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【現実世界・和風】短編~長編

【コミカライズ】龍神秘湯物語~美味しいごはんと猫と温泉があれば~

皆様の推し温泉、教えてくださーい(๑•̀ㅂ•́)و✧!!

 星月夜。

 繁茂する木立に囲まれた岩場に、いくつもの篝火。

 視界を埋めるほどに立ち上る湯気。


「こ、これが温泉!!」


 水汲みなし、火加減を見る必要なし。

 いつでも入りたいときに入りたいだけ、お湯に浸かれる。

 乳白色のお湯にそーっと片足ずつ入れると、じんわりとしたぬくもりに包まれる。熱すぎず、とろりと肌にまとわりいてきて気持ちが良い。

 すっかり肩まで浸かり、ひびわれた指先で湯をすくいながら空を見上げ、春風(ハルカゼ)は満ち足りた吐息をもらした。


「極楽はここにありましたか……」


 ふと視線を巡らすと、平たい岩の上に小盆があるのが目に入った。

 (ウグイス)と梅の枝の描かれた角型の徳利に猪口。

 いつ誰がなんのために置いたのだろう。不思議に思って泳ぐように近づく。中身は入っているのだろうか、という単純な疑問から徳利を手にして猪口に注いでみると、煌めく清水が流れ落ちた。


(飲めそう?)


 後にも先にも何故そこでそんな判断になったのか。

 思えば、見知らぬ土地と人生初めての温泉で浮かれていた。

 注いでしまったものを捨てるには忍びないと、両手で猪口を捧げ持ち、唇を寄せる。

 一口飲んだ瞬間、心地よい冷たさと仄かな甘味が口の中に広がり、喉を潤しながら雫が滑り落ちていった。


「美味しい」


 それは一生の不覚。

 春風の意識はそこで一度途絶える。

 夢うつつで耳にしたのは、知らない男性の声。


「またたび酒ここに置いたの誰だよ!? 見たことない女の子がひっかかってるんだけど、この娘さん、こう見えて猫なの!?」

「お館さま。その子、お屋敷の新しい女中さんですよ。お館さまが全部生返事なさっている間に手続き終わってます。今日から(スミ)さんの代わりに住み込みです」


 やや呆れた調子で答えているのは、子供のような高い声。


(私の話……? 「お館さま」は、宇田川(ウダガワ)の旦那様……? ご挨拶しなきゃ)


 目を開けようとしているのに、瞼が持ち上がらない。手足もぴくりとも動かせない。

 意識が完全に、暗闇に落ちた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 ――三食まかない付き。給金とはべつに、お仕着せ等必要なものは支給あり。なんといっても一番の目玉は「温泉入り放題」これよ。


 ――やります! やらせてください!!


 卒業間際の女学校で、春風に紹介されたその仕事。

 勤務地は人里離れた山奥、雇い主が没落気味の名家の子息で、職業は売れない作家であると言われても。

 衣食住完備でいま住んでいる街から離れられる、それだけで春風には十分すぎるほど魅力的な条件であった。


(いつまでも伯父様の家にはいられない。下働きを続けたあげく、どこかの(めかけ)にと(てい)よく追い払われてしまう前に、自分の足で出ていく)


 両親を早くに亡くした春風は、伯父の家で暮らしていた。そこでは「置いてやっているだけありがたいと思え」と頭ごなしに言われ、家族ではなく下働きとして扱われてきた。

 同じ年の従姉妹で、一緒の家で育った留奈(ルナ)には、家でも学校でもずっと目の敵にされており、逃げ場はなかった。


 たとえば学校で。

 あるときは、くすくすと笑い、目配せしながら同級生への聞こえよがしな悪口で盛り上がる留奈とその友人たち。

 居合わせた春風は思わず言ってしまう。「留奈、それはいじめよ。だめよ」

 留奈やその取り巻きの「楽しい遊び」に水を差し、場を白けさせる。そのときの、留奈の激烈に苛ついた眼差し。


 家に帰れば「春風がいじめるの。私が、友達の前で恥をかかされたわ」と伯父や伯母にあることないこと涙ながらに言いつけるのだ。

 真に受けた二人から、春風は「どうしてお前はそう、留奈の気持ちも考えずに嫌がることばかりするのだ」と反論すら許されず罵倒され、食事を抜かれたり、折檻すら受けていた。


「学校に行かせてやってるのに、この恩知らずが」「生意気な口をきくな」「黙って受け入れろ」「なぜなんて聞くな」「反抗的な目をしている」「少しくらい見目が良いからとつけあがって、浅ましい女」「身の程を知れ」


 いつも布団に入って、その日一日の会話を思い出す。腫れた頰や打ち付けられた手足より、胸がじくじくと痛んだ。


(せめて学校では、留奈に追従して、一緒に誰かの悪口で笑えばいいの……? そんなことできない)


 やがて、卒業が間近となった頃。

 同級生たちの多くは在学中に見合いをし、婚約を決め、卒業と同時に結婚する運びになっていた。

 留奈もまた例にもれず、大きな呉服屋の次男との結婚話が進んでいた。縁談としては非常に恵まれた内容で、同級生たちからの羨望の的、留奈も鼻高々でいまや飛ぶ鳥を落とす勢い。

 家に帰ればいつも通りに丈の合わないお下がりを着て、下働きをしている春風のもとにきて言うのだ。


「春風はずっとうちにいなさいよ。そうやって俯いて、汚い服を着て雑巾がけをしているのがお似合いよ」


 嘲笑う留奈を前に何も言い返せないでいたときに、女学校の教師より紹介されたのが(くだん)の仕事。

 春風は即断即決をして、家を飛び出した。


 * * *


 宇田川のお屋敷には、数日に一度、街からの御用聞きが通っている。

 その男によると、普段顔を合わせる使用人といえば、家令と女中の老夫婦のみ。しかし、その家令が足を痛めて生活に支障が出るようになり、いよいよ夫婦ともに職を辞して街場に居を移すことになったのだとか。

 春風を荷運び用の荷台に乗せ、馬を歩かせながら男は早口でまくしたてた。


「あのご夫婦がいなくなるって聞いて、あっしも御用聞きは(しま)いにしようかと思っていたところですよ。なにせあの大きなお屋敷で、他の使用人の姿は見たことが無い。旦那様をお見かけしたこともない。それでこの先どうやってと思っていたけれど……。それがまぁ、お嬢さん、あたら若い身空で」


 街からお屋敷までの、長い道のり。深い緑の木々の梢が空を覆い、荷台に乗った春風の頭上にまばらに光を落としていた。

 山道のせいか、昼間でも肌寒い。風が吹くたびに緋色の小袖の袖口から冷たい空気が入り込む。春風は木蓮の描かれた羽織りを胸の前でぎゅっと摘んだ。満足な支度もできない春風に、女学校の先生が「自分が昔着ていたものだけど」とこっそりと(はなむけ)にくれたものだった。


「私は良い仕事を頂けたと思っています」

「この山の中、楽しみは何も無いよ? 街で女学校に通っていたお嬢さんが耐えられるだろうか」

「大丈夫です」


 春風はつとめて明るくはきはきとした口調で答えた。

 街中で暮らしていても、遊びとは無縁。留奈と違い、お小遣いもなく、家にまっすぐに帰ってその日の仕事をするだけ。学校を卒業まで通わせてもらえただけでも御の字だった。


 就職をして家を出ると言った春風に対し、伯父は露骨に「お家柄の良い方だ。お手つきになったらそれなりの暮らしもできるだろう。せいぜいご機嫌を損ねないことだな」と言っていた。そのとき春風を舐め回すように見た目は、しばらく忘れることが出来そうにない。


 時折男から振られる話に相槌を打ち続ける。

 やがて道の先に、春風の勤め先となるお屋敷がその威容をのぞかせた。


 * * *


 晴天の下、高く(そび)える木立の間に建っていたのは、赤煉瓦造りに、スレート葺き屋根の異国風建築。一階から二階まで突き抜ける張り出した出窓が左右にあり、玄関のドアはアーチ型で真鍮の取手がついている。

 重厚な見た目のドアが開いて、女性が飛び出してきた。

 藍色の小袖に羽織り、風呂敷包みを手にした白髪の女性で、御用聞きの男性に挨拶をしてから春風に目を向ける。笑い皺の刻まれた頬に笑みをにじませて「待っていたわよ」と声をかけてきた。

 春風は着物の裾をさばきながら荷台から下り、身の回り品を詰め込んだバッグを両手で握りしめて深々と挨拶をした。


「私は(スミ)というの。澄さんで良いと言いたいところだけど、あなたと顔を合わせる機会はあまり無さそうね。夫が風邪をこじらせて麓の街で医者にかかっているから、私もこれから向かうところ。お屋敷でのお仕事と、旦那様のお世話に関しては、すべて書き残してあります。春風さん、文字は」

「読めます。炊事も洗濯も掃除も、一通り」

「素晴らしい。今晩のお夕飯の仕込みは済んでいるから、火を入れて召し上がって、今日はゆっくり休んで」

「旦那様はどちらに?」

「お部屋にこもって書物(かきもの)をしている。大体、いつもそう。お腹が空けば台所に来るし、お風呂は自分で温泉に入るし、部屋の掃除は嫌がる。進んでお世話するようなことはないのよね」

「ご挨拶は……」


 にこにこと感じ良く説明されたものの、春風としては当然、雇い主には会っておきたい。しかし澄は「いいのよ」と即座に言った。


「書物を中断されるのがとにかくだめな方だから、挨拶は気にしなくて大丈夫。他の使用人も、追々顔を合わせるはず。みんな春風さんが来ることは知っているから、会ったときに挨拶をすればいいだけよ。変な()はいないから安心して。仕事はこの広さのお屋敷だから、掃除をはじめたくさんあるわ。してもしなくても、旦那様は気づかないけど」

「します! そのために参りました」

「頼もしい。坊っちゃんのこと、お願いね。今から早速お屋敷を案内しようと思っていたのだけれど……」


 澄が、御用聞きの男性の方をちらりと気にする。ここまでの道のりがとても長いものであったのは春風にもよくわかっていたので、自分から「大丈夫です!」と明るく言った。


「書き置きをよく読んで、自分でひとつひとつ確認します。わからないことは、旦那様にお会いしたときに聞くようにします」

「本当にしっかりしているのね。良い人が来てくれたわ。あなた、とても良い目をしている。絶対にうまくやっていける。これで私も安心してここを出ていけます」


 口頭でその他いくつか言い置いてから、じゃあね、と軽やかに言って澄は山を下りて行ってしまった。

 見えなくなるまで見送ってから、一人になった春風は、屋敷へと向かう。重いドアを開いて、中へと足を踏み入れた。


「お邪魔します」


 がらんとした玄関ホールに、声がか細く響く。

 磨き抜かれた板張りの床、彫刻の巡らされた木製の階段。高い天井からはシャンデリアが吊られており、煌々と光を放っていた。


(ローソクの火が灯っている。あのシャンデリアを床に下ろして全部に火を付けるのはかなり大変そうだから、それだけのことができる人手があるということ……よね)


 春風は澄に教えられた通り、脇の廊下を進んだ。


(旦那様のお部屋は二階。わたしの女中部屋は一階、台所の近く。そして……温泉はお屋敷の裏手に)


 通り過ぎるドアの数を数えて、たどり着いた部屋のドアを開ける。春風はそこでハッと目を瞠った。


 窓からの弱い光に照らし出され浮かび上がったのは、花柄の壁紙、厚手のカーテン。寝台は天蓋付きであり、タイルや彫刻で装飾された立派な暖炉や洒落た箪笥や布張りのソファまで。

 部屋が間違いではないかと、ドアから飛び出して廊下を行ったり来たりした。それからようやく、そこが自分のための部屋だと確信した。

 これまでの暮らしでは望むべくもなかった美しい部屋。

 壁際に置かれた吊り箪笥を開けてみると、異国風のお仕着せと、フリルの白いエプロンが吊るされていた。


 * * *


 夕方までに屋敷一階を歩き回り、台所を端から端まで調べ、(かまど)で米を炊いた。味噌汁も作り、澄の作り置きしてくれていた小魚の甘露煮と一緒に食べた。その間、他の使用人と顔を合わせることはなかった。

 澄の書き置きによれば、食器を台所のテーブルに用意しておけば、旦那様も他の使用人も自分でよそって食べるということ。それは深夜のこともあるし、早朝のこともある。「待つだけ無駄」とはっきり記されていた。

 それでも、夜ともなれば誰かしら食事に来るだろうと春風は念の為しばらく待ったが、一向にその気配はない。


(いったいこのお屋敷の使用人はどこに隠れてしまっているの? 早めに顔を合わせたいのに)


 春風は一度部屋に戻ってから、温泉に向かった。

 洋風建築一転、温泉へと至る館の奥は豪勢な和風の作りで、庭には篝火が焚かれている。

 他には誰もいない脱衣所に着くと、春風は手早く身に着けていたお仕着せを脱ぎ、温泉に向かって――


 その場に置いてあった酒を飲み、意識を失ったのであった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 目が覚める前、枕元で話し声がしていた。


「お館さま、人間の女の子ですよ。女の子! お館さまが人間じゃないなんて知られたら、裸足で逃げられますからね!?」


(聞いちゃった)


 春風は呼吸を乱さないように細心の注意を払った。瞼がぴくっと反応してしまったが、痙攣したということにして見逃してほしい。


「裸足で逃げ出してもどこへも行けないよ」

「お館さま、そういう話じゃない。死ぬから。この館から不用意に人間が外に出たら、魑魅魍魎に食われて死ぬから。この子、美味しそうだし」


(熊とか狼じゃなくて? このへん、魑魅魍魎が出るんだ……? 魑魅魍魎って何?)


 春風は「うう……」とうめき声を上げてしまった。

 息を止めて誤魔化そうとしたときには、すでに話し声は止んでいた。


「起きましたか、春風さん」


 静寂を割ったのは、若い男性の声。観念して、春風は瞼を開ける。

 目を刺さない程度にやわらかな明かりが灯されており、飴色の木材の天井がうっすら見える。天蓋。割り当てられた私室の寝台かもしれない。

 顔を横に向けると、背の高い人物が立っていた。


 顎の線まで伸ばされた、さらさらの黒髪。細面の顔にはごつい黒縁の角張った眼鏡。すっと通った鼻筋と薄い唇。シャツに、深緑色の長羽織をゆったり羽織って、腕を軽く組んでいる。


「宇田川の……旦那様……?」


 思った以上に体が重く、口もうまく動かない。起き上がることもできないまま春風が問いかけると、書生風の青年は小さく頷いた。

 

水明(スイメイ)です。春風さんは温泉で倒れていました。起きなくて結構です。眠れるようでしたらこのまま朝まで」


 低く、胸の奥に深く染み込む美声。目を瞑った状態で聞いた声と同じなのに、印象が違って聞こえる。この落ち着き払った態度のせいだろうか。

 無骨な眼鏡の向こうに、純黒の瞳。

 潤んだ瞳でぼんやりと見返してから、春風は唇を震わせてなんとか言葉を紡いだ。


「人間じゃ、ないんですか?」

「人間ですよ」


 即答。春風はゆっくりと瞑目し、唇を噛み締めた。

 

(……さっきの会話、明らかに人間のする会話じゃなかったけど、私が気づいているって知ったら、旦那様は困ってしまう。知らないふり、知らないふり)


 もう一度目を開いて、口元に笑みを浮かべた。


「すっごく人間ですね」

「……ん?」

「私が今まで出会ったことがある中でも、一、二を争う人間だと思います。旦那様は、人間の中の人間です。間違いないです」


 まわらない口を懸命に動かし、微笑んでみせる。

 水明は目を(しばたた)いて、春風の顔を見つめてきた。やがて、ひそやかな声で「嘘だ」と呟いた。


「君はいま、僕に嘘をついた。もしかして、さっきの会話、聞いていたね」

「なんのことでしょう!? 人間を見て人間って言っただけですっ!」

「それこそ嘘だ。ふつう、人間を見て人間かどうかは話題にしないよね?」

「しますします。あのひと人間だなぁ~とか、いや~人間だわ~って」

「君、今まで生きてきた中で本当にそんな会話したことある? 何を見て、誰とどんな状況で?」


 くっ、と春風は歯を食いしばって、手を持ち上げると、目元にぱたんと置いた。


「言いません。すみません」


 ちらっと手指の間から目を向けると、いつの間にか水明の横には、真っ白な髪の子どもが立っていた。群青の紬に、綿の入った半纏。顔立ちは人形のように精巧に整っており、猫のような目をしている。

 そして、どう見ても白髪の間に猫のような耳まで。


(猫耳……?)


「お館さま、いきなりバレてらぁ」

龍臣(タツオミ)が大きな声で、人間じゃない、なんて言うから」


 ぼそぼそと言い合う二人を見て、春風は寝台に腕をつき、身を起こそうとする。手首に力が入らず、くた、と崩れ落ちかけたところで、水明が素早く腕を差し伸べて背を支えてくれた。

 ふわりと、抱き寄せられた胸元から焚き染めた香が仄かに薫る。ぬくもりに包み込まれて、春風は間近な位置にある水明の顔を見上げた。


「人間じゃないなら、何なんですか。温泉の神様ですか?」

「どうして?」

「温泉みたいに、温かいので」


 くすっと、水明は笑って春風の顔を覗き込んだ。


「春風さんが作ってくださった味噌汁、とても美味しかったです。具が沢山で。龍臣をはじめ、みんなで取り合いになりました」

「お口に合って良かったです。明日からお料理いっぱい作りますね」

「それは楽しみ」


 そこで水明は、眼鏡の奥の瞳に躊躇いを浮かべて告げた。


「人外枠ということで、許して頂けたら僥倖です」

「何をですか?」

「着物を着せるとき、なるべく肌は見ないようにしました」


 目が合った。困ったように微笑まれた。春風はそーっと視線を自分の胸元に滑らせ、見たこともない赤地に百合柄の浴衣を身に着けているのを確認した。


(温泉で、裸で倒れて……)


 カーっと頬や頭にまで血が上ってくる。

 龍臣がぼそりと言った。


「顔から火吹いてんで。人間もなかなかやるなぁ」


 * * *


「春風さん」


 その優しい声に、丁寧に名前を呼ばれることに、一月過ぎてようやく慣れた。

 水明は旦那様と呼ばれるのは好まず、名前で良いと言う。「澄さんは『坊っちゃん』と言っていました」と春風が言うと「いつまでも子供扱いをして、あのひとは。春風さんはいけませんよ」と軽く睨みつけられた。


「水明さん、今日は凍り豆腐ときのこのあんかけ、さつまいものゆず煮と、緑豆の炊き込みご飯、それに根菜の味噌汁です。山菜のお浸しも」

「ああ、美味しそう。頂きましょう」

「手についたインクや墨は洗い落としてください」


 水明は、おとなしく流しに立って水の張った(たらい)に手を沈めて洗い始める。

 部屋にこもりきりと言われていた水明だが、春風が来た当初「館内に慣れるまでは遠慮なく声をかけてください」と、書物仕事をほどほどに切り上げてよく春風に気を配ってくれていた。

 そのうちに、仕事量を以前のように戻しても「この規則正しい食生活に慣れてしまいました」と、食事時には必ず台所に姿を見せるようになった。

 今では、朝も晩も、二人で向かい合って和やかに会話をしながら食事をするのが習慣になっている。


 お屋敷には、長テーブルの置かれた、立派な食堂もある。いつでも使えるように掃除をして清潔に保っているが、水明はそこまで食事を運ぶのをよしとしない。台所の隅のテーブルで、春風と近い距離で食事をとりたいと言う。

 綺麗に洗った、骨ばって長い指。両手をあわせて「いただきます」と言ってから箸を手に取る。同じように自分の作った料理に向かい、春風も箸を手にした。

 水明の手が茶碗を持って一口ご飯を食べるのを、箸が輪切りにしたさつまいもをはさみあげて口に運ぶのを、さりげなく窺う。


「今日もとても美味しいです」


 にこりと品良く微笑まれて、春風はほっと胸を撫で下ろした。


「ありがとうございます。毎日のことでも、とても緊張します。私は家族から気の利かない人間だとずっと言われてきたので、そのがさつさが料理にも出ていないか心配で」

「それ本当に、春風さんのこと? 僕からすると、お料理の味付けも本人も、とても繊細に感じます」

「まさか。いつも、言わなくても良いことを言うとか、人の気持ちがわからないと言われてきました。実際に、そうなんです。私、何をしてもひととずれているんですよ。だから、料理の味付けだって、本当はずれているんじゃないかって」


 育った家ではいつも罵倒されていた。思い出して涙が浮かびそうになり、あわてて目を瞬く。

 水明はそれを見逃す気はないらしく、眼鏡の奥から純黒の瞳で春風をじっと見てきた。


「春風さん。そういうときは、無理に笑わなくて良いです。あなたを傷つけた人間のことなんて、もう思い出さないで欲しい。僕は、春風さんともっと早く会えていたらと、自分に怒りを覚えています。その過去は変えられないけど、この先の未来は守れる。春風さんには僕がついています」

「ええと、はい。このお屋敷で働けて、私も幸せです。できるだけ長くお勤めしたいと……」

「あなたの謙虚さを思えば、そういう返事になるか。僕は、春風さんを僕の家族に迎えたいという意味で言っています。いつまでもここで僕と暮らすんです。必ず大切にします」


 真剣すぎる水明のまなざし。春風の次の言葉を待っている。


(家族に……、いつまでも? 水明さんと、私が?)


 そこに、カラリと引き戸の開く音がして、やけに大きな真っ白の猫が入ってきた。


「龍臣くん、おかえりなさい」


 春風が声をかけると、猫は瞬く間に、猫耳少年の姿に変化した。


「ごはんごはん! おなかすいた! わーっ、美味しそうっ」


 言ったそばから、自分で食器を手にしていそいそとよそいはじめる。春風が立とうとすると「いいって」と毛を逆立てるので、手は出さない。

 ちらっと見ると幸せそうにお玉をもって味噌汁を椀に注いでいた。

 猫とひとを行き来する龍臣は、猫又というらしい。人間ではない。


 他にも誰かがお屋敷にはいるようだが、春風はまだ顔を合わせていない。龍臣のように「人外枠」なので、必要があるときまでは認識出来ないだけだと、水明は言う。


 結局この日は、水明との会話はそこで有耶無耶になってしまった。

 

 * * *


 夜、春風はゆっくりと温泉に浸かる。


 湯殿の篝火や、館内の灯火は龍臣の役目。気がつくとどこも滞りなく明るく照らし出されている。人外の能力というのは計り知れないものがある。

 乳白色の湯を手に取り、するするすべり落ちていく様を見てから、春風は肩や腕に触れる。

 一ヶ月で、肌はどこもかしこも劇的なまでにつるつるとなめらかになり、髪までつやつやになった。水仕事をしていても手荒れすらしない。


(ここにきたときに体についていた痣や、古い傷跡も……。あのとき「肌はなるべく見ないようにした」と水明さんは言っていたけど、きっと気づかれている……。いまは嘘みたいに消えた)


 ――僕は、春風さんを僕の家族に迎えたいという意味で言っています。いつまでもここで僕と暮らすんです。必ず大切にします。


 春風の料理をいたく気に入っている水明だけに、人里に帰ってほしくないという圧を最近強く感じる。


(心配しなくても、私にはここ以外どこにも行く場所はないというのに。人並みに結婚したり家庭をもつことはもう無いでしょう。だけど、水明さんがそばにいてくれるなら……)


 そこで、胸が刺すように痛んだ。

 人外とはいえ、見た目は若い男性の水明だ。いつか伴侶を迎えるのかもしれない。それでも春風をこのお屋敷には置いて「大切」にしてくれるかもしれないが、仲睦まじい二人を見ながら働き続ける自信が春風にはない。


 そもそも水明はいったい何者なのだろう。

 春風は、湯を手ですくいあげる。手首を伝い落ちる湯に、愛しむようにそっと唇を寄せた。


(何者かはわからないけれど、今が一番幸せです。私も、水明さんのおそばにずっといたい)


 * * *


 明くる日のこと。

 悪夢はなんの前触れもなく訪れた。


「おお、春風。大変なことになった。早くうちに戻ってきておくれ」


 掃除の合間に外へと出ようとした春風は、玄関前で伯父と顔を合わせることになった。予期していなかった出来事に、春風は呼吸も心臓も止めてしまいそうなほど驚いて目を見開いていたが、伯父は何も気にせずに切り出した。


「今こそ恩を返すときだ、春風。実は留奈が、嫁ぎ先の安積(アヅミ)屋で、御子息の目の届かぬところで番頭と乳繰り合ったなどと……。この上は、どうしても所帯をもたせてほしいというのだが、結婚間近のこの時期に息子の顔に泥を塗られたと大旦那様はひどくお怒りだ。それならそうで、我が家には春風という娘がもうひとり。幸いお前は見目が良いし、女学校にも通わせていた。はじめから縁組はこちらとのことであったと、周囲に押し通してしまえばいいということになった。大旦那様もお前を見かけたことがあると乗り気で、まずはその娘を早う連れ帰れと」


 いきなり腕を掴まれて、春風は「痛ッ」と小さく悲鳴を上げる。それから、負けるものかと気合で床を足で踏みしめ、断固として言った。


「伯父様、育てていただいた御恩には感謝いたしますが、私はすでに家を出た身です。戻りません」


「聞き分けの悪い奴め。女中だなんだというが、どうせ宇田川の当主のお情けでも受けているのだろう。男を知った体で街に戻ってきてもお前のような女にはまともな縁談など無い。これはお前の為でもあるのだ。ご子息を色で虜にして言いくるめ、よく安積屋の大旦那様にお仕えし、精一杯身を粉にして働きなさい。留奈への怒りをといてもらえるように」


 あまりにも身勝手な言い分。春風はなんとか腕を逃れて玄関ホールへと身を滑らす。


(水明さんっ!)


 心の中で叫んだ瞬間。

 春風と伯父の間の空間に、吊り下がっていたシャンデリアが勢いよく落ちてきて、床すれすれでぴたりと止まった。


「薄汚い人間の匂いがする」


 地の底から響き渡るような低音が、玄関ホールの階段を下りてきた水明の口から発せられた。

 いつもの眼鏡をしていない水明は、研ぎ澄まされた美貌もあらわに、春風の背後の男を睨みつけていた。


「よくも春風さんに触れたな。その腕切り落して魑魅魍魎共に食わせてやろう。味をしめた奴らがお前の体すべてを食い散らかすため街まで追いかけていくだろう。ついでに同じ血を持つ者も余さず食らってしまえば良い」


 怒気をはらんだ声に、伯父がすくみ上がるのを感じつつ、春風は水明を見上げて言った。


「それでは、私まで食べられてしまいます! 血の繋がりが、ありまして」

「大丈夫だよ、春風さん。あなたは僕の家族になってしまえば良いんです。人間とのつながりを断って」


(人外のお誘いだーー!!)


 ひぃっと悲鳴をもらして、伯父がその場にへたりこむ。

 長羽織を翻して階段を下りてきた水明は、春風を背にかばい、硬質に澄んだ声で告げた。


「幼い春風さんに軒先を貸し、この年齢まで生かしてくれたことに関しては礼を言おう。しかし、その年月で春風さんに負わせた心身の傷はあまりにも多い。今この場で貴様を引き裂いて血の海に沈めたいところだが、もはや貴様の命程度では償いきれはせぬ。この先、貴様に連なる者たちの身には『龍の逆鱗』に触れた呪いが刻まれる。警告を無視し、非道の罪を犯したときには、すぐさま私の手の者が目印めがけて向かい、その身を引き裂くだろう。ただの脅しだと思うなよ。……行け」


 水明の最後の命令により、呪縛を解かれたように立ち上がった伯父はばたばたとドアを出ていく。

 それを見送ってから、水明は春風を振り返った。


「春風さん、辛いのによく言い返していましたね。怖い思いをさせてごめんなさい。あの男に、この屋敷までの侵入を許したのは僕の落ち度だ。二度とここには来られないようにするから」


 にこっと笑みを深めて言われて、ふっと緊張の切れた春風はその場にしゃがみこみそうになる。

 大股に距離を詰めてきた水明が、その春風を腕の中に抱き寄せた。


「水明さん……、助けてくれて、ありがとうございます」

「うん。春風さんはすでに、僕にとってかけがえのない存在です。大切にします。僕とここでずっと一緒に暮らしてください。これは求婚の意味です。受けていただけますか」


 水明の腕の中で、春風は「はい」と答えた。ありがとう、嬉しいです。そう言って、水明は春風の額に唇を押し付けた。


 * * *


 湯気が空まで立ち上る星月夜。

 湯殿にほど近い岩場で、月を見上げる猫と青年。


「始末しなくて良かったのか、あの人間」

「招かれざる人間は来られないように、この家の周りに結界をめぐらせました。それに、あの男とその家族には僕の呪いがあります。春風さんを傷つけたことを、僕は決して許しません」


 のんびりと猪口を傾けて、酒を飲みながら話し込む。

 やがて、青年は背後を振り返り、声を張り上げた。


「春風さん、お湯加減いかがですか?」

「はい、とても心地よいです!」

「それは良かった。僕も一緒に入って良い?」

「え……ええっ。だ、だめです。あの、もうあがります」

「いいよ、冗談。驚かせてごめんね。ゆっくり入っていて」


 言い終えて、青年、水明はふふっと笑みをこぼした。

 猫から少年の姿になった龍臣が、ちらりと嫌そうな顔を向ける。


「お館さま、気持ち悪い」

「このまま春風さんが毎日温泉に入り続けてくれれば、晴れて春風さんも人外ですね。楽しみだな」

「早めに打ち明けなよ、不老の湯だって。龍神さま」

「求婚は受けてくれましたので、追々」


 あははは、と水明は軽やかな笑い声を上げた。



 とある山奥の秘湯、その名も龍神の湯。

 効能は不老とまことしやかに伝えられているが、その地に住むものの招きなくしてひとはたどりつくことができないと、後の世の伝承には記されている。


 そこには、涼しいまなざしの龍の化身と麗しい乙女の夫婦が、仲睦まじく暮らしているという。


★2022.10.31発売 「虐げられ乙女の幸せな嫁入り アンソロジーコミック 」(一迅社)にコミカライズ作品として収録されています。公開時「お好きな温泉おしえてください!」と募ったおかげで感想欄が温泉だらけのこの作品ですが(ありがとうございます!)、ぜひそのとき楽しんでくださった方も、これから出会う読者さんにもお楽しみいただければと思っています……!


【以下は、公開時から皆様のご協力のもと随時書き足している温泉メモです!】


★この作品は架空の世界での物語ですが、温泉に入りたい気持ちをこめて書きました。

 もしよろしければ推し温泉教えていただけると嬉しいです。


 作者は北海道函館市の出身です。「湯の川温泉」を推します。

 それと、現在岩手県を舞台にした小説「ステラマリスが聞こえる」を100万字以上書いていますが、作中で扱っているのは雫石の温泉です。焼走り温泉も好きです!!

 温泉行きたいです(๑•̀ㅂ•́)و✧



(2022.11.12. 11:55更新)


★現在までに感想欄&コメント欄&レビューで情報を頂いた温泉


龍神温泉(和歌山)龍神温泉!?(・∀・)



嬉野(佐賀)

雲仙(長崎)

別府(大分)4

湯布院(大分)1

指宿(鹿児島)

二日市温泉(福岡)

黒川温泉(熊本)


道後温泉(愛媛)

蘇鶴温泉(高知)


大洗温泉(茨城)

袋田温泉(茨城)

鬼怒川温泉(栃木)

那須鹿の湯(栃木)2

草津温泉(群馬)

伊香保温泉(群馬)

水上温泉 釈迦の霊泉(群馬)

伊豆(静岡)

切明温泉(長野)

飛騨高山(岐阜)2

湯楽の里(千葉)

箱根(神奈川)


村杉温泉(新潟)

弥彦温泉郷さくらの湯(新潟)

和倉温泉(石川)


登別温泉(北海道)3

湯の川温泉(北海道)3

小金湯温泉(北海道)

番屋の湯(北海道)

ひろめ荘(北海道・南茅部)

白銀温泉(北海道)

十勝岳温泉(北海道)

旭岳温泉(北海道)


秋保温泉(宮城)2

酸ヶ湯温泉(青森)

作並温泉(宮城)

銀山温泉(山形)

天童温泉(山形)

上山温泉(山形)

小野川温泉(山形)


城崎温泉(兵庫県)


たくさんご協力頂きありがとうございまーす!!

このたくさんの地名、見ているだけで楽しくなってきますね!!!!

あなたの推し温泉は入っていますか? 地元はありますか?

「あそこが入っていない!!」もしくは、「○○に票追加だ!!」と思った方はどうぞ書き残して行ってくださいませ(๑•̀ㅂ•́)و✧



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― 新着の感想 ―
[一言] 有沢さんのお話しをここ最近読み続けて、やっと感想が書ける作品にたどり着けました。 このお話しはちょっと辛い場面がありますが、今まで読ませていただいた物はふんわりと柔らかい感じでもれなくハッピ…
[一言] お久しぶりです。高橋マヤ、改め高橋ココです。 人間について会話するかという言い合い(?)、笑ってしまいました(笑) ちなみに私は、秋保温泉に一票です! ホテル瑞鳳、とてもいいところでしたよ。…
[一言] こちらもコミカライズ、おめでとうございます! 「虐げられ乙女の幸せな嫁入り アンソロジーコミック 」 会社の帰りに買って読みました! 確かに、美味しいごはんと猫と温泉とイケメンと酒があれ…
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