『国』という言葉に、君は何を想う
私は国を訴えた。見事に勝訴しそのまま確定した事で賠償金を得る事が出来た。
「国は敗訴し上告を断念しました」
そういった報道がされた。だがそれを省みるにあたって、何か違和感を覚えた。
『国が』という言葉は往々にして『国民が』という言葉に置き換える事が出来る。『国』と言われるとまるで他人感、若しくは日本と言う国家を擬人化した様にも感じ、その擬人化した「国」と呼ばれる人に責がある様に思う事もあるが、『国を訴える』というのは『国民を訴える』と同義でもある。
『国が賠償金を支払うことで合意した』
『国を相手取って訴訟を起こした』
『国が訴えを起こした』
『国から交付金を貰って建物を建てた』
『国が支援すべきだ』
毎日各種媒体で流されるニュースではそんな風にして世に出される。だがそれを言い換えると受け取る感覚は異なる。
『国民が賠償金を支払うことで合意した』
『国民を相手取って訴訟を起こした』
『国民が訴えを起こした』
『国民から交付金を貰って建物を建てた』
『国民が支援すべきだ』
それだけで他人事だった話が自分に近い話だと感じる。
政府が大まかな政策を提言し、具体的な政策立案を官僚が作成し、委員会で以って審議を尽くし、国会での採決を経て政策が施行される。官僚主義と言われてはいるものの、それが民主主義であるこの国の制度である。そして審議や採決、行政の監視監督に携わる国民の代表と呼ばれる国会議員は選挙を通じて選出されている。その選出された議員達の中から総理大臣と呼ばれる存在を選出し政府が形成される。間接的ではあるが我々国民が大まかな政策を提言し、審議や採決、行政の監視監督をしているという事になる。故に、行政の不始末は我々国民の不始末であり、施行されている法案は国民が望んだ法案であるとも言えよう。
時に議員を含む行政や政府は黙して語らず、全ては闇の中にといった事が日常とはなっている。何らかの不都合が報道されたとしても、「法律に則って対応している」「違法では無い」と言い張る。100歩譲って法に縛られる行政職員であればまだ理解もするが、法律を提案提言採決する立場にある議員であってもそれを口にする。とはいえ、沈黙を保ったままに離党、辞職、若しくは引き籠るといった議員も珍しくは無い中で、口を開くだけましなのかもしれない。
若い時には変化を望む者も多いが、どちらかと言えば保守的でもある我々日本人は安定政権を望む。年代を問わず良い生活を望むにしても、加齢と共に大きい変化は望まなくなる。
稀に政権から離れる事はあるが、最大政党である保守系の政党が長期間政権を担っているのはそれ故であろう。仮にその政党に於いて何らかのスキャンダルが発覚し、近く選挙があったとしても往々にしてその政党には与党となれる程の票が投じられるのだろう。
アメリカの様な2大政党制であれば常に野党が受け皿となりうるかも知れないが、日本に於いては最大政党である保守系の政党以外は細切れの様な政党が存在するだけである。その内の一部の政党は最大政党と歩調を合わせてはいるが、それ以外の政党は常に野党という存在である。それらの野党同士で過去連立政権が組まれたが、政権に不慣れという事も手伝ってか国民の期待に応える事は出来ず、解散しての総選挙では惨敗を喫した。国会等の政治に関する報道ではドラスティックな場面や面白い場面ばかりを切り取りフィーチャーする。その報道の姿勢のあり方にも問題があるのかも知れない。そういった報道でなければ我々国民が関心を持たないという側面があるのかもしれない。それを意識したが故なのか、野党は大衆迎合しすぎて国民に多大なる期待を持たせ、自らハードルを上げてしまったのかも知れない。まさか政権が取れるとは思っていなかったが故に大言壮語を吐き過ぎたのかも知れない。そしていざ政権をとってみたら実現するには難しい事ばかりを口にしていたという事なのかもしれない。意見が異なるからこそ政党が分かれている訳であり、それら多くの政党で連携を取ろうとすれば妥協に次ぐ妥協といった政策しかとれないという事なのかも知れない。国民の中には今だにその印象が拭えていないであろうが為に受け皿となりうる野党が存在しない状態とも言える。仮に細切れの野党に票が集まる状況になったとしても、細切れが故に票が分散し、圧倒的な票を集める党が存在しないであろう事は想像に容易い。仮に圧倒的な票を集めたとしても単独で政権を担える数がいる訳でも無いが為に連立を組まざるを得ない。そしてその連立政権は再び妥協に次ぐ妥協といった政策しかとれずに短命に終わる事も想像に容易い。
故に、スキャンダル等で多少議席数を減らす事があろうとも、最大政党である保守系の政党からすれば自分達の受け皿となる政党は存在しないという安心感が生まれているのかもしれない。逃げて隠れて隠して黙ってと、そんな事をしても安泰だと言う驕りが生まれているのかも知れない。そんな巨大政党が心配しているのは内部に於ける派閥争いだけかもしれない。大きな変化を好まないという国民性も関連しているのかもしれないが、それは総じて我々国民の責任であるとも言える。
不透明感のある議員報酬や税金の無駄遣いといった事を報道でよく見聞きする。立憲君主制と呼ばれ事実上民主共和制のこの国に於けるそれは我々国民の意思の結果であるとも言える。ガソリンで言えばガソリン税に対して消費税が掛かると言う2重課税状態である。産油地域で問題が発生すればすぐにガソリンの価格は跳ね上がり、同時に消費税分の価格も上がり国民の生活に直接影響を与える。政府からすれば勝手に税収が増えるだけ。そんな不思議な状態すらも正せない。資源の無い小さいこの国は経済で成り立っているにもかかわらず、その主軸たる消費が悪いとでも言うような消費税を看過しているのも我々国民である。「あれして欲しい、これして欲しい」と言った結果税金が上がった。それは我々国民が望んだ結果であるとも言える。過度なまでに公平平等を求める結果、世間の声を心配して政府行政の動きが鈍くなる、全ての事に対して躊躇させる、決断を先延ばしにさせるなんて事もあるのかも知れない。それは総じて我々国民が望んだ結果であるとも言える。諸々の問題があったとしても、それを正せない事は我々国民の責任でもある。
日本国の債務は1000兆円を超えているという報道も良く見聞きする。だがそれは他国に借金している訳では無く、自前で発行している「円」でもって中央銀行たる日本銀行にその殆どを借金している。最大の債権者であり身内とも言える日本銀行が『国』の赤字国債を買っている。否、『国民』が日本銀行に毎年借金している状態である。日本銀行は身内と言ってもいい関係でもあり、いざとなれば債権放棄して貰う事だって不可能では無い。故に、債務額が地球史上で最も高額とも言える1000兆円という金額であったとしても、余程の事が無い限りは決して日本が破綻する事は無いとも言える。それを念頭に置いているのか不明ではあるが、この国は現時点に於いても借金を続けながらに存続している。史上最大と言っていい程の債務を今現在も増やし続けながらに自転車操業している。万が一の話、IMF等の世界金融の制御を行なっている組織に於いて、「国家債務はGDPの2倍まで。それ以上は破綻とみなしIMFが強制介入する」なんて制度が出来たら真っ先に日本は介入される国である。
だが報道の問題なのだろうか、私の意識が低いだけなのだろうか。それら全て『国が』という報道の仕方をされる事で他人事のように感じてしまう。擬人化した『国』と呼ばれる者の責任だと感じてしまう。それは私だけなのだろうか。私以外の人はちゃんと自分の事として受け止めているのだろうか。仮に日々流されるニュース等に於いて使われる『国』という言葉を『国民』と言い替えた場合、皆はどう感じるのだろうか。特に何とも思わないのだろうか。
国を訴えれば結局は自分を訴えているのと同義なのではと漠然と頭では思ってはいたが、言い方一つで他人事に感じるのは、私だけであろうか。
200年以上前に書かれた手紙にはそんな事が書いてあった。白かったであろう紙は茶色く変色し、下手に扱えばボロボロと崩れ去ってしまいそうな程であった。
しかし、そんな言葉の言い方1つで悩んでいたとは平和な時代だなとの印象を覚える。国家そのものがという問題がその後に起きるとは予想もしていなかった事だろう……。
『人類にボーダーは要らない』
今から100年程前、そう言った掛け声のもと、時には血を流しながらも紆余曲折を経て人類はボーダーを消し去り、『国家』と言う物を消し去った。皆が皆、何処へ行こうが問題無く、密入国や移民問題等も無くなり文字通り自由となった。
その結果、水が低きに流れるが如く、人も同じで肥沃な土地、生きるのに便利な土地へと集まった。
だが国家が消え去ったと同時に福祉と言った概念も消え失せ、治安維持をする組織も消え去った。群衆は降り注ぐ程に明るい未来を求めて集まった訳ではあったが、秩序が無いままに集まった群衆に降り注いだのは、世紀末マンガのような暴力が支配するという現実だった。人権といった概念すらも存在せず、文字通り弱肉強食という言葉が支配し、そこでは多くの命が消え去った。
国家と言うボーダーは消え失せた。だが暴力によって支配されたその場所では結局ボーダーが作られた。暴力の中、弱肉強食を勝ち抜いた者が王を名乗り皇帝を名乗り、結局は「国」という単位の物を作った。そういった物が各地に生まれ始めると、それらの国同士が更なる資源や土地を求めて奪い合うという争いが起き始めた。
争いの結果、勝者はそれらを併合していく事で「国」を大きくしていった。折角国家というボーダーを消し去り自由に行き来する事が出来るようになったまではよかったが、「やはり国家という単位は正しかった」と、人々はようやく気が付いた。国家単位での法による人の支配、統制が必要であると、それらが無ければ無秩序な修羅とも言える状態になるという事に気が付いた。
争いは何十年にも渡り続けられた。そして徐々に大国といった大きさにまで併合が進むと、争いが少なくなると同時に対話によって物事を決めようという気運も生まれ始めた。
そして現在、国同士の争いはほぼ無くなった。独裁者が治める国、支配層が治める国、代表者を選出して治める国、中には神を名乗る指導者によって導かれる国といった過去同様の多様な国家が形成されていた。そして過去に「国連」と呼ばれた組織同様の「地球連合委員会」という名の組織も形成された。そこで掲げられた第一の憲章は「全ての人は国を離脱する事が出来る」という物であった。同時に「国籍は一人に一つである」「どこかの国家に所属する事」と掲げられた。離脱すればどこかの国へと所属する事を余儀なくされるが、かといって自分が望む国に必ず行ける訳でもなく、あくまでも相手の国が受け入れてくれればの話であるので好き勝手に国家移籍出来るものでは無い。
私も200年程前の世界地図を見た事があるが、その時とはまるで境界が異なる世界が今ここにある。だが国家の在り方からすれば概ね同じ道を辿っていると言えるだろう。
今では殆どの人が「国」という単位は正しいと考えている。人が集まればそれなりに統制する存在が必要であると考えている。それが国家であると考えている。国家それ自体が問題ではなく、単にそこを治める為政者が暴君であれば地獄と化すだけであり、暴君でなくとも私利私欲に動けば同じ事。独裁制であれ共和制であれ、結局は為政者次第であり、優秀な為政者がいれば良いという事なのだろう。
内容から察するに手紙の主が住んでいたのは民主共和制の様であるが、それに不満があったのなら自分が主体的に動いて変えていけば良いだけの話である。若しくは何処か別の国へと移り住めばいいだけの事である。そしてその時代には民衆のデモや政府軍によるクーデターにより度々首長の首のすげ替えが行われていた事もあったようではあるが、それにより良くなったという結果はそうそう無いと本で読んだ事がある気がする。明るい未来を信じて首長に退陣要求したとしても早々変わるものではないという事だろう。そんな状況から国家を立て直すのは尋常ならざるものでもある事も想像に容易い。最低でも数年は要する立て直しに対して「明日からは良くなる」と民衆は夢を見ていたという事だろう。それが叶わないと再び退陣要求し、時には暴徒化するを繰り返していただけなのではないだろうか。その結果、国家を、ボーダーを消し去るに至ったのではないだろうか。
そして長い時を経て再び国家が作られボーダーが作られた。現時点においては大きな争いも無く国家と言う単位が保たれてはいるが、いつの時代でも常にアンチな人間は存在するようだ。
「境界を無くせ、人類にボーダーは要らない」
「人は自由であり平等であるべきだ」
過去同様そう言ったスローガンを高らかに掲げる者達が現れた。乏しい資源の国家に生まれたから厳しい生活を送るのは不条理であると、地球の資源は地球に暮らす人々に平等に分け与えられるべきであると。資源大国に日夜不満を漏らし、時には直接的な行動に出る者も現れ、それに呼応する者も現れている。ひょっとしたら再びボーダーが消滅する日が来るのかも知れない。そうして人類は定期的に同じ事を繰り返していくのかもしれない。
私は独裁者が治める国に暮らしている。仕事も住居も配偶者も独裁者によって決められた。ある程度の情報統制もされ、今の世界の様子を細かく知る術は無い状況である。そのような国の在り方に異論を挟む人たちも存在するらしいが、私自身満足している訳でもないが特に不満がある訳でもない。生き方に正解は無く人それぞれであろう。独裁者によって与えられた配偶者であっても今となっては大事な家族である。そんな自分の家族がそこそこに幸せであれば何でも良い。国家がどうのこうのなんて私にはどうでもいい。きっと今の私は幸せなのだ。
2020年02月08日 初版