鎌倉幕府に対する一考察(参考:井沢元彦著『逆説の日本史5・6』)
何故、この時代の幕府が行き詰っているのか。
ご存じの通り、鎌倉幕府とは武装農民である御家人の組合、分かりやすく言うと『農業協同組合?』である。
源頼朝が(武士の支持を得るために)武士の利益となる政策(武士の土地所有権を確立させること)を次々と打ち出していくと、京の政権(律令政権)に対する独立政権である『幕府』が誕生した。
そして、これに不満を持つ後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると、北条泰時は逆に朝廷軍を圧倒して、幕府の勢力は西日本にも及ぶことになったわけだ。
『御家人の領土が増えて、組合員が豊かになる』という流れが続けば、幕府が行き詰ることはなかったであろう。しかし、当時の土地相続制度は、『長男に最も多く、次男以下は段々と減らして男女ともに満遍なく相続させる』というものであったため、相続を繰り返すたびに所領が細分化して御家人は貧窮化し、結果として幕府の力も弱まることとなった。
幕府は、このことに対して結局何の対策も取れなかった。
もちろん、御家人の側でも貧窮化を黙って見ていたわけではなく、女子も含めた諸子間の分割相続から、器量を持つ者(優秀な人間)が財産を全て継承するという『惣領制』へと移行することになった。
ただし、このことは新たな問題を引き起こした。
器量とか優秀さを目に見える形で示すことはできないのだから、結局皆で後継者争いをする羽目になったのである。
事実、室町時代は後継者争いのオンパレードで、これを反省した徳川家康は、最終的に長子相続制を決めたわけである(長子相続制が初めて適用されたのは、三代将軍家光ね)。
だからといって、鎌倉時代に長子相続制を導入しても上手くいかなかっただろうね(次男以下が納得しない)。
江戸時代に長子相続制を導入できたのは、皆が相続争いはもうこりごりと思ったからだ。
つまり、『鎌倉時代の分割相続』⇒『室町時代の惣領制』⇒『江戸時代の長子相続制』という流れで歴史を考えねばならぬ、というわけだね。
そして、ある制度がうまく機能するには、皆の納得が必要不可欠ということだ。
そうこうしているうちに貨幣経済が社会に浸透してきて、農業に基盤を持たない武士(武装商人、悪党)も出てくることになった。
俺的には、武装商人も幕府に組み込んで法人税なりを徴収すれば良かったと思うのだが、幕府は農協のままで、商人を取り込むことはしなかった(経団連にならなかった)。やはり、農民と商人は仲良くできないのだろうか。挙句の果ては借金帳消しの『徳政令』である。
これでは、武装商人どもが幕府に反旗を翻すのも無理ないよね。
御家人の方も、貧窮化に対して根本的な対策がなされないから、奉公のたびに金を借りて、金が返せないから結局土地を奪われて、徳政令で土地が戻ってきて・・・を繰り返すことになる。
結果、御家人も武装商人も幕府に対して不満を募らせることになった。
こうした中、腐敗した幕府を倒すために立ち上がったのが後醍醐天皇である。
幕府の屋台骨が腐っているのは、誰が見ても明らかである。
幕府が倒れ、それに続く内戦に打ち勝ち、最終的に天下を手にするのは一体誰であろうか。
律令制の復活並びに天皇中心の中央集権国家設立を目指す後醍醐天皇か。
バサラ大名どもの支持を集め、力あるものが国を治めれば良いと考える足利高氏か。
得宗専制の政治体制を理想とする足利直義か。
はたまた、未だ世に知られておらぬ別の者であろうか。
今まさに、戦いの火ぶたが切って落とされようとしていた。