002
発端は何だったのだろう、と思うと、やっぱりこの瞬間だったと思う。
「あっ」
男の子にしては高い声が背後から響いた時、私はと言うとちょうど目の前から花山院と西門がやって来ているところから逃れようと、素知らぬふりで後ずさっている最中だった。後ろからの声の主が誰か、なんて思い至る頃には私自身は振り返っていたし、おまけに真っ白なワンピース型の制服にじんわりと染み渡る冷たさを感じていた。
後ろを向くと、そこにはクラスメイトの花野井透くんがいた。
ウェーブがかった黒髪に大きな瞳、長い睫毛。華奢な体躯。
169㎝と女子の平均よりは高い背が功を奏しているけれど、何を隠そう彼こそが、この『わたとげ』の世界のヒロインなのだ。
男装中は透で、本名は透子ちゃんって言うんだよね。
もっとも、本人は目立たないようにしたいのか、基本的には髪はもさもさで伊達眼鏡を掛けているから、学園の中の評価は「庶民のオタク」って事になってるけど……間近で見ると肌のきめ細かさが目立つしやっぱり可愛い。さすが少女漫画。やっぱりヒロインはかわいくなくっちゃね。
ふと透子ちゃんの手に視線を落とすと、ちゃぷちゃぷと波立つじょうろ。なるほど、ぶつかってこれが掛かっちゃったのか。私がいきなり後ずさっちゃったからなぁ。
状況をそう整理するのは簡単だったのだけれど、残念ながら私はポンコツなので、まず出た第一声は「つべたっ」とお嬢様感が欠片もないそれだった。
「あああああぁあ白鳥さんすみません! 大丈夫ですか!?」
「えっ、あっイヤ違うのよそういう意味じゃなくって」
「すみませんクリーニングを……ああでもこの学園の制服特注だから、その辺のクリーニング屋さんにお願いするのはいけませんかね……」
「あの、大丈夫ですから、むしろちょっと静かに……」
そう、出来るだけ気付かれない前に……!
――――そう、思っていたのに。
「透? どうかしたの?」
「…………………」
私のささやかな願いが通じることもなく、目の前からやって来た花山院と西門はもちろん透子ちゃんに気が付いた。まあそりゃ現状この三人は仲が良いうえに、西門はもちろんのこと、花山院も甘やかな恋の芽生えを薄々感じ取っているのだからなおさらだ。
気付かれてしまったのだから仕方がない。私はくるりと二人の方へと振り返った。
「あら、ごきげんよう。花山院さま、西門さま」
「あ、白鳥さんだったのか。こんにちは」
「……何話してたんだ、花野井と」
武士が鋭い睥睨(といっても正直西門の目つきが悪いのは今に始まった事じゃないけれど)はささっと無視して、私は背後を見せないように振る舞いながら微笑んだ。
「取るに足らない事ですわ。ね、花野井さま?」
「えっ、いやいや白鳥さんにとってはかなりおおごとというか、あの、早く脱っムゴゴゴ!?!」
「白鳥……何でもないと言うならなんで花野井の口を塞いでるんだよ」
「あら。花野井さまったら危うく口に虫が入るところでしたのでわたくしが直々に塞いで差し上げましたの」
「そうなんだあ、優しいねえ白鳥さんは」
「平馬おまえ……」
「ん?」
「……いやなんでもない……」
背後が冷たいのは気にはなるものの、中身が転生者だろうが腐っても白鳥家の令嬢である。制服のスペアぐらい連絡すれば手に入れられるし、ぶっちゃけ濡れたぐらい乾くし交換も良いかなとは思うんだけど、それじゃ透子ちゃんが意地でもクリーニングを言い張りそうなんだよな。家にスペアがある事も知っているのであるものはさっさと使っておくことにする。
それに、この高等部に入学してから二か月。多少家の事で関わる機会を除いて、私は花山院、西門、そして透子ちゃんの三人とは極力交流を持たないように避けてきた。その努力をこんなところでなかったことにするつもりはない。
私が前世の記憶を取り戻してまず第一に決めたこと。それは、基本的に花山院をはじめとした『わたとげ』のキャラと関わらないということだ。友人はもちろんのこと、恋情を抱くなど持ってのほか。武士のことは読者の時はファンだったし、今でも見るとキュンとはするけど……。正直私もオタクの端くれである。転生ものだって散々読んできたし、原作キャラに白鳥エリカで関わったが最後、シナリオの強制力が働いて結局断罪、なんて流れになるのは避けたい。
それにただでさえ、高等部に上がってから、ちょっと不穏な気配がするのだ。
透子ちゃんには「本当に大丈夫ですから」と言い置いて、花山院と西門に背を向けないようにして私はその場を後にした。カニ歩きに見えてないといいなぁ…。
連絡をすると、制服のスペアは二十分ほどで届けてくれるとのことだった。担任の先生と一限目の体育の先生にはその旨を伝え、制服が届いてから遅れて授業に向かうことにした。さすがに良家の子息令嬢を預かる、俗に言うお金持ち学校のためセキュリティは厳しい。私本人がいないと荷物を預かるなんて事はしないだろう。事情を察したのか、はたまた白鳥家の力が幸いした遅れていくことが許可されたので、私は体操服にだけ着替えて更衣室で時間を潰した。
塗れた制服と交換に新しいものを受け取り、更衣室に置いてようやく体育の授業に向かう。バレーとテニスの授業だけはなんだか悪役として目覚めなきゃいけない気がするからあんまり気が乗らないんだけど、今はサッカーなんだよね。ボールは友達! 私、キャプテンになります!
まあ私の体育は成績は飛び抜けていいって程じゃあないのでそんなうまいことはいかないけれど、少なくとも楽しかった。とても。
――――教室に戻り、あの事件が起こるまでは。