建武の新政その2
後醍醐帝が目指したのは、天皇親政を柱とした朱子学的絶対専制政治である。
『朕の新儀は未来の先例なり』を実現するため、後醍醐帝は『綸旨』を乱用し、日本の歴史上でも非常に珍しい『独裁者』となることに成功した。
もし、後醍醐帝がその権力を用いて行政改革に成功していれば、わずか三年で建武政権が崩壊することも無かったであろう。
後醍醐帝の政治の何が悪かったのだろうか。
ちなみに、独裁者になるのは悪いことではないよ。
日本を造り変えるレベルの大行革を志すなら、権力を一極集中させ『俺の言葉が法律だ』状態にでもしない限り不可能だからである。
もし、権力の集中を『悪』と見る人がいたとしたら、『その人は歴史の法則が分かっていない』と井沢元彦は『逆説の日本史6』に記述しているが、このことについては全面的に賛成したいと俺は思う。
権力の集中が問題なのではない。集中させた権力で何をやるかが問題なのである。
後醍醐帝は、当時最新の哲学であった朱子学に合わせて、日本を改造しようとした。
言い換えると、後醍醐帝は幕府(覇者)政治を否定し、天皇(王者)親政こそが正しいと考え、その方向で新たな国造りを志したわけである。
しかし、結果は大失敗であった。
まず、大行革を行うに当たって軍隊の掌握は必須なのだが、典型的日本人である後醍醐帝はそれを拒否した。
理由はもちろん、ケガレた存在である軍隊に関わりたくなかったからである。
ちなみに、なぜ軍隊がケガレていることになるのかといえば、それは常日頃から死穢に触れているからだよ。
そして、この『ケガレ忌避』信仰こそが、軍人を差別し、米を作る農家には感謝するが(動物の死に触れる)食肉処理業者には感謝しない国を創り出したわけである。
残念ながら、憲法九条で日本を守ることは出来ない。そして、攻めてきた敵を追い払うのは、憲法九条でなく軍隊である。
にもかかわらず、日本人は無意識の内に『ケガレ忌避』信仰で軍人差別をしているのである。
日本人に『ケガレ忌避』という信仰があることを皆が認識し、その上でこれを克服できなければ、日本が戦争に巻き込まれた時にとんでもないことになるのでは、と思わざるをえない。
話を戻す。
いかに後醍醐帝のやっていることが滅茶苦茶であっても、政治が上手く回っていれば問題ない。
しかし、『建武の新政その1』でも触れたとおり、従来の土地制度を全て白紙に戻すという後醍醐帝の失政により、京は大混乱となっていた。
後醍醐帝は、それに対し最後まで抜本的な対策を取ることもなく、逆にやりたくてしょうがなかった大内裏の造営(新首都の再建)を始めてしまったのである。
このための財源として、安芸・周防の税収を全てつぎ込んだが、それでも足りず、全国の武士全員に二十分の一税(5%の増税)を課したという。
今まで、幕府の悪政で民が苦しんでいたというのであれば、減税をして民の疲労を癒やす必要があるのだが、後醍醐帝は逆に増税をしたわけである。
軍事力を持たない(持ちたくない)後醍醐帝にとって、武士の支持だけは得ておく必要があった。そうでないと、いざ事が起きた時に何も出来なくなってしまうからだ。
しかし、武士からみると、土地所有権を白紙に戻され、御家人という身分を失い、倒幕のために命がけで戦ったにもかかわらず、恩賞もろくにもらえない。幕府を倒してしまったので、武士にとって最大の後ろ盾も無くなる。貴族や坊主は急に威張りだして、武士を下に見る。挙げ句の果てに、大内裏造営のための増税である。
建武政権が成立してからというもの、武士にとって良いことは何一つない。
実際問題として、何者かが後醍醐帝に反旗を翻して『幕府を開く』と宣言したとしても、軍事力を持たぬ(持ちたくない)後醍醐帝にそれを押しとどめることはできぬのである。
ここにおいて、武士の側から見た建武政権崩壊の兆しが現れ始めたのであった。
一方、貴族の側から見た後醍醐帝はどうだったかというと、伝統を破壊する秩序紊乱者であった。
後醍醐帝は真の律令制の導入、すなわち世襲制を廃して実力主義を導入しようとしたわけだが、これに対して北畠親房・顕家らは『官位は才徳のある者(身分の高い者)に与えるべき』と言って、後醍醐帝の政策を非難した。
つまり、身分制度(貴族の既得権)を守れと、親房・顕家らは言ったわけだ。
ただし、未来の基準で考えれば、実力主義は大いに結構だと思う。
行革とは、国にこびりついた既得権というサビを落として、行政をスリム化することなのだからね。
やはり、後醍醐帝は生まれてくるのが早すぎたのであろう。
後醍醐帝が令和の時代の政治家なら、既得権者との戦いで大活躍してくれるのではないか、なんてことも思ったりした。
話を戻す。
日本は、昔から何事も実力主義でなく血統主義で行ってきた。
そして、それは令和の時代でも(選挙区の世襲とか談合とか家元制度とか)同様であって、できるだけ争いを起こさないように、たとえ争いが起きたとしても最小限に抑えられるようにやってきたわけである。
なんで、ここまで争いを避けたがる(和を尊ぶ)のかといえば、それは怨霊を発生させないためである。
争いがあれば必ず敗者が発生し、敗者は恨みを持っているので怨霊になる可能性が高い。
であるから、『怨霊信仰+血統主義』故に実力主義を認められない貴族からも、後醍醐帝に対する不満が広がり始めたのであった。
結局、武士・貴族両方の支持を失った建武政権は崩壊に向かうことになるのだが、この話はここまでとして、元弘三年時点の義貞の話に戻ろうと思う。




