魔王退治1
「観光客? それとも魔王退治かな」
そう言った男の口調は軽く、冗談のつもりなのか、この村では日常の会話なのかわからなかった。
上着を脱いで無造作に机の上に置いた男は、店主と顔見知りの様子で、何も注文せず席に座る。店主を除けば、狭い店内には他に誰もいない。初対面で気軽に話しかけられることは珍しいのだが、彼の言葉はフィランダーに向けられたものだろう。
「ここに来る人間はその二択しかいないのか?」
「他にいるとすれば自殺志願かな。旅人がついでに立ち寄るには辺鄙な場所だし、商人はたいてい顔見知りだ」
その言葉で、男がここの人間なのだろうと分かった。フィランダーが入ったときには食事と宿泊の要否を聞いた店主は、男には何も言わずにグラスを差し出している。
「ありがと」
受け取った男の声は若い。上着は脱いだくせに、砂塵避けのゴーグルを外す気はないのか、彼は目を隠したまま飲み物を口にする。顔の半分は隠れていてよくは分からないが、フィランダーよりまだ若いだろう。少年という歳ではなくとも、十代ではないだろうか。
「リオだ」
彼は短く口を開いた。フィランダーが怪訝そうな顔をすると、口元だけで笑って見せる。
「俺の名前。君は?」
「フィランダー」
「いい名前だね」
「それはどうも」
薄暗い室内と瞳が見えないことで表情が掴みづらい。名前なんかを聞いてどうするのかと思っていると、彼は席を立ってフィランダーのすぐ横に座った。馴れ馴れしく肩を叩かれる。
「フィランダー、観光なら案内しようか。上から城壁が見える場所がある。もっと近くで見たいなら、特別に底まで降りられる道を案内してもいいよ」
「俺が特別に金を持ったカモに見えるか?」
「君なら簡単に降りられそうだと思っただけだよ。道と言ってもそれなりに危険だからね。うっかり谷底に落っこちそうな観光客を誘うのは、さすがに心が痛い」
机に乗せた腕には適度に筋肉がついている。小柄であることもあり、身は軽いのだろう。多少の崖くらいなら降りられるように見えるし、フィランダーもその程度には見えたということか。もしくは誰にでも特別と言って誘っているのかもしれない。
「よく降りるのか?」
「たまに死体と一緒に金や武器が転がってることもあるからね。弔いついでに回収することもある」
軽い口調でそんなことを言ったリオを、フィランダーはふんと鼻で笑った。
都から離れ、鬱蒼とした木々に囲まれた田舎の村だ。農作物を育てるにも適さないように見えるのだが、生活に困っているようには見えない。魔王の城を目当てにやってくる観光客や冒険者たちが落としていく宿泊費や道案内などで潤っているのだろう。そして谷底に文字通り落としていく金品も盗人よろしく回収しているのだ。普通なら都や町に働きに出るリオのような若者が、小さな村に留まっているのも頷ける。
「金の回収ついでに墓でも作ってくれるのか?」
「どっちがついででもいいけどね」
馬鹿にしたようなフィランダーの反応にも気を悪くした様子もなく、リオは肩をすくめる。
「死体になりたくなければ、観光して帰るのがおすすめだよ。常闇の魔王に挑んで生きて戻った人間は、伝説の光の勇者だけだ——なんて、言われてるとかいないとか」
「都には武勇伝を語ってる自称勇者がたくさんいるが」
「それは魔王に挑んだんじゃなく、魔獣に驚いて帰っただけの観光客だと思うな。魔王を倒せなかった自称勇者が、勇者を騙ると思う?」
リオの言葉に、フィランダーは僅かに眉を上げる。
魔王の城には大きな魔獣が住むと言われている。虎にも狼にも似ていると言われる、身長を遥かに超える大きな獣。城門を守って侵入者を撃退する役目を担っているらしい。たしかに語られる冒険譚は魔獣相手にどう立ち向かったかであり、その奥にいる魔王については姿かたちも何も語られない。門番である魔獣に追い払われて逃げるのがせいぜいだったということだろう。
「で、フィランダーは観光客? それとも自称勇者?」
「魔王退治と自殺志願が消えたな」
「どれも自称勇者とあんまり変わんないと思うけど」
そんなことを言われて、フィランダーは軽く笑った。本当に魔王を倒すべく立ち上がった、崇高な信念を持つ自称勇者が聞けば憤慨するのではないかと思うが、確かに似たようなものには聞こえる。
「ま、観光客には見えないけどね」
彼はフィランダーの頭から足までを眺めるように頭を動かす。座っていてもフィランダーの方が大きいのは分かるだろうし、そばには大きな剣を置いている。強面ではないらしいが、善良な市民に見えないことも自覚している。フィランダーを知っている人にも、初対面の人間にも、遠巻きにされることが多いのだ。視線を逸らされることの方が多かったため、正面からこれほど不躾な視線を向けられるのも珍しいのだが、それはゴーグル越しである故か、単に怖いもの知らずなだけか。仮にも魔王のお膝元で下衆な商売をしている男だ。物おじなどしないのかもしれない。
「見た目も名前も格好いいし、まさかフィランダーは百年に一度現れるという、光の勇者さまの生まれ変わりだったりする?」
「そうやって自称勇者を適当に持ち上げて、金を巻き上げるのがあんたのやり方か?」
そんな伝説は聞いたことがないし、そもそも光の勇者が現れたのは数年前だ。白けた視線を送ってみたが、彼は楽しそうに口の端を上げただけだった。
「自分で言うのもなんだけど、馬鹿にしてんのか、って怒られることの方が多いかな。と言っても、崖を降りる道を案内してるのは俺だけだ。案内が必要な他所者にとっては、背に腹は変えられないってことじゃない?」
ふうん、とフィランダーは気のない返事をする。
わざわざ自分だけだとアピールするのだから、フィランダーに声をかけたのも金が目当てだということだろう。いくらふっかけてくるつもりかは知らないが、駆け引きをするつもりもない。
「案内は必要ない。谷の一番底だと聞いてる。どの道を選ぼうと、くだっていけば城に着くんだろ」
道中で楽ができるのなら、道案内を頼むのも悪くはない。別に端金を惜しむ気はないが、初対面で気安く声をかけてくる人間を信用できる気はしない。相手からすると人気のない場所で谷底に突き落として身ぐるみを剥がす方が楽ではないかと思えば、崖を降りながらそんな警戒に余計な神経を使うのも馬鹿らしい。
こちら思考を知ってか知らずか、リオは笑った。
「それはそうだね。落ちるか降りるかの差はあるけど、崖を下ればいいのは間違いない」
「落ちて死体になったら金は勝手に回収してくれ。弔いはいらないよ」
断るつもりでひらひらと手を振ると、彼はあっさりと引きさがった。「そうならないことを祈ってるよ」なんて白々しい言葉を口にしたリオから視線を外すと、彼は立ち上がって元の席へと戻っていく。
「気が向いたら声かけてよ、フィランダー。朝にはいなくなってると思うけど、夜まではこの辺にいるから」
振り返りもしなかったが、相手も期待はしていないだろう。なんならあくび混じりの言葉にも聞こえたから、惰性で言っただけのお決まりの台詞なのかもしれない。夜までいると言っていた彼だが、以降の時間に村で姿を見かけはしなかった。
***
ふう、と息を吐いてからフィランダーは上を見上げる。
「どうやって登るんだろうな」
首が痛くなるほどの直角な崖と、その上に見える白い太陽。崖を降りるのは思った以上に大変だった。ぐるっと回れば木などがありそうで、縄などを結んで降りられそうには見えたが、何時間もかけて回り込むのは面倒くさい。そんな時間をかけるより降りられる崖を探して降りた方が速くて楽だと思ったが、速くても楽ではなかっただろう。多少の高さなら落ちたところで怪我をしない自信はあったが、それでも怪我をしなかったのは運が良かったと思ってしまった道程だった。
少なくとも降りた場所から登ることは不可能そうだが、村人が行き来をしているのなら、どこかから登れはするのだろう。
谷底は光が届かないのか、空を仰げば日の光は見えるものの、あたりは薄暗い。木々の茂みが作る影も徐々に濃くなっていき、坂を下るほどに暗さが増していく。振り返るとかろうじて通ってきた道が見えるものの、進む先には一点の光も見えなかった。仕方なく立ち止まり、荷の中から道具を取り出して火を灯す。
「は?」
思わず目を丸くする。
灯りとともに、眼前に大きな闇が現れた。ぽかんと見上げると、ぎらりと光る二つの目玉。それが自分の倍ほどの大きさを持った生き物だと気づいた瞬間、フィランダーは腰から下げた剣を抜いていた。考えるよりも先に体がその懐に飛び込んでいる。
もともと覆い被されるほどに接近されていたから、一歩で十分だった。手にした剣をその体に捩じ込む。
感触はあった。通常であれば仕留めたと思う深さまで剣は刺さっている。
ガアアアアアアア——ッ
獣から衝撃波のような大きな咆哮が発された。両耳が効かなくなり、平衡感覚すら失わせた轟音に、フィランダーは思わず体を固める。断末魔の叫びではないだろう。怒りの咆哮か、それともこちらを怯ませる目的か。
予想どおり次の衝撃がやってくる。
何をされたのか、フィランダーの体は弾き飛ばされ近くの木に激突していた。身構えていたものの、受けきれない衝撃と痛みに、息が漏れる。だが、目を開けると黒い塊が襲いかかってくるのが見えて、ばっと飛び退った。
木の裏側に回り込む。それから木々の間をすり抜けるように走るが、視界もろくにきかない暗闇で、頭や手足に枝がぶち当たる。切れた額から血が流れる感触に舌打ちをしながら、ちらりと振り返る。未だに耳鳴りがひどく音を拾えないため、相手との距離は目視するしかない。大きな体の獣は追ってこれないのではないかとも思ったが、相手にとっては庭のようなものなのだろう。少し距離をとりながらも、着実に近づいてきている。
向かう先にかすかな明かりが見えた。空から薄い光が差し込むそこだけ、ぽかりと木が生えていない。
開けた土地は相手にとってのアドバンテージか、それとも弱点になるのか。大きな体で戦闘するなら開けた場所の方が良いに違いないが、黒い体を闇に隠しての奇襲はできない。フィランダーは少し考えてから、そこに飛び込んだ。
距離をとり、魔獣に向き直る。
その獣は、狼のように見えた。黒い毛に覆われた体に長い四肢。長身のフィランダーが見上げるほどに大きいそれは、全身が黒いのに瞳だけは奇妙に赤い。それはフィランダーに向ける燃えるような怒りにも見えて、思わず笑う。
「そりゃ、刺されりゃ怒るか」
腹の辺りには大きな傷が見える。初手で食らわせたその傷は、普通の獣であれば致命傷のはずだ。手負いの動きには見えなかったが、怒っているのだとすれば効いてはいるのだろう。魔獣は大きな牙を見せつけるように、唸るようにしている。明らかに威嚇するような雰囲気の獣に、フィランダーも剣を構える。
「魔獣が出たってことは、そろそろ魔王の城に着いたってことか。魔獣に逃げ帰った観光客だって村人に笑われない程度には、善戦したいもんだな」