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鎌倉攻め

鎌倉攻めその1


分倍河原の戦いで幕府軍を撃破した俺たちは、武蔵国府を襲って武器・兵糧を略奪すると、そのまま鎌倉街道を南に下って鎌倉へと向かった。

この頃には六波羅陥落の報が伝わったためであろうか、もはや幕府軍に打って出る余裕はなく、早々に鎌倉への籠城を決めたようであった。

俺は軍団を四つに分けて、一手は堀口貞満・世良田兵庫助(満義の息子)を将として小袋坂へ、一手は大舘宗氏・江田行義を将として化粧坂へ、もう一手は足利千寿王ら足利家の連中を将として大仏坂へ、最後の一手は俺と義助の本隊で、極楽寺坂の切通しへと向かった。

化粧坂と極楽寺坂方面の攻め手が史実と逆になっているのは、大舘宗氏を戦死させないためだよ。それに、史実の義貞は極楽寺坂方面の稲村ケ崎から鎌倉に突入するわけだから、最初から俺が極楽寺坂方面を担当していた方が移動も少なくて都合が良いであろう。

そういうわけで、鎌倉攻めは五月十八日に極楽寺坂方面から始まった。

かねてからの約束通り、飽間盛貞・家行・定長の三人も攻め手に加えているよ。

俺は兵を二手に分けて、一手は脇屋義助を大将として霊山寺城を包囲させ、もう一手は俺自らが率いて稲村ケ崎から鎌倉への侵入を試みるのだった。

せっかくだから、勝利を確実なものにしたいよな。うーん、ここは祟り神に働いてもらうとするか。

(祟り神殿、いらっしゃいますか?)

『せっかく合戦を見物して楽しんでいるというのに。徳業(主人公の本名)よ、いったい何用じゃ』

(これから義助の軍に霊山寺城攻めをさせるわけですが、被害は最小限にとどめたいのです。以前、祟り神殿はネズミを操れると言っていましたよね。であれば、ネズミを使って霊山寺城の井戸や兵糧に毒を蒔いてきて頂きたいのですが、お願いできますか?)

『うむ、おぬしも我の無念を晴らすため鎌倉攻めに励んでおるからな。毒をばら撒くことについては我に任せよ。霊山寺城の連中が毒に苦しむ様子を見るのも一興か』

(祟り神殿、よろしくお願いします)

俺は、霊山寺城に毒をばら撒いたことを義助に伝え、城の守備兵が毒で苦しみだすまで城攻めは控えるよう指示するのだった。

これで、もうしばらくすれば山越えルートで鎌倉に侵入できるようになると思うが、やはり物語の演出上、稲村ケ崎で黄金作りの太刀を海に投じる必要があるよな。

それによって遠干潟が出現し、そこを一直線に攻めた方が物語として盛り上がるしね。

ということで、俺は兵を率いて稲村ケ崎に向かった。


うーん、稲村ケ崎は狭いねえ。波打ち際は逆茂木で固められているし、沖には軍船が並んでいて北側の山稜地帯には霊山寺城や極楽寺が所在するから、ここを進んでいる間は南北から横矢で攻撃されるわけか。

加えて、幕府軍は軍船数隻をわざと座礁させて、稲村ケ崎を完全に封鎖していた。

これでは、例え大潮の日であっても、逆茂木と船が障害物となって稲村ケ崎を突破できないではないか。

ちなみに、大潮は五月二十一日早朝ね。

史実の義貞は、この日に稲村ケ崎を突破して鎌倉に突入しているわけだが、俺にこの状況を打破することができるのか?

なんだか、歴史が変わって鎌倉攻略の難易度が上がっている気がするぞ。

まあ、一日に二度干潮が発生するから、俺はその都度攻撃を繰り出すことにして、稲村ケ崎の突破が困難なら山越えルートで鎌倉に突入すれば良いか、なんてことを思ったりした。


鎌倉攻めその2


五月十八日、極楽寺坂方面で始まった戦闘は瞬く間に多方面へと波及し、化粧坂・小袋坂でも戦いが始まった。

ここに、赤橋守時という敵将あり。守時は、読者様もご存じの通り最後の執権で、足利高氏の正室赤橋登子の兄でもある。守時は、甥である足利千寿王をむざむざと逃がしてしまったことに責任を感じており、化粧坂方面で無謀とも言える突撃を新田軍に対して決行するのだった。

守時は善戦するものの、時代の流れに逆らうことはできず、得宗北条高時に先立って戦死した。享年39歳。


首尾よく守時を討ち取った新田勢であったが、その後守りに入った幕府軍を攻めあぐねることになった。

こうして、戦線はしばらく膠着するのだが、俺の策で病人が続出した霊山寺城を五月二十日に義助が落とすことで、戦況は新田勢に傾いた。

俺は、霊山寺城に援軍を送ると、五月二十一日早朝に鎌倉へ突入するよう義助に指示を出した。

これは、干潮と同時に義助の軍勢を鎌倉内部へ突入させることで、俺の率いる本隊の稲村ケ崎突破を支援する作戦ね。

五月二十日夜、俺は黄金作りの太刀を海に投じて、波を引かせる儀式を行った。

五月二十一日早朝、義助の軍が鎌倉に突入したのを見計らって、俺の本隊も稲村ケ崎に進軍した。

さすがに大潮の日だけあって広大な干潟が出現しているものの、相変わらず逆茂木や座礁させた軍船などの障害物は邪魔であった。

『愛馬山風の実力をもってすれば、稲村ケ崎の突破など容易いこと』と思っていた俺の見立ては甘かったのだろうか。

モタモタしているうちに時間だけは過ぎていく。

このまま稲村ケ崎を突破できなければ、潮が満ちて我らは水没してしまうではないか。

こいつはまずい。誰か、この危機を打開できる奴はおらんのか。

すると、巨大な太刀を持った二人の兵が、どこからともなく現れた。

「「義貞殿、我らがお助けいたします」」

彼らは大太刀を振るって、逆茂木や軍船を切り刻んだ。

「君たちは一体何者だ」

俺の問いに対し、二人の兵は『あなたが体に良いと言って毎日食べていた大根です』と答えて消えたのだった。

『深く信仰を寄せると、こうした功徳もあったのであろう(信じる者は救われる)』という記載が徒然草第六十八段にあるが、これはおそらく言霊信仰によるものだと俺は考えている。

念のために言っておくと、言霊信仰とは『言葉には不思議な霊威が宿っており、言挙げ(言葉に出して言うこと)するとその力が働いて言葉通りの事象がもたらされる』という奴ね。

つまり、俺は子供の頃から『大根は体に良い』と言って大根を食していたので、俺が危機に陥った時、兵となって助けに来てくれたわけだ。

うん、今後上洛する機会があれば、吉田兼好を見つけて礼をするとしよう。

話を元に戻すよ。

『大根の兵士』によって障害物が排除されたため、俺の率いる本隊は稲村ケ崎を突破して、既に鎌倉に突入していた義助の軍と合流した。

この頃になると、幕府軍から我が軍に投降する兵が続出するようになっていた。

ちなみに、鎌倉の住人は避難済みなので、兵たちは思う存分戦えるぞ。

俺は、北条高時を捕らえるため、降兵をまとめて高時の館へと急行したのだが、そこに高時はおらず、いたのは妻保子の叔父である安藤聖秀とその配下数十人であった。

史実だと、聖秀は義貞の降伏勧告を拒否して自害しているんだよね。

正直、内政のできる行政官は全く足りていないので、何としても聖秀は味方につけたい。

一応、保子に降伏勧告の手紙を書いてもらったけど、下手な人間を使者に出しても自刃するだけだろうな。ここは、俺が出るしかないか。

というわけで、聖秀を味方にするため、俺は保子の手紙を片手に高時の館へ踏み込んだのだった。


聖秀は既に覚悟を決めているらしく、部屋の中央に座り俺が来るのを待っていた。

聖秀の前には、脇差の載った三方が置かれていた。

「聖秀殿、久しくご無沙汰いたし候」

俺は聖秀に声をかけて、保子の手紙を渡そうとするが、聖秀は手紙の受け取りを拒否した。

「中身は見ずとも分かっておる。わしに降伏しろというのであろう。わしは、今まで幕府から多大な恩を受けてきた。その恩に報いて命を捧げるのがわしの義だ。今さら、不義の輩に降伏して生き長らえようとは思わん。分かったら、速やかに総攻撃をせよ。潔く討死してくれよう」

「壮絶に生きることは、壮絶に死ぬよりずっと難しいと、物の本で読んだことがあります。死ぬことは何時でもできるのです。だから、最後に少しだけ俺の話を聞いて頂けないだろうか」

「ふん、つまらぬことを言うようなら、すぐにでも腹を搔っ切るぞ」

「承知しました。まず、鎌倉幕府が滅亡に至ったのは、高時公のせいではございません。たとえ、高時公がどれほどの名君だったとしても、滅亡はまぬがれなかったでしょう。幕府の滅亡は、全て土地政策の失敗が原因なのです」

「どういうことだ?わしにも分かるよう説明してみよ」

「現在、土地相続制度は『長男に最も多く、次男以下は段々と減らして男女ともに満遍なく相続させる』というものになっています。そのため、相続を繰り返すたびに所領が細分化して御家人は貧窮化し、その御家人の連合体である幕府の力も弱体化するということになります。では、御家人の貧窮化を防ぐためにどうすればよいかと問われれば、器量を持つ者(優秀な人間)が財産を全て継承するという『惣領制』に移行するより他はないのですが、器量は実際に競争させてみないと分からないので、結果後継者争いが激増し、世の中も不安定になるのです。さらに、貨幣経済が浸透した結果、武装商人という幕府の支配が及ばぬ武士も生まれました。従来の御家人は貧窮化して幕府に不満を持ち、政治から排除されている武装商人も幕府に不満を持っている。北条家以外の全ての武士が幕府に不満を持っている状態で、帝が倒幕の兵を挙げたらどうなるか、聖秀殿ならお分かりになるであろう。あと、元寇に勝利したものの、敵を追い返しただけで恩賞に出すべき土地や金を得られなかったのも痛かったですな。実際に戦った御家人や『敵国降伏』を祈って『神風』を吹かせた朝廷・寺社(これは言霊による考え方です)に恩賞を与えることができなかった結果、幕府は御家人や朝廷・寺社の恨みを一身に受けることになったわけです」

「ふむ、北条家が徳を失ったから滅びるなどと言い出さぬところは評価してやる。では、何をどうすれば幕府滅亡を防ぐことができたのか、おぬしの考えを述べよ」

「御家人の貧窮化と後継者争いを防ぐには、長子相続制の採用しかないと思います。その上で農業生産性を上げることができれば、貧窮化を防ぐことは十分可能なはずです。俺は、収穫量を今までの二倍以上に増やすことのできる農法をいくつも知っています。聖秀殿が俺の仲間になるなら、教えてあげても良いですぞ。武装商人については、税金を徴収した上で政治に参加させ、幕府内部に組み込んでしまえばよいのです。もちろん、商業や金融業の法整備は必須ですけどね。長子相続制を採用すると、次男以下が一生部屋住みになってしまうことが問題と言えますが、彼らには様々な選択肢を与えることにしましょう。役人・農民・職人・商人など、なりたい職業に就けるよう法整備をすれば良いのです。例えば、役人になりたいなら算術の試験を受けさせて、点数の高い者を採用するのは如何か。俺は、選択肢が多ければ多いほど良い世の中だと考えております。聖秀殿、俺と共に新しい国を作りましょう。親に決められた人生を送るのではなく、自身が望む生き方を選択できる、そんな国を共に作ろうではありませんか」

聖秀は『うーん』と唸っただけで、あとは一言も話さなかった。

「この場で聖秀殿に降れとは申しません。ただ、俺の考える新しい国作りに賛同していただけるなら、あとで俺を訪ねて下さい。聖秀殿なら、いつでも大歓迎いたしますぞ」

言うべきことは言い尽くしたので、俺は高時の館を後にした。

後には、聖秀ひとりだけが取り残されていた。


◇安藤聖秀視点◇

わしは、今まで幕府の恩を受けて生きてきたのだから、幕府滅亡の際は命を捧げるのが当然のことと考えていた。

しかし、婿殿(新田義貞)は『死ぬのは何時でもできる』『新しい国を作るため、壮絶に生きるべき』と言い、新しい国作りについて見事に説明してのけた。

その国作りが成功すれば、民の生活は豊かになり、一生部屋住みで飼い殺しにされる人間も減ることが容易に予想できた。

「親に決められた人生を送るのではなく、自身が望む生き方を選択できる国か」

こんな老いぼれでも、まだお国のために何かできるかもしれぬ。

そう思うと、聖秀は年甲斐もなく心躍るのだった。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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