浮世絵絵師の間で話題となっていた。絵画に造詣の深い幸貫はついつい気になり隣に座る人物に話しかけると、その人物と意気投合したようで夜遅くまで酒を酌み交わしたのだった。
その後、幸貫たちはしばらく甲府に滞在してある時に御嶽道を通り巨摩渓へ行った。巨摩渓は切り立った岩山が岩肌を露出させて立ち並んでおり、谷間には荒川が流れていた。その岸辺には落葉樹の森が山の奥まで連なっており、荒川の上流には金峰山をご神体とする由緒正しき金櫻神社がある。
秋になり木々の葉が色づき始めると、緑の薄まりに呼応するように赤や黄色が混ざりだす。それまで濃淡鮮暗の緑色を集めて形作られていた景色に一気に別の色が加わりだす。その景色を背景にして、幸貫たちはどこかで出会った三吉を埋葬していた。その墓の前で一同は手を合わせて冥福を祈る。その後、一行は信濃の松代へと帰っていった。
その年が明けた1842年、天保13年に一行は再び甲府へと戻ってきた。その時、甲府では道祖神祭りが盛大に執り行われていた。道祖神祭りでは町ごとに大通りに幕絵を飾る。幸貫はある幕絵の前に佇み、じっと見ていた。
以降、幸貫たちは江戸に戻り老中の仕事に専念すると共に、藩政にも尽力したことだけが書かれており、河原日記は終わっていた。
「……と言う感じですね。」
三峯と矢板は二人で作り出した空想世界から離れて現実世界へと戻ってくる。江戸でのお勤めや甲府滞在の出来事については細かい描写がなされている部分も多いが、三吉を埋葬するまで何があったのかが、なぜか河原日記には全く書かれていなかった。
「うむむ、しかしわからん。三吉を埋葬したと出てきたが、なぜ一国の殿様がわざわざ三吉さんを埋葬するのだ?それにここの日記に出てくる修理とは、もしかして幕末に活躍したあの佐久間象山か?」
「はい……。恐らくは佐久間象山で間違いないでしょう」
「なんという事だ、江戸後期の名君にむしくら日記の河原綱徳、挙句の果てには幕末の有名人の佐久間象山が甲府にいた……。そしてなぜか三人そろって三吉さんを埋葬したと書いているか……。ああ、さっぱりわからん」
頭を掻きむしりながら矢板が話している内に予定の時間が終了したので、二人は教育委員会の建物を出た。その後、遅い昼食にと三峯は矢板と共に近くの蕎麦屋で長野の名物の戸隠蕎麦を啜った。蕎麦を食べながら三峯が口を開いた。
「矢板さん、この日記も矢板日記と同様に核心を避けているように感じませんか?」
「三峯君。実は私もそう感じていたのだよ。そうとでも考えないと理解できんぞ。それに甲府の道祖神祭りとは何だろう。聞いたことが無いな」
「道祖神祭りは確か、明治の初めまで甲府で行われていた祭りです。道沿いに幕絵を飾ると言う豪勢な祭りだったような?」
「甲府でそんな祭りがあったのか。しかし、今回の河原日記で新しい情報が出てきたぞ。この情報と照らし合わせながら再度矢板日記を読んでみるのはどうかね」
「あ、はい! 是非もう一度読んでみたいですね」
「おお、そうと決まったら蕎麦を食べた後、私の家へ行こう」
「ありがとうございます、矢板さん。お邪魔させて頂きます!」
二人は俄然興味が出てきて急いで蕎麦を食べ終えるとそそくさと店を出てそれぞれ車に乗り、長野自動車道を通り矢板の家を目指した。長野市から矢板の家までは高速道路を使えば30分ほどであった。逸る気持ちを抑えつつ、二人矢板家を目指す。
河原日記の出現で途端に複数の点が登場した。果たして真田幸貫や佐久間象山、そして矢板善昌に三吉は甲府で出会っていたのであろうか?そして真田幸貫は道祖神祭りで一体何を見たのか?三峯と矢板と言う当事者の子孫たちの手により、江戸時代の隠された物語が明らかにされつつあったのだ。