001
事の起こりを語るには、まずは私という人物と、この世界についてから始めなくてはならないだろう。
幸いにも、私が元いた世界でも、今いる世界でも、世にも不思議な物語の語り口はおおむねひとつだ。
つまり、むかしむかし…………
あるところに、20代崖っぷちOLがいました。
とりたててかわいいわけでもなければ、かといって印象に残るほど奇天烈な顔をしているわけでもない、いわば平凡な女です。平日は毎日満員電車に揺られ、定時が来れば退社する。たまに残業はあっても、そう遅くなることなんて滅多にない。変わり映えのしない平穏な日々。けれど、その代わりに、たとえば地球が滅びるとか、そんな劇的もない。
そのはずだった。
私がそんな崖っぷちアラサーOLであったことを思い出したのは、花山院学園高等部に入学した時のことだ。やけに見覚えのある門構えを見上げた私は、バカデカい校舎を見つめながら首を傾げた。
もちろん、その理由は簡単に知れた。‟彼”が新入生総代として壇上で挨拶をした瞬間に、私の頭の中で、数々の記憶が蘇ったのだ。まるでシャボン玉が弾けるような衝撃だった。
だって、誰だって思わないだろう。
自分が、愛読していた少女漫画の世界で生きる日が来るなんて。
私が愛読していたのは『私たちには棘がある』という少女漫画だ。
稀代のお金持ち学校に、男装することを条件に特待生として入学した主人公が、メインヒーローと惹かれ合い……と、ここまでは普通の恋愛ベースの少女漫画。だけど主人公が男装までして学院に入学したのは、自分の兄を意識不明で寝たきりの状態に追い込んだ犯人を見つけるためだった――というサスペンス要素も含んでいるのである。
元々ミステリーが好きだった私は、この少女漫画にものすごくハマった。友達とも誰が真犯人なのかの考察でかなり盛り上がったし、メインヒーローと両想いみたいなもんなのに、兄のため、自分の気持ちに蓋をする主人公がいじらしいこと。
だから主人公を庶民ネタでディスり、金に物を言わせ、かつ女らしいねちっこいいびりで定期的に邪魔してくる、ライバルの白鳥エリカの存在によく気を揉んだものだ。彼女に主人公が実は女だとバレた瞬間はマジでこの世の終わりだと思ったもん。まあ結局主人公をいじめ倒していたことがバレて居場所がなくなり、おまけに白鳥家の大口取引先が主人公の兄を病院送りにした犯人とかで、一家まるごと共倒れ。「いつか返り咲きますわよ……そう、不死鳥のように……!!」という白鳥じゃねーのかよ的な迷台詞を雑誌で読んだ時はかなりスッキリしたなぁ。
……でもそれはあくまで、自分が主人公に肩入れする、読者だったらの話だ。
「なぜ私が白鳥エリカなの…………」
よりにもよって、ただの絶対悪じゃ~~~~~ん!
「シェークスピアかしら? 詩的だわ……」
「白鳥様って見目も麗しいけれど、内面も素晴らしいわね」
「さすが白鳥家のスノーホワイトですわ!」
現実逃避に窓の外を眺めながら漏らした絶望的な言葉も、白鳥家の令嬢が言うとなればプリンセスにまで格上げされるらしい。やめてくれよ~~まだ庶民の心は白雪姫と呼ばれることに順応できないんだよ~~。背中まで真っ直ぐ伸ばした黒髪に白い肌って、家柄が家柄じゃなきゃ貞子か日本人形ってからかわれる方がまだありえるし。まあ初等部の時に習っていたクラシックバレエで、白鳥家におもねった先生に「さすが白鳥家のオデットですわね!」と言われた時よりはマシになったかもしれない。
そう。
前世の記憶がある、ということに気が付いたのは入学式のことだけど、元々合わないなぁ、と思ってはいたのだ。
母が着せてくるゴテゴテのドレスも、クラシックバレエやらお茶やら何やらという習い事も。家がお金持ちだ、ということには早々に気が付いたけれど、いつ会社が立ち行かなくなるか分からないし、資格とか取っておくべきかしら……ともなぜか常々思っていた。二つ下の弟といえば、ノブレス・オブリージュを齢五歳にして悟っていたけれど。どうして同じような家柄に生を受けておきながら、弟と私は考え方がこんなにも違うのか、ずっと疑問だったけど、つまりはこういうことだったのだ。
はあ……よりにもよって、マジで白鳥エリカか……。
無意味に生徒手帳を確認してみる。白鳥エリカ。間違いはない。
肩を落とすと、不意に背後から声が掛かった。
「白鳥様、白鳥様はイギリス文学がお好きなのですか?」
ああ……クラスメイトからの視線が眩しい……私、前世ではシャーロック・ホームズが好きっていう理由だけで英米文学科に進学したけど、もうほとんど記憶にないんだってば……。
唯一記憶にあるのは、ゼミでピーター・パンを取り扱った時、「ピーター・パンは男根の神・パン神がモデル説」の発表をしたことぐらいの私。ピーターがモテるのは男性器の神だから、なんてトチ狂った発表をなぜしてしまったんだろう。あの時は天才だと思ったんだけど、そのあとしばらくの間、「男根の人」って呼ばれる羽目になってちょっとめげたことを思い出す。
でも今の私は白鳥エリカなのだ。みんなの理想像を裏切るわけにはいかない。私は優雅に(と思ってるだけかもしれないけど)微笑んだ。
「うふふ、そうですわね。トールキン、バリー、ルイス・キャロル、コナン・ドイル……」
「あら。白鳥様は夢や冒険のお話がお好きなんですのね」
「ねえ。意外ですわ」
しまった。とりあえず映画とかで観たことがあるものを挙げたら、ちょっと子供っぽいラインナップになってしまった。J.K.ローリングも挙げようと思ってたんだけどな。じゃあ、ええとうーんと…………。
「この辺りはついこの間まで弟に読み聞かせていたものですから……私個人の好みとしてはウルフの『オーランドー』がやっぱりお気に入りですわね」
「あら、わたくしもですわ!」
「カズオ・イシグロの『私を離さないで』も、読んでいて色々考えさせられましたけれど」
「まあ、白鳥様は博学でいらっしゃるのねえ」
「素敵ですわ……」
やった! この辺りは前世の記憶が功を奏した!
でも内容はほとんど覚えていないので、質問をされる前に新たな話題を探しておく。
あ。ちょうどいいところに……。
「そんなことより見て。花山院さまよ」
やや声を潜めて教室に入ってきた影を示すと、周囲にいたクラスメイトの女子たちが途端に色めきはじめる。
「きゃあっ!」
「ああっ、今日もなんて麗しいのかしら……!」
「まさか高等部で同じクラスになれるなんて思ってもみませんでしたわっ」
「これから授業も、ひょっとしたら委員会だって……」
「ダメよ薫子さん、気をしっかり持って! 気絶したらもったいなくてよ!」
「お、おほほ………」
きゃあきゃあと盛り上がるクラスメイトを尻目に、私は人知れずその渦中にいる人物へと視線を向けた。
染色せずとも色素の薄い茶髪の髪。ハーフだかクオーターだとかいう設定で、空を閉じ込めたみたいな水色の瞳。整った鼻筋、薄い唇。高い背丈も加えて、プリンス・オブ・花山院とよく書かれていたことを覚えてる。略称はカサプリ。その名も………
―――花山院平馬
苗字からも分かる通り、この花山院学園を運営している花山院グループのご子息だ。
見た目もよければ勉強、スポーツ、何をやらせても天下一。初等部、中等部共に新入生総代を努め、初等部から一緒の内部生からも大人気、中等部・高等部と入ってきた外部生からも……まあ、この様子を見ると人気なんだろうな。
平馬はしかも超優しいんだよね。いい人なの。ドエス俺様がはびこっていた少女漫画界に突如現れた優しさの権化で、優しすぎるあまり主人公とあと一歩近づくことが出来なかったり、普段は優しいのにたまに想いを抑えきれなくなって荒々しく主人公を抱きしめたりする姿に、前世では大変萌えたものです。
でも私は……
「でもわたくしは西門様も素敵だなぁと思いますわ……」
ぽっ。と頬を赤らめるクラスメイトに、私は思わず身を乗り出しかけた。わかる、わかるよ~~~!
少女漫画なので、例に漏れず当て馬という存在がいる。『わたとげ』ではそれが王子である平馬の親友・西門和道。武道の名門、西門家の次男で、初等部・中等部と剣道の大会で優勝してるぐらいの実力者。あだ名は武士。
王子様な平馬に比べると寡黙だし、心を開くまでは主人公にも当たりがすごいキツかったんだけど、その分心を開いてからのデレがすさまじかったんだよね……。おまけに主人公が男装してるってことに一番最初に気付いたのが西門で、何かと協力してくれて。むしろこの状況で主人公が武士のこと好きにならないってある?と正直思ってた。言わずもがな、私は王子より断然武士派です。
親友の二人がお互いのことを思いやりながら、それでも主人公のことを諦めきれない気持ちに、キュンキュンしたものだ。
でも困ったなぁ。せめてモブにでも転生してれば同じクラスなのも楽しめるけど、白鳥エリカの悪行を暴くのってこのメインヒーロー二人だから、出来ればあんまり近付きたくない。いや、(白鳥エリカに)生まれてこの方イジメに加担したりしたことはないけどさ!? これからもしないけどさ!? 一応念のためね。念のため。
「でもまさか二人とも同じクラスなんて……」
と、憂鬱の意味でため息を吐くと、「わかりますわ白鳥様……」と続ける女の子たち。知ってるよ。それ、私の意味と逆だよね? 歓喜の意味だよね?
まあ、そうは言っても私・白鳥エリカという存在も、女子の中では一番の権力者と言っていいだろう。だからこそ私の周りの女の子たちはそんなに表だって二人に話しかけに行ったりはしないと思うし、同じクラスといえどそう絡むものでもないはずだ。細々と視界の端から、男装している主人公と王子&武士の三つ巴を見られれば満足です。
そう。私の願いは、そんなささやかなものだけだ。
悪事には加担せず、両親には早々に問題の取引先を切ってもらい、でも一応万が一に巻き込まれた時のことも考えて資格を取った上で別口に就職する。そして、いつかは素敵な旦那さまと一緒に幸せな日々を……うふふ。
――――――そう、思っていたのに。