魔王の城5
「え、どうしたのそれ」
毛布に全身を包まるようにして現れたリオは、フィランダーを見るなり目を丸くした。
フィランダーはベッドに横になったまま、窓の外を見やる。ろくに眠った気もしないのだが、いつの間にか薄日が差し込んでいた。日中だろうと暗い城だが、しばらく暮らしているうちに、夜と朝の違いくらいはさすがに分かるようになった。
「リオのその格好も何事だ? 寒いのか?」
「ううん。めっちゃ温かい。温かすぎてこんなに気持ちのいい朝は初めて!と思って、思わず感動を伝えにきたんだけど」
「そりゃ良かったな」
起き上がってベッドの上であぐらをかいてから、フィランダーはあくびをした。
昨夜はリオが寝た後に、棺桶に毛布を突っ込んでやっていたから、その感動をということなのだろう。ただ寝床に布団がかかっているだけで、感極まっている哀れな魔王に同情しつつ、彼の視線に気づいてフィランダーは自身の首を手をやった。
「俺は久しぶりに睡眠不足だよ」
「傷は首だけ? 大丈夫?」
リオは毛布を置いてからすぐそばまでくると、フィランダーの手をどかせてから傷口を見る。
「問題ない。大した傷でもないし、血も止まってる」
琥珀に切られた傷は、剣が掠っただけといえば掠っただけなのだが、首なのでそれなりに痛い。大きな血管は切っていないが、そこそこ血も流れているのだ。応急処置をするための布など当然持ち合わせてはおらず、寝る前にベッドにかかっていたシーツを適当に切って、手で押さえて止血していた。改めて見ると、シーツは乱れているし、服もベッドも血に濡れている。さすがの魔王でも、何事かとは思ったに違いない。
「黒曜と喧嘩でもしたの?」
「琥珀だ。別に喧嘩をしたわけではないと思うが」
フィランダーの言葉に、リオはなんとも言えない顔をした。彼はフィランダーの怪我を治すようにと琥珀に命じたらしいが、襲うなとは命じなかったのか、それとも命じられるものでもないのか。
「尋問でもされた?」
「そんな無駄なことするやつじゃないって、リオも言ってただろう。単にあれは、聞きたいことを聞きにきただけだよ」
フィランダーが答えようと答えまいと、琥珀にとってはさほど大きな問題ではない気がした。フィランダーなどいつでも丸呑みに出来るのだろうし、生かされているというよりは、殺すまでもないというだけではないだろうか。
「答えてあげたの?」
「ああ。俺にとっては曰くのある剣でもないからな。知人からもらっただけの、ただの古い剣だよ」
「琥珀はなんて?」
「ふうん、て」
「目に浮かぶな」
軽く笑ったリオに、フィランダーは首を傾げる。
「この城から持ち出された剣だって言ってたが、なんかやばい剣なのか?」
「さあ? 剣から炎が出たりとか、悪霊を斬れるとか使えば呪われるとか、そんな話は聞いたことはないけど」
「俺がここに来たのはこの剣が城に戻りたかったからだと言ってたが」
「そうなの? それはまた、はた迷惑な剣だね」
「俺は別に剣に引きずられて来たつもりはないけどな」
そう言って、ベッドの上に置いたままだった剣を握る。改めて持ってみても、特に変わったところのない剣だ。外では光の加減で赤くも見えたが、城の中だとそもそも灯りが赤みがかっていてよく分からない。
フィランダーが剣を持っても、リオが警戒することはない。この距離であれば琥珀が止めるまでもなく、魔王を倒すことができるのだが、そんなつもりもないことはわかっているのだろう。
「琥珀に命じて俺の怪我を治させたのはリオか?」
「琥珀にそう聞いた?」
「そんなとこだな。違うのか?」
「いや、違わないけど」
「なんで助けた?」
「放っといたらすぐ死んじゃいそうだったからね。聞きたいことがあるなら治したほうがいいんじゃないって言っただけ。余計なお世話だった?」
「いや。助けてくれたことは感謝してるよ」
言いながら、フィランダーは首を傾げる。リオの言葉からすると、琥珀に助言をしたんだという雰囲気だが、琥珀の言葉からは、もう少し強制力があるように聞こえた。
「魔王には魔獣を従えるような力があるのか?」
「あれば黒曜に襲われないんだけどね。何回か死にかけた状態で城に転送されて、琥珀に治してもらったことがある」
眠れば城に戻れる魔王は、何かしら意識を失っても城に転送されるのか。即死させない限りは、城にいる琥珀が治癒してくれるということだろう。本人にとってはそれなりに大事件のはずだが、リオは苦笑するようにしているだけだ。だが、フィランダーの質問の意図は理解しているらしく、すぐに言葉を足してくる。
「そういう意味だと琥珀だけは、魔王を守るように出来てるみたいだね。命令もね、俺が目の前で頼めば逆らえないみたい」
「目の前で?」
「そう。意外と難しいんだよね、目の前って。なかなか琥珀は姿を見せないし、話してる途中でもふらっと消えちゃう。例えば、フィランダーをここから出してやってくれと頼もうにも、いつ現れるか分からないしね。魔獣たちは俺たちよりずっと長く生きてる。俺らの一年も、もしかしたら彼女たちにとっては数日くらいの気分なんじゃないかな」
なるほど、とフィランダーは納得する。フィランダーをこの城に閉じ込めてから、琥珀はしばらく姿を見せなかった。どういうつもりだろうと思っていたが、彼女とは時間の感覚が違うのだろう。
「別にリオから琥珀に、俺のことを助けろなんて言ってもらう必要はないよ」
「余計なお世話?」
「いや。自分で飛び込んできたんだ。自業自得なのは明らかだし、そこまで困ってもいない。自分でなんとかしよう」
それは本音ではあるし、リオのことを考えてのところも少しはある。
実際のところ、リオと琥珀の関係は良く分からない。もし琥珀が魔王の命令を無視できないのだとしても、リオがそれを軽々しく頼むことは、琥珀にとっては気に入らないことではないのだろうか。フィランダーを助けるためなんかで、リオが琥珀に煙たがられるのは避けたいと思ったのだ。
琥珀だけは魔王のことを守るように出来ている、と彼は言った。それが琥珀の本意であるにせよないにせよ、魔王を守るのが琥珀だけなのだとしたら、リオが頼れるのは琥珀だけに違いない。
「さすがだね、フィランダー。俺はこの城に来た時から、困ったことしかなかったけど」
「リオがここに来たのは何年前だ?」
「五年くらい前かな」
「十三かそこらでいきなり魔王だって言われて連れて来られて、困らない人間なんていねえよ」
「嬉しいな、同情してくれる?」
そう言って、リオはうんうんと頷くような仕草をする。
「そうだよね。俺も別に普通だと思ってるんだけど、ここだと俺が弱すぎるせいだって怒られるだけだからね。クズとか虫とか言われるのにも慣れたけど」
「そういや、クズ虫って呼ばれてたな」
「力を持ってた頃の魔王は、隣の街まで一日で焼き尽くしたらしいからね。そこと比べると虫以下だろって」
「そこと比べられれば、俺らは揃ってクズ虫だな」
魔王であるリオには本来、それくらいの力が備わってもいいということなのだろう。だが、それが与えられなかったのはリオのせいではないだろうし、弱すぎると言われても困る。こんな城で一人で逞しく生きているだけでも、リオは普通の人間よりは強いに違いないのだ。
フィランダーは立ち上がってから、自分の服を見下ろす。血で汚れていて着替えたいところだが、この城に服などない。もともと着ていた服は魔獣たちにやられた時にずたぼろになっているし、リオの服は小さすぎる。今着ている服は、フィランダーが寝込んでいる間に、リオがわざわざ近くの村で調達してくれたものらしい。
「服を買ってこようか」
「別にいい。洗って乾かしとくよ」
別にフィランダーが裸でいても誰も気にするまい。そう思って廊下に出ると、何となく昨日までと景色が変わっている気がした。何がというわけではないのだが、なんとなく違和感を覚えて窓に触れる。
窓枠にはまっているガラスがかすかに揺れて、フィランダーは眉を上げる。持っていた剣を窓に叩きつけると、大きな音を立ててガラスが砕けた。
「え、なになに? どうしたの?」
いきなりのことに驚いた様子のリオに謝ってから、フィランダーは窓の外に手を伸ばす。さらりと風が手のひらを撫でて、ふっと息を吐く。
「昨日までは思いきりやってもヒビすら入らなかったんだけどな」
「言ってたね」
頷いたリオがその意味を分かっているのかいないのか。フィランダーが大階段に向かうと、昨日までは見えていなかった玄関が見えた。リオがここから出て行く時も、フィランダーには急に消えたようにしか見えていなかったのだ。
「ここから出られそう?」
玄関を見つめているフィランダーに気づいたのか、リオが隣に並んで首を傾げる。
「出たら黒曜やあの白い獣に襲われるんじゃないのか?」
「ううん。出て行く時には襲ってこないはずだよ。彼らは城に入ろうとする人間しか襲わない」
リオはそう言ってから、フィランダーを見上げる。
「良かったね、出られて」
「出て良いのか?」
「琥珀と話したんでしょう? それで閉じ込めておく必要はなくなったってことじゃないかな。怪我もそれ以上は治すつもりはないみたいだしね。ここには着替えの服もないし」
一番ひどかった左肩の怪我はまだ痛みはするが、動けないほどではない。それで魔獣も襲ってこないということであれば、一人で出て行くことは可能だろう。あの崖を登るのは大変そうだが、リオは誰でも登れるような道を準備していると言っていた。ぐるりと一周まわれば見つかるはずだ。
「村までは俺が案内するよ。降りてきた時よりは楽に登れるはずだ」
そう言ってすぐに準備を始めたリオを見て、フィランダーは「ああ」と頷いた。
さっさと追い出したいと思っているのだろうか。最初からこの城を出て行くための協力ならすると言っていた。色々と内情を知ったフィランダーを外に出すのは危険じゃないかという気はするのだが、リオがそうしたところを考えているようには見えない。
一人でこの城にリオを残していって良いのだろうか、とは思っているのだが、それこそ余計なお世話なのだろうか。フィランダーはここから出られるかもしれないが、リオがここから出られることはないのだろう。話し相手がいるのは嬉しいと言っていたし、眠った彼に毛布をかけてやれるのはフィランダーだけなのだと思うのだが、彼がそうした別れを惜しんでいる様子もない。
リオはすぐに外出する準備をしたようだし、フィランダーの方にはそもそも準備など何もない。ぼろぼろの外套を羽織るだけだ。
「出て良いのか?」
屋敷を出る前にもう一度、聞いた。先ほどは琥珀が閉じ込めておく必要がなくなったからいいんじゃないかと言った彼も、今回は自分に向けられた言葉だと分かっているのだろう。にっこりと笑う。
「ここは何があるか分からないからね。出られる時に出た方がいいと思うよ。近くの町にはちょくちょく出入りしてるから、気が向いたら遊びにきてよ」
あっさりとした言葉ではあったが、フィランダーのことを心配してくれているということだろうか。
フィランダーは屋敷の外に出てから、リオの案内で崖を登る。上から崖の下を覗いてみても、魔王の城も何も見えない。奈落とも大穴とも言われるそこは、ただ深い闇が広がっているだけだ。