小手指河原・分倍河原の戦い
登場人物
新田義貞(五領徳業):主人公。新田義貞に転生して、犬死人生を回避するため悪戦苦闘する。物語開始時33歳。商業を重視し、海外貿易を活発にすることで国を豊かにする政策をとる。
祟り神(新田義貞の怨霊):ネズミや天狗を使役することができる。
新田義顕:新田義貞の長男、16歳
脇屋義助:新田義貞の弟、32歳
船田義昌:義貞の執事
新田四天王:栗生顕友、篠塚重広、畑時能、由良具滋
岩松経家:新田一族。先祖が足利家から新田家に婿入りしているので足利寄りの行動が目立つ。
保子、知子、宣子:義貞の妻たち
小手指河原の戦い(元弘三年五月十一日~十二日)
五月八日早朝、新田荘は異様な雰囲気に包まれていた。
俺は甲冑を着込むと、愛馬山風にまたがり館を出た。
従うのは、義助・義顕ら三十騎と従者百人ほどである。
生品神社には、新田一族百五十余騎と足利一族の桃井尚義が集結し、一味神水の儀式をした後に、笠懸野へと進出した。
そのまま東山道を西に進む新田軍は、粕川(群馬県前橋市粕川町)付近で先陣の越後勢四千騎と合流し、その勢いで上野国府を襲撃して武器・兵糧を略奪した後に、八幡荘(群馬県高崎市八幡町)付近で後陣の甲斐・信濃勢六千騎と合流した。
総勢一万余騎に膨れ上がった新田軍は鎌倉街道を南下し、五月十日入間川(埼玉県所沢市付近)に到達した。
幕府側も、桜田貞国を大将に、長崎高重・長崎孫四郎左衛門・加冶次郎左衛門入道を副将にして、武蔵・相模の軍勢一万余騎を集めて入間川方面に出陣した。
翌五月十一日早朝、新田軍は入間川を渡り、小手指河原(所沢市)において両軍は合戦することとなった。
義助は、『このような大軍を指揮できるなど、胸が躍りますな』なんてことを言っていたけど、俺自身はかなり冷静であったと思う。というか、半ばヤケクソになっていた。
なにしろ、俺の言うことを聞いてくれそうな新田一族の兵は、百五十余騎しかいないからね。
見たことも聞いたこともない奴の指揮に従う兵など、いるはずもあるまい。まあ、勝利を重ねれば、俺の言うことを聞く奴も増えていくのかな。
ということで、初戦は好き勝手に戦わせることにした。
俺の出来ることなど、『進めー』もしくは『引けー』と指示を出すぐらいだからね。
そんなわけで、各隊がてんでバラバラに戦った結果、十一日の戦いは義貞勢三百余騎、幕府勢五百余騎が討死して日没となったため、特に勝敗付かずで終わったのだった。
その日の夜のこと、着到状を読んでいると気になる人物を発見した。
碓氷郡飽間村(群馬県安中市)出身で、板碑によって令和の時代までその名を残す飽間盛貞・家行・定長の三人である。
こいつらは確か、盛貞は分倍河原で、家行と定長は相模国村岡(神奈川県藤沢市)で戦死しているんだよね。
討死するのを分かっていて何もしないというのも寝覚めが悪い。
そこで、後方支援という名目で、こいつらには兵糧運びの仕事を任せることにした。
随分と不満げであったが、鎌倉攻めの時は先鋒に加えてやると約束して、こいつらを後方へ追いやることに成功した。これで、三人が近日中に戦死するという歴史も変わるであろう。
ついでに、忍者集めで活躍した吾妻太郎行盛も参陣していたので、こいつも後方支援に追いやっておいたよ。まだまだ忍者は足りないから、こんなところで死なれると困るんだよね。
続いて五月十二日、評定の場で俺は『ばらばらに戦っていても敵に有効打を与えることはできない』と主張し、『幕府軍副将の長崎・加冶軍に攻撃を集中させるのはどうか』と提案した。
皆も、一度くらいは大将の言うことを聞くのも良かろうと思ったのか、今日の戦では長崎・加冶軍に攻撃を集中させることとなった。
西国では敗戦続きのせいか、元々幕府軍の士気は低いのである。
そこへ持ってきて副将の軍への集中攻撃である。
長崎・加冶軍はすぐさま敗走を始めた。すると、残された桜田軍もじりじりと後退し始め、そのまま態勢を維持できずに鎌倉方面に向かって潰走するのだった。
こうして、小手指河原の戦いは新田軍の大勝利に終わった。
他国勢の信頼を勝ち取った俺は、そのまま鎌倉街道を南下して五月十四日多摩川に到達した。多摩川の川向こうには、小手指河原で戦った幕府軍の敗残兵が待ち構えていた。
分倍河原の戦い(元弘三年五月十五日)
さて、五月十五日早朝から始まる分倍河原の戦い(東京都府中市)であるが、義貞は緒戦で敗北して命の危機に陥るんだよね。この時、幕府軍が追撃していたら義貞は討死していたのではないか、とも言われているよ。
うーん、できれば緒戦の敗北は避けたい。でも、義貞の敗因は幕府軍に北条泰家率いる十万の援軍が加わっていることを知らなかったからなんだよね。
実際問題として、この時期の幕府に十万の軍勢は用意できないであろう。
多くて三万くらいなんじゃないかな。まあ、それでも大軍には違いないけどね。
では、どうやってこの援軍を撃破すれば良いのか。
・・・そうだ、今こそ秘密兵器を用いる時。加えて、騎兵をあんな感じに運用すれば大勝利間違いなし。
ということで、具滋と義助を呼んでそれぞれに策を授け、明日の戦に備えさせることとした。
その他特筆すべきこととしては、足利千寿王(後の義詮)が下野・常陸の軍勢を引き連れて合流したことであろうか。
遅れて合流してきた奴らは、当初から戦っている我らに負い目を感じているだろうから、明日の合戦ではこいつらを先頭にして戦うことにしよう。
翌五月十五日早朝、分倍河原の幕府軍に襲い掛かった新田軍は、小手指河原の戦いで生き残った敗残兵たちを順調に撃破していく。
しばらくは新田軍優勢で戦いが進むものの、北条泰家の援軍が参戦したところで戦いの主導権は幕府軍に移った。
史実通りだと新田軍は幕府軍に包囲されて、義貞は手勢六百騎を率いて血路を開き、かろうじて脱出する羽目になるんだよな。
だが、今回はそのような失敗はせぬぞ。
「具滋、忍者隊に焙烙玉とスリングは行き渡っているか」
「義貞様、忍者隊の準備は完了し、いつでも攻撃可能な状態となっております」
「では、泰家軍をできるだけ引き付けてから攻撃するのだぞ。・・・それっ、今だ」
スリングをグルグル回した忍者隊は、泰家軍に向かって次から次へと焙烙玉を投げ込んだ。
ビュンビュンビュン・・・ドガーン。
焙烙玉が放つ爆音に馬は驚き、制御不能な状態となって馬上の武士は次々と落馬した。
加えて、焙烙玉が破裂するたびに兵たちは戦闘不能となり、戦意を喪失して逃げ出す者も続出した。
こうして泰家軍の前進を阻んでいると泰家軍の後方からも鬨の声が上がり、しばらくすると泰家軍は潰走し始めた。
幕府軍が分倍河原から敗走した後に現れたのは、義助率いる騎兵千騎であった。
昨晩、義貞が義助に授けた策というのは、『義助率いる千騎は夜のうちに幕府軍の後方に移動し、翌日戦いが始まって焙烙玉の破裂する音が聞こえたら泰家軍を後方から攻撃しろ』というものであった。
分倍河原の戦いで完勝した俺は、誰からということもなく戦巧者と噂されるようになり、新田軍に味方する者はますます増えるのだった。