マシューのこと
十年以上も前に図書館で借りて読んだ本で、題名も何も覚えていない。確か新聞社編の、いじめや非行に関する記事をまとめたものだった。
その中の二つの事例が、心に残って忘れられなかった。
二人の少年はとてもよく似た境遇にあった。早くに両親を亡くし施設で育っていた。どちらにも良くしてくれる民生委員さんみたいな人がいた。
中学辺りから誘われるままに非行に走るのも同じ。多分、十代後半くらいまではとても似通った道を歩んでいた。
この二人の行く道が違えたのは、本当に些細なことに思えた。
一人は、非行少年から極道の世界に入り、上からの命令のまま強盗殺人を犯すことになる。
一人は、たまたま遊びに行った先輩の家で、一冊の本に出合う。その高名な建築家の写真集に魅せられる。その先輩の紹介でとび職から建築の世界に入り、独学で一級建築士の資格を取り、自分の工務店を持てるほどになり、かつて自分が窓ガラスを叩き割って回った母校に呼ばれて、子どもたちを前に講演会を頼まれるような町の名士になる。
彼らの運命を分けたのは?
育った環境ではなかった。道を外れていく自分を心配し、見守ってくれる大人は、どちらにもいた。強盗殺人を犯す前日に、彼はその民生委員さんの家にふらりと顔を見せに行っている。情が通じていない訳ではなかったのに。結局彼は、自分の意志とも言えないような殺人で自分の人生を詰む。
未来が見えない。希望なんて見えない中で荒れまくっている時、とても美しいものに憧れるということが、生きる糧になるのではないかと思ったのです。
マシューが大鴉に惹かれるということが、理解され難かったなぁ。多分、鳥の巣くんがいるから、なのだろうけれど。
愛情や優しさを注がれるだけでは駄目。顔を上げて生きていくには、「憧れ」が必要、という感覚は一般的ではないのでしょうか?
恋愛でも、子育てでも、友情でも、何でもそうだと思うのだけど。
誰かに与えられることではなく、自分が求めることが生きることに繋がると思うのだけど。
マシューが大鴉・吉野に求めたものが、吉野という人との関わりではなく、吉野がそこに存在すること、「実在」であることだから、理解が難しいのかな。自分という存在が不確かなマシューにとっての、確かな存在。
想像し難いでしょうか。絶対的な自由を感じさせてくれる存在というものが。
現代において、神に焦がれる感覚は解らなくても、音楽ライブや、生の芸術、などの圧倒的な存在感に触れる時、巻き込まれるような感覚、一体感、変容、そんな感覚を得ることはあるはず。
映画の中で、「これが私の神よ」とイヤホンを渡し、そこからポップな曲が流れてきて、落ち込んでいる時に励ましてくれて、元気をくれるもの、とクリスチャンの彼に無神論者の彼女が言うシーンがあるのだけど、そんな感覚で、マシューも吉野のことを捉えている。
一時、自分自身を忘れ、巻き込まれる。
自分を囲む世界が全てではない、と教えてくれる存在。その横に並ぶことは不可能でも、せめてその方向に顔を向けていたいと、自分自身の視界を覆う自らの手を下ろさせてくれる存在。
信じるということはとても依存的な行為なのに、信仰は、依存にならない自律的なものでもある。
対象に何かを望むのではなく、向き合う自分の在り方を、ひたすら考えるのです。
救済というものを、手を差し伸べることと考えられる人は、きっと強い人。
私にとっては、俯いていた顔を上向けること。自分の足許から、自分以外のものに視線を移すこと。歩き出す方向を見据えて初めて、第一歩が踏み出せると思うからです。
マシューの吉野への想いが解らないと、きっとこの物語はなんのこっちゃで、面白くもなんともないのだろうなぁ。




