魔王退治2
正面から飛びかかってくる相手をぎりぎりでかわす。
巨体にも関わらず普通の獣と変わらないほどの俊敏さだ。避けた隙に何度か体の側面に剣を叩きこんだが、分厚い毛と硬い皮膚に守られていて、さほどの手応えもない。逆に素早く反転した魔獣が大きく前足をふると、大きな鉤爪がフィランダーの腕を掻いて、微かな痛みが走った。
「強いじゃないか」
まともにくらえば、先ほどのように簡単に吹っ飛ばされるのだろう。それ以上に、鋭い爪にかかれば致命傷だし、大きな牙にかかればそのまま頭から喰われるはずだ。そして真正面から剣を叩き込もうとしても、相手は怯まず突進してくる。硬さと体格差を考えると一撃で仕留めるのは難しいし、仕留められなければその勢いのまま地面に押し倒され、やはり喰われて終わりだ。
先ほどのように大口を開けて咆哮してくれれば、顎内に剣をぶち込むのだが、相手もそれを警戒しているのかもしれない。魔獣は牙は見せても、大口を開けて襲ってきたりはしない。
ならば、と。
突き刺すための重さを乗せた一撃ではなく、軽く速い一閃で魔獣の目を狙う。相手もそれに気づいたのか、赤い燃えるような瞳がわずかに大きくなった。だが。
「ちっ」
逆に額を突き出すようにして受けられる。逃げるように仰け反れば、続けざまに鼻先を狙う予定だったが、剣先は硬い額に弾かれるようにして逸らされる。そしてそのまま頭突きのような形で突っ込んでくる相手に、フィランダーは咄嗟に後ろに飛んだ。
だが相手の方が速い。全身を砕くような衝撃に思わず息が漏れるが、それでも自ら後ろに飛んだことで多少の力は流せたのだろう。吹っ飛ばされたものの、なんとか姿勢を崩さず着地ができる。
フィランダーはさらに大きく後ろに飛んだ。ぎらりと魔獣の赤い目が光って、追撃するように飛びかかってくる。フィランダーは着地してすぐに姿勢を低くして相手の懐に潜り込んだ。そのまま喉元に向かって思いきり剣を突き刺す。先ほどよりも深く押し込むと、魔獣の体が苦悶するように暴れた。
初手では剣を抜く前提で刺したが、今回は剣を抜くことは考えていない。剣を捨てて素早く魔獣の元から抜け出すと、腰に刺していたもう一本の剣を抜いた。
高く飛び、体重をかけた一撃をお見舞いする。だが。
「——あ?」
魔獣の頭に突き立てようとした剣が、するりと宙を切った。全力で仕掛けていたため、剣先は地面にぶつかりフィランダーは妙な姿勢で着地する。
「消えた?」
巨大な真黒い体が完全に消えている。
一瞬たりとも目を逸らしてはいないはずだ。剣が刺さる直前に忽然とその存在が消え失せた。慌てて周囲を見回してみるが、どこかに潜んでいるような気配はない。地面にあるのは争った跡と、フィランダーが魔獣の喉元に突き刺した剣のみ。
「死んだ、って感じじゃないが」
流れる血で見えづらかった片目を袖口で拭ってから、地面に転がっている剣を拾い上げる。フィランダーの血は袖口を汚したが、魔獣を刺した剣は綺麗なものだ。
初手から気づいてはいたが、生き物を刺したにしては一滴の血もついていない。刺した時にはそれなりの感触もあったし、相手もダメージを受けた気配はあったが、それでもやはり普通の生物を貫いた時とは全く違う手応えだった。
「魔獣か」
魔王の城を守っているという生き物だ。神出鬼没であったり、不死身であったりしても特に驚きはない。むしろ完全に傷もつけられない亡霊のような代物だと手も足も出ないが、今のところ剣で攻撃すれば効くというのは悪くない情報だ。
もともと光の勇者なる人物は、一人で魔王を倒したと言われている。それがどんな傑物かはフィランダーは知らないが、それが同じ人間であるのなら、魔獣も魔王も人間が倒すことができる存在なのだろう。
フィランダーは二本の剣を腰に戻し、荷物を拾うために元の場所まで戻る。落とした松明は地面で燻っているようだった。乾燥した地面でないため、燃え広がるようなことはなかったのだろう。
荷物を拾って顔を上げた瞬間、思わず「は?」と間抜けな声をあげていた。先ほどとは全く違う景色が眼前に飛び込んでくる。
いくつもの赤い炎がゆらめく。
城壁につけられた篝火の赤が、大きな城の輪郭を浮き上がらせていた。ぐるりと立派な石壁が囲む城壁に、固く閉ざされる鉄の門扉。その向こうには石造りの高い尖塔がいくつも並ぶ。
「これが魔王の城か」
赤の炎に照らされる城は、現実感はないのに虚構にも見えない、異様な存在感がある。壮大かつ荘厳で観るものを圧倒する建造物。それは都で見る国王の住む城にそっくりだった。豪華絢爛さはないが、代わりに禍々しさがある。
ひんやりとする空気感に、ざわっと鳥肌がたった。
空虚な静寂に満ちた、廃墟のような城。誰かが住んでいるような気配はない。だが荒廃した雰囲気はなく、すぐにでも何ものか——魔王の手先の兵士たちでも飛び出してきそうな、そんな緊張感もある。
「常闇の魔王なんて、単なる御伽話かと思ってたが」
実際にはおとぎ話というほどにあやふやなものではなく、国が定期的に調査に乗り出しているような城だ。魔王の城に行ったという人間はいるし、魔王がこの国から光を奪っているなんて話も、ある程度の年齢なら誰でも身をもって体験している。
だが、それでも眉唾ではないかと思っている部分もあったのだ。適当な廃墟を魔王の城と呼んでいるだけで、魔獣なんてものも誰かが何かを見間違えただけかもしれないと思っていた。遠くまで足を運んでも徒労に終わるのではないかと思っていたが、目の前に広がる光景は本物だ。
全身の痛みが引いていく感じがして、フィランダーは笑った。魔王の城を目の前にして、感じるのは恐怖でなく高揚感だ。
「さすがに門は開けてくれないだろうな」
遠目で正面の鉄扉をうかがうが、門番が立っているような気配もない。もしかしたら鍵などかかっていない可能性もあるが、重そうな門扉を開けるだけで一苦労だし、何より目立つ。大軍で攻め入るならともかく、一人で正面突破する必要などどこにもないだろう。
城の正面に続く道は避けて、木々の中を迂回するように近づいた。最大限に警戒しながら進んだが、特に何者の襲撃もないまま城壁の下まで辿り着く。
ぐるりとあたりを見回してから、近くの石壁に触れた。城壁には等間隔で篝火が灯されており、暗闇による死角はないように見える。フィランダーの身長よりも遥かに高い壁だが、積まれた石のわずかな突起や隙間はある。それを足がかりに登れないことはないだろう。下から魔獣に襲われたら逃げられないだろうが、その時はその時だ。
なんとか壁をよじ登り、一番上まで身を運んだ。城壁の上に立って壁内を見下ろそうとした瞬間、何かを感じて剣を抜いていた。
ガラ、っと何かが城壁から崩れる音がして、さっと視線を向ける。白い獣が猛スピードで城壁の上を走ってきていた。
はっと息を吸う暇しかない。大きくジャンプして飛びかかってきた相手に合わせて、フィランダーは剣を振った。先ほどの黒い魔獣であれば剣を受けたままフィランダーを押し潰そうとしたかもしれないが、こちらの白い獣は空中で体を捻って交わした。
猫のような動きだ。空中でバランスを崩しながらも、危なげなく狭い城壁に着地する。そしてトン、と前脚を触れさせると、間髪入れずにバネのように跳んだ。そのままフィランダーに飛びかかってくる。喉元にくらいつこうと大きく開けた口元に剣を突き刺そうとするが、ひらりと避けられる。
こちらは先ほどの黒い魔獣と違って、普通の獣と変わらないサイズしかない。力は劣るだろうが、代わりに随分と身が軽い。素早い白い獣の動きに合わせて、牽制するように剣を振りながら、どうでもいいことを口にする。
「こっちが虎か!」
魔王の城を守る魔獣は、狼にも虎にも似ていると言われていた。狼と虎なんて全く違う獣に似ているなんて魔獣はどんな姿なのだろうと思っていたが、狼に似た黒いのと、虎に似た白いのが、それぞれいたというだけなのだろう。
「だが、さっきのヤツよりだいぶマシだ」
自分より何倍も大きく硬い狼は剣での攻略に苦労したが、目の前の獣は速いだけだ。本物の野生の獣と大差ない。すべての刃を避けているが、逆に言えば一撃でも入れられれば勝てるのだろう。速い動きにもだいぶ目と体が慣れてきた。
ぎらりと白い獣の目が光る。
先ほどの黒い魔獣とは違い、冴え冴えとした青の瞳をしている。その瞳の色の美しさと異様さに、フィランダーは何故だかぞくりとした。
瞬間、背後で音がした。
敵がいる。足場が微かに鳴った程度の音でしかないが、フィランダーの勘なのか経験なのかはそこにいる何者かの存在を感じて全身に警戒を促す。だが、だからと言って目の前の獣から目を逸らすこともできない。背後を振り返った瞬間、襲いかかってくるに違いない。
迷ったのは一瞬だった。フィランダーは前でも後ろでもなく、真横に飛んだ。
高い城壁から城の方へ向かって飛び降りる。意外と長い浮遊感を経て、地面に着地する。さっと上を見ると、飛び降りる二つの白い姿が見えて舌打ちをした。すぐさま走り出し、そしてすぐに振り返る。どう考えても足は相手の方が速い。後ろから飛びかかられては勝ち目はない。
「二対一で勝ち目があるかもわからないけどな」
向かい合った白い獣は二匹。大きさも見た目も全く同じに見える。同じような青い瞳で、威嚇するようにフィランダーを睨みつけている。
二匹に対して剣を構えながらも、城の方へじりじりと近づいていく。だが、しばらく二匹は動かなかった。飛びかかるタイミングを見計らっているのだろうか、と思っていると、またしても背後から音がする。先ほどと全く同じ気配を感じて、背筋がすっと冷える。
同時に、フィランダーは笑いたくなった。
「あんたら何匹いるんだよ」
振り返らなくても気配でわかる。一対一でも苦戦する獣が全部で四匹。だが、それで打ち止めとも限らない。
「永久に増えるのかよ? こっちは一人しかいないってのに」
はっと笑ってから、フィランダーは剣を構える。どうせ囲まれているのなら、どこを狙っても一緒だ。なるべくなら城に近づく方向へと考えながら、目の前の獣に向かって自らかかっていった。