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プロローグ

古今の変化の中で平和と乱世の由来を考えてみるに、万物をあまねく覆うものこそが天の徳と言える。名君は、この徳を身に備えて国家を保つのである。一方、国家の運営を任せて、疎んずることのないのが地の道である。良臣これに則って、社稷(土地と五穀の神)を守る。

もし、君子に天の徳が欠ける時は、仮に帝位にあってもその地位を保つことはできない。いわゆる夏の桀王は南巣に逃亡し、殷の紂王は牧野の戦いで敗れているのである(付け加えると、後醍醐天皇は吉野で憤死している)。

そして、臣下が地の道を違う時は、如何に権勢があってもその地位を維持することはできない。歴史を見れば分かるが、趙高は咸陽に死し、安禄山は鳳翔に滅んでいるのである(ついでに言うと、北条高時は鎌倉で自害している)。

であるので、王者は徳を磨き、臣は道に従った政治運営をしなければならないと太平記序文に記されているが、敢えて言おう。後醍醐が憤死したのも、高時が自害したのも、欠徳や道を違えたからではなく、政治理念・体制がその時代の人々の求めているものと一致していなかったためだということを。

何故、鎌倉幕府が滅び、建武政権が崩壊したのか。どうすれば、半世紀に渡る南北朝時代という乱世の到来を防げたのか。

このことについて、太平記の主要登場人物である新田義貞の発言や行動を通じて、著者の考えを明らかにしていきたいと思う。


加えて、この物語では、朱子学や日本教とも言うべき日本人の奥底に潜む宗教観(①怨霊信仰、②言霊信仰、③ケガレ忌避)についても触れていく予定である。何故、日本の常識は世界の非常識と言われるのか。鎌倉時代末から室町時代にかけて、政治が安定せず戦乱の世が続いた理由は何故なのか。この時代で『太平の世』を実現するには、いったいどうすれば良かったのか。そのことについても著者なりの考えを示していきたいと考えている。


元弘三年(1333年)四月末 上野国新田荘安養寺館


兄者アニジャ、しっかりしてください。今、兄者に何かあれば、倒幕どころか新田家は滅亡ですぞ」

(うーん、うるさいな。いったい何だっていうんだ)

目を開くと、目の前には時代劇風の服を着た壮年男性がいて、俺の身体を揺すっているのが分かった。俺は板の間に寝かされていて、濡れ手ぬぐいが額の上に乗っていた。

(うーん、ここは新田荘安養寺館で俺は新田義貞・・・?いや、五領徳業ゴリョウノリナリだったよな。群馬県生まれ、群馬県育ちで歴史好きのアラフィフ退魔師で、昨日もネズミの大軍を操る怨霊が現れ繭や蚕が食い荒らされて困っているというので、わざわざ榛名湖までお祓いに行ったはずだが、その後の記憶がないな・・・。えっ、『退魔師とはなんだ』だって?この世には、人間の負の感情を糧に悪を成す怨霊が満ち溢れており、その怨霊を神(御霊)の聖なる力で祓ったり浄化(鎮魂)するのが退魔師の仕事なのは、この世界の常識なんだけどね。まあそれはさておき、俺も何故か時代劇風の恰好をしているんだよな。あと、部屋の隅に邪悪な気配を発するやたらとでかいネズミがいるんだけど、この男は気にならんのか)

そんなことを考えながら、俺を『兄者』と呼ぶ男の顔を眺めてみる。

(俺に弟はいなかったはずだが。うっ、頭が割れるように痛い)

突然の頭痛に俺は頭を抱える。

俺の頭の中で、この身体の記憶と前世の記憶が混ざり合い、そして全てを思い出した。


そう、昨日までの俺は確かに『退魔師五領徳業』だった。

えー、怨霊を鎮めて御霊にすることで人間社会に平和をもたらすのが退魔師の仕事だが、俺みたいな下っ端退魔師にできるのは、せいぜい怨霊の配下であるネズミやカニなどの小動物を祓ったり浄化することぐらいさ。

昨日も、榛名湖で養蚕農家に害を為すネズミを祓っていたのだが、その最中にふとあることを思い出した。

ネズミを操る怨霊として、新田義貞が有名だということをね。


※『蚕を食い荒らすネズミの害は、新田義貞の怨霊によるもの』との俗信があるため、新田一族である岩松家当主の描く猫絵は、それに対抗できるものとして江戸時代に人気を集めていたそうです。海外でもバロンキャットと呼ばれ、人気があったらしいぞ。


ちなみに、新田義貞(1301~1338)とは、言わずと知れた群馬県の英雄の一人で、建武の元勲の一人でもある。鎌倉幕府を滅ぼした後は、南朝の総大将として足利尊氏と戦うが、最後は越前藤島で流れ矢に当たって犬死したと言われているよ。

・・・それにしても新田義貞か。群馬県では『歴史に名高い新田義貞』として有名だけど、結局時流を読めぬただの凡将ではないか。

そう、この時の俺は少々油断していたのであろう。後から考えると恥ずかしくなるが、群馬県の英雄の一人に対して大失言をしてしまったのだ。

「俺が新田義貞だったら、越前藤島で流れ矢に当たって犬死することもないし、足利尊氏に先んじて武家の代表者になるんだけどなあ」と。

まさに口は災いのもと(これは言霊と関係している)ってね。

途端に空気が張り詰めた。

「うっ、金縛りで身動きが取れない。なんだこれは」

当惑する俺に、何者かが語りかけてきた。

『よう、おぬしが義貞の立場に居れば、犬死をすることなく、尊氏に代わって武家の代表者になれるのか。だったら、やってみるがよい』

「何奴。早く金縛りを解け」

『我こそは新田左馬助義貞の怨霊、祟り神である。おぬしの大言壮語、実に不愉快である。よって、怨霊の力でおぬしを新田義貞に転生させることにしたのだ。おぬしの様な小者に歴史を変えられるものか。せいぜい四苦八苦して、我を楽しませるがよいぞ。では、死ね』

怨霊(以下祟り神とする)の攻撃が俺に迫る。

ヤバいヤバい、祟り神に襲われて絶体絶命の危機に陥った俺は、走馬灯のように今までの人生を思い出していた。

受験戦争真っ只中で、勉強漬けの日々を過ごした少年時代。アルバイトと奨学金(借金)で何とか乗り切った大学生活。就職活動では就職超氷河期にぶち当たり、百社受けても一つも内定を貰えず、自尊心が跡形もなく崩れ去るのを感じた。やっとの思いで得た退魔師の職も、これしか就職試験に受からなかったからこの仕事をやっているだけで、しかも就職超氷河期だから、本来人気のない退魔師の仕事ですら三十人中一人しか受からなかった訳だし、一緒に退魔師の就職試験を受けた奴らの中には試験に落ちて死んだ奴も普通にいるし、こうなってくると下手に仕事を止めることもできず、つまんねー仕事でも我慢して続けざるを得なかったわけだ。

この、『今から受験者同士で殺し合って下さい。生き残った人を採用します』的なやり方は、本当にやめて欲しいと思う(当時の面接官はこんな事などしていないと言うだろうが、実際試験に落ちた奴は死んでいるのだから、受験者同士で殺し合いをさせたも同然といえよう)。

話は逸れたが、こんな感じで自らを押し殺して、世のため人のため働き続けたのだが、自身の人生に投げやりになっていたせいもあってか、不用意な失言で死地に陥ってしまったわけだ。

別に、恋人や家族もいないから生に執着はないし、この事態は自業自得とも言えなくはないが、このまま祟り神にいいようにされるのは如何にも無念。

ということで、闇落ちして祟り神に一矢報いることにした。

「就職氷河期世代のみんな、俺に力を分けてくれ」

俺は、就職氷河期世代の持つ社会への不平不満や絶望・怨念を一身に集めることで金縛りを打ち破り、祟り神へと突撃した。

「おのれ、祟り神め。覚悟―」

『猪口才な。返り討ちにしてくれよう』

俺が就職氷河期世代から集めた闇の力と祟り神の怨霊の力がぶつかり、大爆発を起こした。

それからどうなったかって?

結局、俺は祟り神に敗北して新田義貞に逆行転生させられたのであったが、俺の集めた就職氷河期世代の恨みの力が大きすぎて、一度に転生できなかったらしい。少しずつ俺の知識が新田義貞へと流れ込み、前世の全ての記憶を取り戻したというのが、今現在の状況らしいぞ。ちなみに、前世で祟り神に突撃する直前に『就職氷河期世代の放つ社会への不平不満や絶望・怨念』を一身に集めたせいか、就職氷河期世代の皆が持つありとあらゆる知識が俺の物となっていた。今後、新田義貞として生活していく上で、こいつは大いに役立ちそうだな。

えー、話を戻そう。

ここは新田荘(群馬県太田市)の安養寺館で、目の前で俺を兄者と呼ぶ男は・・・、弟の脇屋小次郎義助ね。

それで、今は・・・(頭の中を探っている)元弘三年(1333年)四月末で、鎌倉幕府滅亡まで一カ月を切ったところか。

現在の状況は、後醍醐天皇が隠岐から脱出して名和一族と共に船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)に立て籠もっていて、京では赤松勢と六波羅勢が一進一退の攻防を繰り広げ、千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村)を囲む幕府軍の間には厭戦気分が蔓延しているといったところであろうか。

千早城攻めに加わっていた義貞は、密かに幕府追討の綸旨を得たことに喜び、仮病を使って上野国新田荘(群馬県太田市)に帰ってきたんだよね。

そのような状況の下、新田荘に幕府の使者がやって来た。

幕府は義貞に対して、『凶徒退治のための費用六万貫を負担すること』と、『五日以内に納入できない場合、義貞の所領を没収すること』の二点を申し付けてきた。

あちこちで反鎌倉の火の手が上がっていて幕府に余裕がないのは分かるけど、五日以内に『六万貫を負担』というのは急すぎる。令和の時代の価格に直せば六十億円だからね。

いずれにせよ大金だ。長楽寺再建に多額の費用を拠出した義貞に出せる金額ではない。


注:新田一族の氏寺である世良田長楽寺は、正和元年(1312年)又は翌二年の火災により全て灰燼に帰しているが、大谷道海らが発願してその再建に着手し、二十年の歳月を費やして元弘二年(1332年)に再建を果たしている。義貞にとっても、その再建に積極的に取り組むことは一族を結集する好機であったと考えられている。


要するに、幕府は義貞の所領を没収すると言ってきたわけで、それを聞いた義貞は怒りのあまりぶっ倒れて、その際前世の記憶全てを取り戻したわけだ。

常に冷静さを保てないと、戦の天才足利高氏や政治に強い足利直義の兄弟には勝てないぞ。

おっと、弟の義助が不安げな様子で俺を見ているね。

とにもかくにも、新田一族をまとめることもできずに倒幕などできるはずもない。

確かに、西国は後醍醐天皇や楠木正成、赤松円心らが幕府に対して反乱を起こしているけど、武士の本場というべき関東の地に反乱は及んでいないからな。


※鎌倉時代を理解するキーワードとして『天皇御謀反』という言葉があるが、逆説の日本史によると後鳥羽上皇や後醍醐天皇が反乱・謀反を起こしたのは、日本のあるべきよう(朝幕並存体制)に対してだそうです。ただし、この時代の最高権力者は得宗(北条家の代表者)なのだから、天皇が北条家に謀反を起こしたと考えても良いのではないか。それで、日本的儒教によると天皇家が王者だから、謀叛人に御という敬語を付けたという説明では駄目なのだろうか。


話を元に戻そう。

もちろん、北条一族のみ栄える今の幕府に不平・不満を持つ武士は関東にも大勢いるわけで、そいつらを集めて鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府を滅ぼさねばならないのだが、新田一族と寄せ集め集団であの鎌倉を落とせるのか?

いくら北条一族や有力大名が上洛していて数は減っているとはいえ、クーデターなど日常茶飯事で常在戦場の御内人(北条家の家督・得宗に仕えた武士、被官)が相手なんだよね。

本当に、史実の義貞は、よく幕府を攻め滅ぼすことができたな。やはり、足利高氏の命令なり指示があったのだろうか。とりあえず、あの者の意見を聞く必要があるな。

「義助、足利高氏殿の意向を知りたい。岩松経家殿を呼んできてくれないか。お前も知る通り、岩松家の先祖は足利家から新田家に婿入りして新田一族になった経緯があるのだから、経家殿なら高氏殿の情報を何か知っておるのではないか」

俺がこう言うと、義助は

「承知いたしました」

と答え、経家を呼びに部屋を飛び出したのだった。

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