魔王退治3
「はっ……」
建物の中に入り、なんとか扉を閉める。
その反動だけで倒れ込みそうになりながらも、城の中を見やる。等間隔に燭台が並ぶ廊下は、眩暈がするほどに長い。光取りの窓はいくつもある。普通の獣なら扉からは入れないだろうが、あの白い魔獣ならガラスくらいぶち破って襲ってくるかもしれない。
フィランダーは壁に手をつきながら、なんとか歩みを進める。
全身の痛みは耐えられないほどではないが、血が流れ過ぎているのだろう。意識の方が先に吹っ飛びそうで、自分はこのまま死ぬのだろうな、と頭のどこか隅の方で考える。
魔獣は四匹から増えることはなかったが、流石に一人で相手をするには多すぎた。一匹は倒して、もう一匹も深い怪我は負わせたが、残り二匹はほぼ無傷のはずだ。それに引き換え、フィランダーは全身が傷だらけだ。中でも左肩はほぼ噛みちぎられていると言っていい。左腕に痛み以外の感覚はなかったし、これだけでも致命傷になりうるだろう。
自分はこんなものか、と小さく呟く。
このまま倒れ込んで意識を失ってしまえば楽なのだろう。そんな甘美な誘惑に駆られるが、どうせ死ぬのならもう一歩、と鉛のように重い足を動かし続ける。
はじめから城内に逃げ込むというのは頭にあった。白い獣が何匹かは分からないが、広い場所で戦うより、狭い廊下や階段で戦う方が勝機がある。もしかしたら中に魔王が待ち受けているかもしれないが、その時はその時だ。どうせ死ぬなら、魔王の手先にやられるより魔王にやられる方がいい。
とはいえ、複数に囲まれている状況ではそんな隙などない。そう思っていたが、急に開いたドアが目に入ったのだ。正面の入り口ではなく、使用人が出入りする通用口のような小さな入り口。それはフィランダーから最も近い位置にあった。背を向けて走れば後ろから襲い掛かられて最後かもしれない。そう思いながらも、一か八か試してもいいと思うほどには手詰まりだった。
どうせ死ぬのなら誰かの誘いに乗ってもいいかもしれない、と。最後の力を振り絞って走ってきたのだ。
とても逃げ道とは思えない。城の正面で白い獣と戦っているのは城からは丸見えだっただろう。そんな中で、先ほどまでは確実に閉ざされていたドアがわざわざ開けられたのだ。しかもそれが城内に続くドアなのだとしたら、何者かによってフィランダーが誘い込まれたのだとしか思えない。
「おい、誰かいるのか」
荒い息と共になんとか声を吐き出すが、反応はない。
「くそ」
死ぬぞ、と毒づくが我ながら冗談ではあるまい。足は痺れたようになっていて、歩みを止めればもう二度と動くことはないだろう。目の前は絶えずちかちかと光のようなものがとび、体を動かす激痛が、なんとか吹き飛びそうな意識を繋ぎ止めているだけだ。
廊下を突き当たると、そこは開けた場所だった。エントランスから大きな階段につながっている。正面の入り口に繋がっているのだろう。重い頭をぐらりと揺らして階上を見ると、そこには男が一人立っていた。
「フィランダー」
名前を呼ばれて、フィランダーは目を凝らす。視力が落ちているのか、それともぐらぐらと揺れる視界が邪魔をするのか、男の顔までは判別できない。
「誰だ?」
魔王の城と呼ばれる場所に、魔獣たちに守られて存在している。普通に考えれば彼が魔王か、それとも魔王に与する何者かなのだろうが、見た目には普通の人間にしか見えなかった。彼はフィランダーの問いには答えず、ゆっくりと階段を降りてくる。
「なんで俺の名前を知ってる?」
「はは、魔王は全知全能なんだよ。君の名前を知るくらいは造作もないね」
そう言って近づいてくる男の瞳は赤い。ぞくりとするような赤い瞳に釘付けになりながらも、どこかで聞いた声だと思っていた。冗談めかした軽い口調に、若い男の声。だが記憶を探るよりも、頭はフィランダーに剣を握ることを命じていた。
中肉で中背の若い男。異様な瞳の赤さを除けば、どこにでもいる人間に見える。武器を持っているわけでもなく、フィランダーが一閃すれば簡単に首を刎ねることができそうな、ただの人間だ。
男の動きを慎重に観察する。息遣いから指先の動きまでを注意深く見て、相手が攻撃をしかけてくる瞬間を待つ。だがその瞬間は訪れなかった。代わりにフィランダーの間合いまで男は近づいてくる。左腕は死んでいるが、利き腕はまだ動く。そして剣を握っている。
殺せる。
「あんたが魔王か?」
「そうだね」
男の返答と同時に、フィランダーは剣を振ろうとした。が、右腕はぎゅっと剣を握ったまま動かない。男が何をしたわけでもなく、ただ単純にフィランダーの体が動かなかった。すでにそんな力は残っていなかったのか、それとも殺せなかったのか。自分でもよく分からないまま立ち尽くす。
「なるほど」
そんなフィランダーを見て、男は赤い瞳を細める。それは笑っているようにも悲しんでいるようにも見える複雑な表情で、どきりとした。魔王だと彼は言ったが、そんな顔はあまりにも人間くさい。
「フィランダーは自殺志願だったんだね」
は、と息が漏れる。
同時に緊張の糸が切れたのか、それとも単なる時間切れか、片膝が落ちる。一度、体が床についてしまうともうダメだった。体を支えられずに、床に崩れ落ちる。血液と共に体の温度が流れ出しているのだろう。冷たい床に体が溶けていく感覚を味わいながらも、ようやく声の主を思い出していた。
「……リオか?」
魔王退治かと言って声をかけてきた男だ。室内でもゴーグルで目を隠していたのは、赤い瞳を隠すためか。観光客なら城まで案内すると言っていたが、魔王が道案内とはどんな冗談なのだろう。
「名前覚えててくれたんだ。嬉しいな」
「魔王退治の輩を、道中で暗殺でもしてるのか?」
「まさか。ちゃんと城付近を案内してから無事に帰してるよ。うまいこと仲間を集って戻ってきてもらえれば、そのぶん儲かるしね」
何が本当で何が冗談なのだろう。どうせ死ぬなら魔王の顔でも拝んでやろうと思っていたが、想像していたのとはだいぶ違う。視線を上げることすら億劫に感じて、床を見つめたままフィランダーは笑った。彼もきっと笑っているような気がした。それが魔王の不敵な笑みなのか、冗談を言った男の悪戯っぽい笑みなのかは知らない。
「お前を殺せば、本当に世界に光が戻るのか……?」
「そういうことになってるね。魔王を倒してもう一度、青い空を見たかった?」
そんな魔王の言葉に、ふっと息を吐く。
六年前に魔王が討伐されて訪れた光の世界に、人々は心を躍らせたし、フィランダーも美しい世界に酔ったのは確かだった。灰色に閉じていた空が青く輝き、目が眩むような色彩を見せた世界。
だがその分、自らの醜悪さを突きつけられているようでもあった。美しい世界に焦がれはするが、フィランダーはそこに似つかわしくない。
問いには答えないまま、フィランダーは小さく言った。
「弔いはいらないよ。金品は勝手に回収すればいい」
「まあ、そうだね」
リオは軽くそう言ってから「コハク」と言った。
意味のわからない単語にフィランダーがわずかに目を開けると、白い床から何か大きなものがにゅうっと現れた。何もない場所から山のように膨らんだのは、鱗を纏った何か。細い目のようなものにぎょろりと睨まれて初めて、それが巨大すぎる蛇だと気づく。フィランダーは思わずリオを見上げた。
彼は何とも言えない表情でフィランダーを見下ろしていた。その背後には、ぱっくりと開いた大きな口。リオなど簡単に丸呑みできるサイズだ。
——いや、喰われるのは俺か。
大きな口がフィランダーの体に覆い被さってくる。黒くて先の見えないそれは、まるで冥界に繋がる入り口だ。
そう考えて、少しだけ笑った。
これまでさんざん人を殺してきたフィランダーが地獄に落ちることは確定だ。魔王の使役した魔獣に丸呑みにされて、冥府へと堕とされるのであれば、これ以上ないほど自分にぴったりの死に様ではないだろうか。
死ににきたつもりはなかったが、帰る場所があったわけでもない。自分は死に場所を探していたのかもしれない。
自殺志願と言ったリオの言葉は案外、的をついていたのだろう。そんなことを考えながら、フィランダーは目を閉じた。