第二話 作者とおばあちゃん
第二話 作者のおばあちゃん
6月の中間地点についた時、作者水野は悩んでいた。思春期男子のほとんどが同じ悩みを持っているはずだ。別に恋愛とかじゃない、もちろん女子との関係性でもない。簡単には表せない悩みだ。3年になると、上級生と言う肩書と受験生という、名前まで余分に手にれてしまった。
母
「受験生なんだから、勉強しなさい!」と中三の子供を持つ母親の脳に配られた台本を棒読みされてもこまる。だが、少しだけ新鮮味を感じることができる・・・・ともいえない、中一から、中三まで、『勉強しなさい』の単語を言いきかされた僕にとって、新鮮味なんて、感じられない。むしろ「いい子ね」と言われたほうが驚きと感動を味わうことができる(恥ずかしいほうが90%)
いい子ね・・・・・僕は、幼稚園、保育園の先生とかに言われたことがあるのだが、家族とかに言われたことはない。一回はあると思うのだが、それは、「心のこもっていない」いい子ね、である。読者の方々は、いい子ねと言われたことがありますか? 特に祖父母に言われたことは・・・・今回の物語は、僕がおばあちゃんとの思いでの話です(まとも)
1
4年生に上がる前の正月、僕は、おばあちゃんが入院している病院に見舞いに行った。正月も病院に閉じ込められているおばあちゃんを見ていると、こっちまで悲しくなる。そのころの僕は、そんなこともつゆ知らず、お年玉をねだりに行くことしか頭になかった(何かサイヤク)
家の車は古いパジェロで今では、家族四人でどこかに行くことができないほど小さかった。その箱のようなところで『お年玉何買おうかな』と、心を輝かしていたはずだ。たぶん姉もそうだと思う。
車から外に出ると、雨交じりの風が顔にかかる、僕はそれを掃うことなく父の後ろをついて行った。
古い病院でお化けでも出そうなくらい、寒々していた。その時に案内してくれた、看護師の顔が今でも脳裏の中でうごめいている。
似合わない、ナース服に濃い化粧、おまけにパーマとぶくぶくの腹。僕はそのころ、その看護師のことを「山姥」や「ゴジラ」と呼んでいたに違いない。
「ここが・・・・・・」
ゴジラが聞き取りにくい、博多弁で言っていた。そのころの僕は、ほとんど標準語。
父
「お母さん・・・・・」
僕の記憶によるとそう言っていた。声を変えて行っているような、爽やかな声であったことは、脳裏以上に耳が覚えていた。
そのころのおばあちゃんの姿は、皺くちゃの雑巾に似ていた。手触りは表せるものがなかった。
そのあとも、おばあちゃんと父、そして姉との会話が続いていた。僕に話題が来ることはなく、半日の沈黙が僕と対話していた。
2時間〜ちょっと、たった時におばあちゃんが
ばあちゃん
「ぼく・・・・こっちにおいで」
と言われた。僕は、おばあちゃんから「コウシン」と呼ばれたことは一度もない。ただ一言
「ぼく」と言われるだけだ。
ばあちゃん
「はい・・・・これ」
ばあちゃんがくれたのは、札一枚であった。5000円札をもらった。そのとうじ、僕は5000円札が珍しくてたまらなかった。
そのあとのことは、頭に残っておらず、忘れていた。
それから2年と半月、おばあちゃんは他界した。僕は葬式に行くことができず、少しだけ、罪悪感を覚えた。
僕が行く予定であった、中学校も引っ越すことになり、行けず、違う中学校に行くことになった。
その時、内心嬉しさもあった。そのころ、サッカーにドップリと付け込んでいた、僕は、サッカー部のない、中学に行くのが嫌だった。
その時、どっちを取るかという判決を決めなければなかった。究極の選択 友を取るか、部活動をとるか・・・・・・と、選ばなければならなかった。
そして・・・・・
僕は・・・・・
部活動を取った。
その判決がよかったのかは、わからない。だけど、それがいいとか、それが悪いとか、もう言えない。
一度決めたことに責任を持たなければならなくなることもある。
部活に入っても、足が駄目になり、辞めることになるし、どちらをとってたらよかったのか、もう、どうでもよくなっていた。
最初は、おばあちゃんの他界を喜ぶようなことをしていたが、今になっては、罪悪感と矛盾感が頭の中でシェイクされている。その言葉達は、水と油、火と水、猿と犬のように交わることはない。
僕は、感謝したらいいのか? 感謝せず、死を悼んだらいいのか?
分からなかった・・・・・・
終わり