春の海
友人にドライブに誘われた『わたし』は、遺書を書いたーー。
そんな感じで始まる、二人きりのドライブの話。
ドライブに行こうと誘われ、わたしは遺書を書いた。
それを机の引き出しに入れてから、家を出て友人が運転する車の助手席に乗り込む。助手席は一番死亡率が高い、なんてどこかで見た一文を思い出した。
「どこへ行くの」
シートベルトをしめつつ、わたしは問う。
「海」
友人は簡潔に答えた。
ベタだな、と思った。だが何も言わずに頷いた。
運転は恐ろしく下手であろうという予想を裏切り、友人は慎重かつ丁寧に車を動かした。車など、殺人兵器にもなるのだからこのくらい慎重でよいだろう。我々が住む県は海がないので、隣の県まで行かねばならない。それなりの長距離を移動する。
「CD流して」
「どこ」
「手前のボックスの中」
言われた通りに助手席前のボックスを探ると、古びたCDケースが出てきた。プラスチック部分はすっかり変色していて、琥珀のような色になっている。
「これ?」
「そう」
友人がボタンを押すと、トレーがぬっと出てきた。眠たげな猫の歩みのような動きだ。わたしはケースを開けて、CDをトレーに置いた。猫は戻っていった。
重厚な音が響き始める。おそらくクラシックだろう。
「なんの曲?」
「ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番」
聞いたことがあるような、ないような、どっしりとした音が記憶を曖昧にかき混ぜる。
ドライブでかけるような曲でないことは確かだ。
「これで運転して楽しいの」
「楽しみを求めているわけじゃないから」
「ドライブなのに?」
「ドライブだけど」
友人の横顔は確かに全く楽しそうではなかった。静かで、でも凪いでいるようにも見えない。激情を薄い皮の下に押し込めてなんとか平坦に見せているような。
嵐の前の静けさ。これがぴったり合う不穏さだった。
窓の外を眺める。高速道路を走っていて、周囲には山しかない。空は曇りのない純粋な青さで、何故か頭の中に引き出しの中の遺書の姿が浮かんだ。
「ラフマニノフってどこの人?」
「ロシア」
何となく納得できた。厳しく、凍りつくような冷たさが似合う曲だと思った。
ロシアについて、わたしはよく知らない。近所のパン屋のピロシキが美味しいのだが、それがロシアの料理であることくらいしか知らず、果たしてあのパン屋のピロシキが本場のものと同じなのかすらわかっていない。日本はアレンジが好きな国だから、勝手に自分達好みに変えている可能性が大いにあった。
あとは、寒い国なのだろうというぼんやりとしたイメージを持っているくらいだ。
「この曲、好きなの? それともラフマニノフ?」
「どっちも違う」
友人の横顔が、微かな笑みを浮かべた。
「母さんが好きなんだ」
ほらこの車、母さんのだからさ。
友人が続けた言葉に頷き、それから「そうなんだ」と声を出した。友人は前を見ているから、頷くだけでは伝わらないことを思い出したのだ。
「まあ、もうすぐ別の車を買うから、これ廃車になるんだけど」
「もらったら?」
友人に車を買えるほどの余裕がないことは知っている。
だが、友人は首を振った。
「古いから」
そっか、という答えしかわたしは思いつかなかった。
友人はどうして免許を取ったのだろう。我々が住んでいる地域は都会ではないが、車がないと生きていけないほどでもない。維持費も高いし、車を持つメリットが少ないので免許を取る同年代は少なかった。わたしの周囲では、十九歳の現時点で免許を取ったのはこの友人だけだ。
「あと一時間くらいはかかるよ」
変わらず前だけを真っ直ぐに見ながら、友人が言う。
「寝たら?」
「ううん、眠くない」
昨日夜更かしして遺書を書いていたというのに、眠気はちっともわたしを襲わなかった。まるでわたしの体内に初めから存在していなかったかのように、どこを探しても見つからない。
わたしはドアに肘をつき、外を眺めた。前から迫ってきた景色がすれ違って後ろへと流れてゆくのをじっと追った。
音楽は鳴り続けている。それなのに友人が呼吸する微かな音を耳が拾ってきて、どうしようもなく泣きたい気持ちになった。理由はわからず、癇癪を起こした子供のように喚いてしまいたかった。
車内に重く激しい楽器の音だけを降らせながら、車は順調に海へと向かっていた。
「着いたよ」
その声で意識が己のもとへと帰ってきた。友人がエンジンを切ったところだった。
肘をついたまま固まっていた身体がゆっくりと解けていく。ん、と喉から声が漏れた。
「どこ行ってたの」
友人が口元にだけ笑みを浮かべて訊いた。
「どこだろう」
起きていたが、意識は遠い場所へ行っていた。
「強いて言うなら、天国?」
首を傾げつつ言うと、友人は
「まだ早いよ」
と車を降りていった。わたしもドアを開けて、車外へ出る。
車が一台もない小さな駐車場。目の前には砂浜、その先に水平線が見えた。
ほんの少し肌寒くて、薄手のコートを羽織ってきて正解だったと自分の判断を褒める。車に鍵をかけた友人は、ジャケットのポケットに鍵を突っ込んだ。
我々は駐車場からのびている階段を下りて砂浜に靴を沈めた。
「穴場なんだよ、ここ」
「だろうね」
いくら春とはいえ、他に人が一人も見当たらなかった。
友人はごつごつとしたブーツで砂浜に穴を掘りだした。
わたしは横から砂を移動させて、それを邪魔した。
穴は深くなり、埋められ、また深くなる。何も言わずに足だけで攻防して、それだけの時間が永く続くような錯覚に陥った。
足を止めたのは友人で、遅れたわたしは穴を完全に埋めてしまった。
埋まった穴に見向きもせず、友人はその場に腰を下ろした。腕が引っ張られる。大した力ではなかったが、崩れるようにわたしも座った。向かい合ったのに、前髪が友人の顔にカーテンのようにかかっていて、どんな表情をしているのかちっとも見えなかった。
友人は口を引き結んでいた。わたしは何も言わなかった。頭の中で、昨夜書いた遺書の内容を思い出そうと努めていた。ばらばらの単語ばかりが浮かんできて実像を構築できなかった。
諦めて友人から海へと視線を移した。
春の海は初めてだ。海のない県で育ったわたしは夏に祖父母の家に行った時くらいしか海と関わらない。それも中学生の時までで、海自体が久しぶりだった。
春。まだ冬の気配が風の中で残響している今日は、水面がうねっていて僅かに薄暗い。空の青さを飲みこみきれていないのだ。生き物達が一斉に呼吸を始める季節なのに、この海は何もかもを奪い去りそうだった。
見つめていると胸の奥にがらんどうな場所が生まれてしまう気がする。急に背筋が冷たくなって、友人の顔へと視線を戻した。
それを待っていたかのようなタイミングで、友人が結んでいた唇を解いた。
「ここさ、この海」
うん、と相槌を打った声は喉に引っかかったように掠れていた。
「たまに母さんと来たんだ」
「うん」
「いつもラフマニノフのあの曲をかけて、あの車で、二人きりでここに来て、二人だけで海を見ていたの」
「そっか」
「ここ、は、世界から切り離されているみたいでさ。だからここでは普段言えないことだって言えてさ」
うん。
その先に続けたかった「わかるよ」は音として生まれる前に沈んだ。
他に人などいなくて、そればかりか息をしているものすら自分達だけのような気がする。世界から切り取られて、ここだけで完結していると錯覚しそうだった。
まるでこの世に二人きりみたいだ。
「母さんが付き合っている人がいるって教えてくれたのも、ここなんだ。一年前。半年前には、結婚しようかと思ってるって相談された」
初耳だった。大学でもずっと一緒にいるが、そんなこと全く知らなかった。
多分友人は、ここに来たから話してくれたのだ。
「馬鹿、みたいなんだけど。わかってるんだけど。なんか、色々重なっちゃってさ」
友人の表情が少しだけ現れた。無理矢理笑っていた。なんてことないのだ、と自分に言い聞かせたがっているように見えた。それなのに、目だけは頑なに隠されていた。
「再婚したらって背中を押したのは自分だし、本当に祝福してたし。それは嘘じゃないんだ。ほんとうなんだ」 大丈夫。わかるよ。それくらいはわたしだってちゃんとわかる。
その気持ちを全部込めて「うん」と頷いた。
「でもさ、相手の人が車を買ってくれるって話になって。だから車を変えるね、って母さんがなんてことないように言ってきて。相手の人は本当に良い人で。母さんは幸せそうで。そしたら、そしたらさあ」
わたしは思わず友人の手を握っていた。友人はトレーナーの裾を握りしめすぎて、手が雪のように白くなっていた。見たこともないロシアの景色が脳裏に浮かんで、遠くでラフマニノフのピアノ協奏曲が流れた。
前髪が風で揺れて、溺れそうになっている瞳を見つけた。
「これからはもう二人じゃなくなるんだなあって、いやもう親離れしろよって話なんだけど、でもどうしても苦しくてさ。この海まで来た車はなくなるし、だから、なんか全部ぜんぶ夢だったのかなあって、二人だけだったはずの世界が、褪せたみたいにぼんやりとしちゃって。だからさあ」
怖くて、淋しくて、むなしくて。
「なんか、消えたいなあって思いが出てきてなくならなくなっちゃって」
どうしようね、と途方に暮れた声が湿ったものに変わる。わたしは友人の手を握りしめた。強く、痛いほどに。この痛みで、友人をとどめられるように。
「わたしね、今日、遺書を置いてきたんだ」
友人の濡れた瞳がわたしを捉える。
「君が運転する車に乗るのって初めてでしょう。君は不器用だし、運転下手なんじゃないかって思って。だから事故とかで突然死んでもいいように遺書を書いたの」
友人は目だけを笑いの形に細めた。
幼馴染と言って差し支えのない関係だ。友人があまりに不器用なのは、よくわかっていた。
伝わっているだろうか。
危険を感じて遺書を書くくらいならば、行かないと断る方が簡単で安全だ。
だが、わたしは遺書を書き、車に乗った。助手席で、友人に命を預けた。
「わたしはね、君とならどこへでも行くつもりなんだよ」
その道の果てがあの世であろうと、それでも共に行こうと躊躇もせずに思うのだ。
わかるだろうか、この気持ちが。わたしはよくわからない。こんな感情、何と言い表せるのかちっともわからない。
「消えたいなら、わたしを連れていけよ」
ねえ、と握った手を揺らす。友人の顔はぐしゃぐしゃだった。鬼ごっこで盛大に転んだ時と同じ顔になっていた。
成人年齢が引き下げられて、我々は大人となった。車の運転も許されるし、酒や煙草だって今に許されるようになる。
だが、無力だ。
だからこんな海まで来て、しがみつく羽目になるのだ。
本当にこの場所が世界から隔絶されていればよかった。ここから動かず、友人は母の車と思い出を抱えて、わたしはその手だけを握って、永遠になればきっと美しい。
だが、ここはどこまで行っても現実だから。勝手に時間は流れるし、それを止めるすべは我々には与えられていない。
立ち上がるしかないことの絶望感と、それだけの力だけは残されているとわかる胸のぬくもり。
道はひとつしかない。
「消えないよ」
泣きすぎて詰まった声で、それでも友人はその言葉を絞り出した。
「あんたが一緒に消えてくれるなら、まだ行けない」
わたしはなかなか声が出せず、何度も頷いて、ようやく呟いた。
「そっか」
「あの車は古すぎるから買い替えないといけないし、二人だけの生活ももう終わるけど。でも、思い出すから。今まで海を見ながら話した全部、ちゃんと思い出せそうだから。だから、もう大丈夫」
強がりの色はあったが、嘘ではないと信じられた。
「あのさあ」
ん? と友人は首を傾げる。濡れた頬は赤いが、きっと冷たいのだろう。
「ありがとう」
ここに連れてきてくれて。打ち明けてくれて。
何より、一人で行かないでくれて。
「ありがとう」
友人も同じことを言った。
幼い頃に喧嘩したあと、二人で同時に謝ったことがある。ぴったりと重なった言葉はやがて笑い声に変わり、わたし達は悲しいことを何ひとつ知らないような顔で転げ回った。
わたしは笑った。視界が滲む直前、友人も笑った。
大声で笑い転げるには、幼さが足りない。
頰が濡れた。風に撫でられると冷たかった。
春の海は黙って我々の嗚咽を飲み込んでいった。
了